6-A お嬢様とリンドウ


 ――ゲームに勝つコツは? 盤上を眺めながら、イヴは考える。


 それはゲームに勝とうとしすぎないことかもしれない。のめり込んでいる時は、きっと勝ち方が分かっていない。勝つ者は気負わずとも勝ち方を知っているものだ。


 盤面を挟んでいるのは、父のヴァネル伯爵である。くっきりと意志の強そうな眉に、しっかりした作りの鼻、頑固な印象を与える顎のライン。一見強情そうであるけれど、彼の穏やかな瞳からは、深い知性の輝きが感じられる。


「――悩みがあるのかい、イヴ」


 独特の抑揚をつけた、ゆったりした口調で父が問う。イヴは騎士をかたどった白い駒を右手の人差し指で弄びながら、チラリと父を見遣った。


「アルベールはとても優秀だわ。それだけに私の傍に留めておいていいのかしら、と思ってしまうの」


 これは少し卑怯な言い方かしら。本心はもっとずっとドロドロしていて、手を突っ込んでかき混ぜてしまったら、きっとイヴ自身にも制御不能になってしまうだろう。けれども彼を案じているというのも、嘘ではない。


 ……この胸の微かな痛みは、罪悪感から来ているのだろうか? あるいは憂いから? それともほかの何かから?


 口元に笑みを浮かべた父が、諭すように言葉を紡ぐ。


「確かに彼は難しい立場に置かれている。今はじっと耐える時なのだろう。しかし私はこう思うんだ――日々じっとそこにあり、停滞しているように見えたとしても、それは無駄な時間などではないと。次の動作のための準備をしている」


「今はここにいるけれど、彼はそのうちに、相応しい場所に旅立って行くということ?」


「いずれ何かしらの変化は訪れるだろう。それは望むと望まざるとに関わらずね」


 告げられた内容は星占いみたいに漠然としているのに、鋭く真理を突いているような気がした。――大きな流れには決して逆らえない。何かを身勝手に望もうが、お前の思うとおりにはならないんだよ。そんなふうに釘を刺されたみたいで、イヴは拗ねたように俯いてしまう。


「私は努力が足りていない? ――ねぇ父さま、どうして私に結婚するよう命令しないの? 伯母さまが縁談を勧めてくるけれど、父さまはいつだって、それについては何もおっしゃらない」


「だってそれは、アルベールが上手く取り仕切るだろう?」父がさもおかしそうに笑う。「私の出番なんてあるのかい?」


「だけど」イヴはなんだか泣きたいような気持になった。「父さまが何もおっしゃらないと、責められているような心地になるわ。縁談はいつも上手く行かないし、私は誰にも必要とされていないみたい」


 ヴァネル伯爵は驚きと共に、可愛い一人娘を見遣った。


 父の深い色合いの瞳が揺れたので、彼の感情が大きく揺さぶられたのが、対面にいるイヴにも伝わってきた。


「――可愛いイヴ、私の娘」


 ヴァネル伯爵は大きく厚みのある手のひらを、イヴの頬に伸ばした。


「子供の頃、君は臥せりがちで、長くは生きられないかもしれないと医者に言われていた。――私は毎日神に祈ったよ。『どうかこの子が、一日でも長く生きられますように』と。平凡でもいい、苦しまずに、ただ生きてくれればそれでよいのだと。君の健康以外、何もいらないと私は思っていた。それは今も変わらないんだ。今こうして元気になって、大人になった君が目の前にいる。そして喋ったり、笑ったり、少し拗ねたりしている。だからもうこれ以上、望むことなど何一つないんだ」


 イヴの白い頬にさっと朱が差した。気が急くまま席を立ち、父のそばまで行って、甘えたように抱き着き、涙を流す。


「父さま、愛してる。変なことを言って、ごめんなさい。最近の私は少し感情的になり過ぎね。盤上の駒を眺めるように、落ち着いて物事を見られたらいいのに」


 ヴァネル伯爵は優しい手つきで娘の背を撫で、笑み交じりに慰めてくれた。


「感情的になるのは、何も悪いことじゃない。君は若いのだし、もしも何事にも動じないのだとしたら、それはそれで心配なくらいだ。イヴ――君が不安に思っていることは、なんとなく分かっているつもりだよ。私からアルベールに確認してみようか? 彼がどういう心積もりでいるのかを」


