6-B 『かしこい犬の話』


「お見合いをしたあとに『この人だ』と確信して、結婚に踏み切る際の決め手ってなんなのでしょうか?」


 髪結いのマリーはイヴ・ヴァネルの髪を整えながら、そんな疑問を口にした。イヴはそれについてじっくりと考えを巡らせたあと、微かに瞳を細めて次のように答えた。


「お見合いで出会った場合、相手をフラットに見るのって案外難しいわよね? 知り合ってすぐに『この人と結婚するのか?』『しないのか?』という強烈な二択を迫られる。厳しく判断しようとすればするほど、目が曇っていくのかもしれないわ。――結局、相手の容姿で判断してしまうのかも」


「一目惚れってあとになって『こんな人だったのね』っていう揺り返しが必ずきますよね。スタート地点の印象が良すぎると、大抵あとはガッカリするだけっていう」


 体験談なのか、マリーの口調には実感がこもっている。イヴはくすりと笑みを漏らしてから、次のように続けた。


「けれど兆(きざ)しはどんな時にも必ず表れるものよ。要はそれを見分けられるかどうか」


「お嬢様がおっしゃっているのは、スピリチュアルな概念ですか?」


 マリーは『運命の相手とは赤い糸で繋がっている』というような、女の子が信じたがるその手の話には懐疑的であった。――見ればこの人だと分かるだなんて、そんなことはありえないとマリーは思うのだ。


「いいえ、もっとずっと確かなものよ。――私が見つけた兆しの中で一番ユニークだったのは、犬の挙動ね」


「ワンちゃんですか?」


 意外性にマリーが目を丸くする。


「ええ、そう」


 イヴは当時のことを思い出したのか、楽しそうに頷いてみせた。


「――相手に何かを悟らせるのに、必ずしも言葉は必要としない」


 イヴは不思議な犬を連れて来た男性との縁談について語り始めた。




***




「顔合わせは、和やかに始まったの」


 当日のよく晴れた空を思い出し、イヴは眩しげに瞳を細める。


「お相手の男性は私よりいくつか上で、二十代前半。弓型の眉に、柔らかな瞳が印象的な方だった。――強烈な何かがあるタイプではないのだけれど、意味ありげに相手に視線を据えるところや、口角を片方だけ上げる独特の癖が、なんともいえない余韻を残すのよね。情感豊かで、佇まいに華があるというか」


「モテそうな方ですわね」


 物柔らかな顔立ちをしていても、表情の作り方一つで、途端にその魅力を底上げするタイプの人がいるものだ。


「そうね、とても感じの良い方だったわ。それにその方、妹さんを連れていらしてね」


「――ははぁん、分かりましたよ」


 先が読めたとばかりに、マリーが皮肉げに口の端を持ち上げる。


「その子は妹さんじゃなくて、年下の隠れ恋人だった。――どうです? 違いますか?」


 お見合いに連れて来ている時点で、まったく隠す気がないじゃないの。イヴは呆れたような声を出した。


「縁談は伯母さま――つまり公爵家の女主人が仲介しているのよ? お相手の方が問題を抱えているとしても、公爵夫人に失礼があってはならないと、初っ端くらいは上手くやるわよ」


「そうですかぁ? これまでの方は、出会い頭から全開でやらかしていた気がしますけれどね」


 マリーが半目になり、イヴの主張に異を唱えてくる。


 ――そうだったかしら? イヴは動揺し、瞳を彷徨わせた。そう言われてみると、そんな気もしてきたわね。


「とにかくね、その男性は道理に適った態度を取ってくださったわ」


 あの日イヴはいつになく楽しい気持ちになったのだ。


「その方は妹さんと愛犬を連れて、遠路はるばる当家にいらっしゃったの。当家に何泊かされたあとは、近くを観光して回るつもりだとおっしゃっていた」


「妹さんはおいくつですか?」


「七つよ」


 ブルネットの長い髪を無造作に下ろした、あの子の生き生きとした表情が脳裏に浮かぶ。


「とてもチャーミングな女の子だった。馬車を降りた彼女はえくぼを浮かべて、私の目を見て挨拶してくれたの。『こんにちは、お招きくださり、ありがとうございます』――きっと何回もその台詞を練習したんでしょうね。上手く言えたあとは照れてしまって、手を後ろに組んで身体を揺らしていたわ。その子供らしい仕草が、とても可愛らしくて」


 当時のことが思い出されて、自然と頬をほころばせると、マリーも女の子の様子が想像できたのか、つられたように笑みを浮かべている。


「わざわざ妹さんを連れて来てあげるなんて、優しいお兄様じゃないですか。きっと観光して回るというのも、その子のためなんですね」


「そうね。兄妹仲はとても良さそうだった。彼が自分自身を良く見せようと取り繕っていたとしても、妹さんのほうは小さな子供だから、他人の前で上手く演技はできなかったはず。その女の子は伸び伸びしていて、普段から丁寧に扱われているのが分かるような、子供らしい子供だった」