 これに驚いたイヴは抱き着いていた手を緩め、瞬きしてから父の瞳を見返した。深い琥珀色の瞳が、気遣うようにこちらを見返している。イヴは混乱している時に、深い知性が秘められた父の瞳を見ると、いつもすぅっと頭が冷えて落ち着くことができるのだった。だからこの時もほとんど意識せぬまま、


「いいえ」


 と答えていた。


「いいえ、父さま。――訊くのなら、私が」


「そうか」


 父は苦笑いのような、それでいてどこか安堵したかのような複雑な笑みを浮かべた。


「アルベールは私にとって可愛い甥っ子だ。私は彼のことが好きだよ」


 父はこの時、アルベールの優秀さを引き合いに出さなかった。有能な人材だから側に留めておきたいというのではなく、アルベール個人のことを好きだと父が言ってくれたのが嬉しかった。


「私もよ。私も彼が好きだわ」


 イヴは曇りのない笑顔を浮かべた。それはとてもチャーミングな笑みだった。


 ふとイヴの目に、花瓶に生けてある鮮やかな青が目に飛び込んできた。――ああ、そうか、もうリンドウが咲く季節なのだ。リンドウのくっきりした青を見ると、決まって彼を思い出す。


 イヴは無性にアルベールに会いたくなった。――ただ会いたい。答えが欲しいのではなく、顔が見たかった。今無理に何かを進めたいとか、そういう感情は不思議と湧いてこなかった。父はアルベールのことを停滞期と称したが、それはもしかすると、イヴ自身にも当てはまるのかもしれなかった。


 静かにそこに留まっているように見えても、時間は誰のもとにも平等に流れている。砂時計の砂が少しずつ落ちて、やがてなくなるみたいに。


 その時はいつか訪れるのだろう。けれどそれまでは、彼は最も信用できる従者であり、イヴだけのアルベールでいてくれる。


 イヴは父に別れを告げて、彼に会いに行くことにした。




***




 アルベールはいつも優美で完璧に見えるけれど、年に一度、リンドウが咲く時期だけは、少しだけ様子がおかしくなる。


 水の入ったグラスを持ち、庭のガゼボに向かうと、そこにはどことなく気だるげなアルベールが一人腰かけていた。いつもはシャンと背筋を伸ばしている彼が、今日は身体の軸を傾け、アンニュイな様子でテーブルに頬杖をついている。髪は風で少し乱れて、退廃的な雰囲気がその横顔に漂っていた。


 イヴがそっと近寄って行くと、彼がゆっくりと振り返り、月の光のように朧な輝きを湛えた瞳で、こちらを見上げてきた。口元に浮かぶのは淡い笑み。――それはいつもと違う人を食ったような、艶めいた笑みだった。彼は悪戯な瞳で数秒イヴを見据えてから、微かに小首を傾げてみせるのだった。


「――イヴ」


 低く掠れるような声。彼は普段彼女のことを『お嬢様』としか呼ばない。


 久しぶりに名前を呼ばれたことに動揺を覚えたイヴであるが、平静を装いながら、水のグラスを彼の前に置く。卓上には酒瓶とグラスが置いてあり、アルコール度数の強い琥珀色の液体が、月明かりを反射して鈍く輝いていた。