 小さく頷きながら話を聞いていたマリーであるが、そこでふとあることに気づいた。


「ああ、その方、ワンちゃんを連れていらしたのですよね? それが例の――兆し?」


 ――そうそう、ここで犬が問題になってくる。あの馬鹿らしい騒動を思い出し、イヴは思わず眉間に皴を寄せた。


「女の子が挨拶したあと、馬車から彼らの飼い犬が飛び降りて来た。胴の長い茶色い毛並みをした中型犬で、こちらを見上げる瞳には、どことなくふてぶてしい感じがあった。目の上にある窪みが下がり眉のようにも見えて、それもあってなんともいえないおかしみのある顔をしていたわね。まるで道化芸人がわざと真面目ぶっているような、とぼけた風情で」


「なんか想像してたのと違う」


 マリーは複雑な表情で呟きを漏らす。――可憐な少女と、愛らしい白い子犬というような、微笑ましい組み合わせを想像していたのに。そんなトリッキーなコメディ犬の登場など、誰も求めていない。


「――その犬のおかしなところは、顔だけじゃなくてね?」


 なんと説明したものかと、イヴは言葉を選びながら続けた。


「髭の生えた男性を見ると、なぜか過剰な反応を示すのよ」


「無駄吠えするとか?」


「そんな単純な話じゃないわ。ほら、当家の使用人にも、髭の生えた男性がいるでしょう?」


「ええと、はい、庭師のおじいさんとか――あとはそうだ、執事さんもですね」


「彼らが近くに来ると、その犬は私の背後に回り込んで、背中を使ってグイグイ前に押すのよ。それも、ものすごい力で! 私は何度かバランスを崩して、彼らに抱き着いてしまった」


「悪戯坊主ですねぇ。――あ、雄で合っています?」


「ええ、合っているわ」


「そのワンコが髭の男性に何かトラウマがあるのなら、自分だけとっとと椅子の下にでも隠れてしまえば、それで済みそうですよね? なぜお嬢様を差し出すような真似をするのでしょう? もしかしてキューピッド役を買って出ている? だけど髭男性限定でお節介を焼くのがこれまた謎だし――もしかして、お見合い相手の男性は髭を伸ばしていた?」


「いいえ、髭はなかった」


「ますます謎だわ」


「そうね」イヴは頬に手を当て、困惑した様子で視線を彷徨わせた。「あれは本当に不可思議な行動だったわ。アルベールが近くにいる時は、悪戯をする前に彼が犬を確保してくれるのだけれど、犬(あちら)もそれを察したのか、巧みにアルベールを避けてそういう行動に出るの。正直、たまったものではなかったわ。肉球のおかげで足音もしないし、凄腕の暗殺者みたいに背後を取って、小さな身体でタックルをかましてくるんですもの。悪夢そのものだった」


「よくアルベールさんが怒りませんでしたね」


 マリーが解せないというように溜息を漏らすので、イヴがその疑問に答えた。


「お嬢様が大怪我をされては困ります――そう言ってアルベールがクレームをつけにいってくれたの。そうしたら妹さんが出てきてね? 悲しげな顔で『ティッキーはいつもとってもいい子なのに、ごめんなさい』としょんぼり謝るものだから、なんだか可哀想になってしまって。私が横から口を挟んで、『大したことないわ。もういいの』と収めてしまったのよ。アルベールは納得がいっていないようだったけれど、私が出しゃばった形ね」


「それで、どうなりました?」


「私を足元から転ばせようとする例の悪戯は、それきりピタリとやんだわ。女の子がティッキー――その犬に言い聞かせたのかもしれないけれど、考えてみると、言い聞かせて理解できるって、相当賢いってことよね? だから犬は意図的に悪戯をしていたことが分かった」


「それって、余計に性質が悪くないですか? お馬鹿でやらかしているよりも、ずっと」


「ええ、私もそう思った」イヴは苦い顔になった。「それから犬は、新しい悪戯を始めた。――メイドのスカートに潜り込むのよ。しかも潜るだけでは飽き足らず、飛び跳ねたり、前足でドロワーズを引っ掻たり、スカートの中で大暴れするものだから、ティッキーが通るたびに蜂の巣をつついたような騒ぎになって」


「おやまぁ」


「それで侍女のリーヌが、犬を抱っこしてクレームをつけにいくと……」


 イヴがその先を言い淀むと、マリーが察したように眉尻を下げる。


「女の子が悲しげに詫びるわけですね?」


「そうなの。いたいけな少女に涙目で謝られると、さすがのリーヌも強く出れず、犬を返してすごすご退散してきたわ。女の子は犬が悪戯をするたびに、『ティッキーはいい子なの』って言うのだけれど、当家一同は真逆の感想を抱いていた。リーヌなんかは『あの犬、背中にチャックがついていて、中におっさんでも入ってるんじゃない?』なんて憎まれ口を叩いていたくらいよ」


「言い得て妙ですね。確かに正体不明の何かをその犬から感じます」


「それから晩餐の時に、こんな一幕があったの。その女の子が『野菜は苦手なの』と申し訳なさそうに呟いて、グリーンピースを器用により分けていのだけれど、そのいかにも子供っぽい仕草がなんだか可愛らしく感じられてね。――そして翌日、ティッキーが食事をしているところを見たのだけれど、野菜をよけていたのよ。牛肉と茹でた人参を皿に出されたティッキーは、鼻先で人参の角切りだけ器用に横に押しやり、肉だけを頬張っていた」


「あらまぁ、お嬢ちゃんに行動がよく似ていますねぇ」


 マリーが感心したようにそう言うので、イヴは鏡越しに微笑んでみせた。


「私もそう思って、『あなたたち、とてもよく似ているのね』と女の子に言ってみた。すると彼女は屈託なく笑って、こう答えたの。『言ったでしょう? ティッキーはとってもいい子なの。頭がいいのよ! 本当は、人参も大好きなのよ』って」


「どういうことですか?」


 マリーの顔に困惑が広がる。


「ティッキーは賢い犬で、人が何かを教えると、すぐに覚えてしまうらしいの。女の子はそれを面白がって、『私の動きを見て、真似するのよ?』とティッキーに教え込んだ。ティッキーはそれを繰り返すうちに、身近な人の真似をする癖がついてしまったようで」


「それじゃあ、数々の悪戯って、もしかして」


「女の子は無邪気ににっこり笑って、こう続けた。『このところちょくちょく、うちにお髭の生えたおじさんが来ていたの。その人はいつも怒っていて、『娘をはらませたのだから、責任を取れ』ってお兄様を叱っていた。お兄様はそのおじさんが苦手みたいで、その人が来ると、私の後ろに隠れてしまうの。それで背中をぐいぐい押してね、『あの人を上手く追い返してくれないか?』って頼むのよ。だから私がお兄様の代わりにおじさんとお喋りして、いつもその人に帰ってもらっていた」


 ティッキーはそれを見て、『髭の男性が近づいて来たら、ご主人様のためになんとかしなければならない』、『そしてそのためには、この場所で一番偉い女主人に対応してもらう必要がある』ことを学んだ。


 だからヴァネル伯爵邸でも同様の行為を繰り返していたのだ。その後女の子からたしなめられたことで、『なんだ、ここではしなくていいんだ』とティッキーは悟ったようである。


「なんてこと! そんな小さな子が『はらませる』という言葉を口にするだなんて!」


 教育上の観点から、マリーは顔を青くしている。イヴも後味の悪さを覚えていた。


「その子は言葉の意味が理解できていないから、兄がやらかしたことがなんなのか、よく分かっていなかった。女性と軽い喧嘩をして、その子のお父さんが怒っているくらいに考えていたみたい。――だけど大人になって、その意味を悟る瞬間がくるのよね。そう思うとあの兄妹は、今は仲が良いようだけれど、この先どうなるのだろうかと複雑な気持ちになったわ」


「想像するだけで、心臓が痛いです」マリーはがくりと肩を落としている。「それでお見合いはどうなったのでしょう?」


「いつものとおりよ。アルベールが話をつけたわ」


「どんなふうに?」


「さぁ?」


 イヴはさして興味もなさそうに、軽く肩を竦めてみせた。


「結論を言えば、翌日兄妹は当家を去ることになった。去り際、女の子が別れを惜しんでくれて、私も寂しい気持ちになったのだけれど、アルベールが私のそばに来て耳元で囁いたの。――『あの男性は女性のスカートの下に手当たり次第潜るのがご趣味のようですから、早急にお引き取り願うことにしました。大切なお嬢様に、そのような真似をされては困りますので』と」


 感じの良い男性だったけれど、どうにも女癖が悪かったようだ。女性慣れしていたからこそ、妹と接する際にもそれが生かされて、妹は兄に懐いていたのかもしれない。


「お嬢様のスカートがその男性にめくり上げられる前に、犬が実演してくれて良かったですね」


 マリーが遠い目になりそんな呟きを漏らすので、イヴは小さく頷いてみせた。


「女の子はずっと本当のことを言っていたのね。『ティッキーはいい子なの』――確かにそうだわ。だって私はティッキーほど賢い犬には、あれ以来、お目にかかったことがないんですもの」


 茶色い毛並みと、あのとぼけた風貌を思い浮かべながら、イヴはしみじみと話を締めくくった。




***


 かしこい犬の話(終)


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