「私も相席していいかしら?」


 何気なく尋ねたつもりが、声は思ったよりも小さく響いた。彼が断りそうな気がして、懇願するように彼の瞳を覗き込んでしまう。


 アルベールはそんな彼女の心のうちに気づいているのかいないのか、ゆったりと微笑んでから、向かいの席を手で指し示した。


「別にいいけれど、今夜は冷える」


 イヴは曖昧に微笑んでみせた。――やはり彼はイヴにはここにいて欲しくないのかもしれない。『冷えるから、もうお帰り』という、これは遠回りな拒絶なのかも。


「あなたはお酒だけはあまり強くないのよね」


 向かい側に腰かけたイヴは、からかうように彼を見つめた。


「君と比べたら、誰だって」


 ふっと悪戯に笑ったアルベールであったが、視線を彷徨わせてから、なんだか微妙な顔つきで口元を押さえた。


「――まぁ、そうだな、認めるよ。僕は酒が弱い。だけど」


「何?」


「変な気分だ。これは酔っているせい?」


「私には分からないわ」


「こうしていると、なんだか昔を思い出す」


「そうね」


「明日になったら、ちゃんと元に戻る。今夜はなんだか調子が出ない」


 本人の申告どおり、今夜の彼はいつもと大分様子が違った。言葉遣いはなんだか飄々として掴みどころがなく、少しユーモラスですらある。語るリズムには妙な脱力感があり、聞く者に不思議な酩酊感を与えるのだった。


 ――どちらが本当の彼なのだろう? 考え出すと胸が騒いで、落ち着かなくなった。


「別に、ちゃんとした人に戻らなくてもいいのよ」


 イヴは冗談めかして言おうとして、失敗した気がした。喉がつまって、なんだか切羽詰まったような声が出た。


「あなたは昔とはずいぶん変わったわ」


「良いことだろう? 昔の僕はろくでなしだったよ」


「そうかしら。私はそうは思わない」


 本当に、そんなふうには思わないのよ。――昔のあなたはもっと尖っていて、剥き出しで、けれどその分隙があった。


「……今の僕は嫌い?」


 アルベールは意地悪だと思う。どこか突き放したような、それでいて甘いような視線でイヴを射抜くのだから。懐に誘い込んでいるようで、その実(じつ)、巧みに距離を取る。――彼はとっても意地悪だ。


「私も飲んでいい?」


 イヴははぐらかすようにそう言って、アルベールが飲んでいた飲みかけのグラスに手を伸ばした。


「あなたは私が持ってきた水を飲んで。少し酔いを醒ましたほうがいいわ」


「ちょっと待ってくれ。君に酒を与えるのはもったいないな。逆さにして地面に零しているようなものだ」


 ちょっとそれどういう意味よ?


「失礼ね! ちゃんと味わっています」


「僕にも残しておいてくれ」


 拗ねたように未練がましく言うさまが、なんだか子供じみていて可笑しかった。


「いいからあなたは水を飲んで」


 イヴは手酌でグラスに酒を足し、口に含んだ。いつもよりほろ苦く感じるのは、なぜだろう。


 すると彼が懐に手を入れ、「そうだ。カードゲームをしないか?」とカードを取り出して言い出すので、これだから酔っ払いはとイヴは思った。話になんの脈絡もない。だというのに少年みたいに悪戯に笑っているのだから、性質が悪い。


「どうしてカードなんか持っているの?」


「話せば長いんだ。なんていうか、とにかく……」


 彼は言い淀み、眉間に皴を寄せて、口元にもどかしそうな笑みを浮かべる。


「ああもう――面倒だから説明はいいだろう? 僕がポケットにカードを入れてようが、クッキーを入れてようが、小さな猫を飼ってようが、そんなのはどうだっていいことだ」


 何それ。


「どうでもよくないわ」


 気になるわ。


 アルベールがこちらを見てくすりと笑う。


「とにかくゲームをしよう」


 やはり彼は大分酔っているらしかった。こんなに支離滅裂なのも珍しい。悪戯っ子のように笑う顔も、すごく久しぶりに見た気がする。


 イヴはなんだか毒気を抜かれ、肩を揺らして笑い出してしまった。


「いいわ、ゲームをしましょう」


 その夜の彼は失態続きで、終始おかしな感じだった。カードを数え間違ったり、どぎつい冗談(ジョーク)を言ったり。


 イヴは時々本気で吹き出しながら、彼の戯れにつき合った。


 夜が明けたら、魔法が解けるように、いつもの彼に戻るのだろう。――まるで、うたかたの夢のように。


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