第21話 性欲に負けない綺麗な愛、実の愛

姫奈は龍平に背を向けて小声で吐く。


「それにしても馬鹿な男。」


 ところで、小説とは作り手が読者になにかを伝えたいときに書かれるものだ。真実の愛というものがあるにもかかわらず、大衆はそのことに気が付いていない。 

 龍平はそれが如何なるものなのかを訴える為に恋愛小説「無題」を書きたいのだという。


「素晴らしいことね。では、あなたのいう真実の愛とはどのようなものか教えてちょうだい。」


 姫奈の問いかけに龍平は大変困った顔をする。なぜかというとその真実の愛とやらが自身でもまだ理解出来ていないと言う。


「あなた、自分でも理解していないものを描こうと思っていたの。これほど呆れることもないわ。それでは読者に伝えることも出来ないじゃない。いいえ、描くことすら出来ないじゃない。」


 幻影くらいはあるのだ。斗真と夏苗という人物とふたりの置かれた只ならぬ背景を明快に綴っていれば、いつか正解に辿り着くものだと言いわけをした。しかし、これは龍平の言いわけの半分に過ぎない。僕と姫奈が愛を深めていけば正解に行きつくものだと考えている節もあった。


「気の向くままに書き続けていればいずれ書の中の人物が意思を持って動き出し、世界が回るとでも思っていたのかしら。そんな流儀で目覚ましい小説を書くことが出来るのは一握りの天才と呼ばれる人だけよ。まずは斗真と夏苗の個性を練り直しなさい。なにが好きでなにが嫌いなのかを明らかにしなさい。どんな芸術が好きなの。どんな思想の持ち主なの。得意なこと、苦手なことはなんであるの。それを決めたら最後にふたりの恋愛観というものを形づくりなさい。」


 あの夏の日を想い出させるようなふたりの遣り取りは毎日続いた。ふたりが共に小説を描くことを協働とわたしは言ったが誤りだったかもしれない。師が出来の悪い弟子を鍛え上げているような現場であった。


 不出来な弟子は師にあらがうこともなく真面目に指導を仰いだ。言い付けを守って斗真と夏苗の持ち味を練り直した。それが独創的であれば不服を唱えられることはないはずなのだが、師は斗真の恋愛観にかかわる叙述を視認したときに、しかめ面になった。弟子の叙述によれば斗真は夏苗に対して性欲を感じないという。


「斗真は夏苗を愛しているのでしょう。それなのに欲情しないとはどういうことなの。」


 斗真は真実の愛を目指す者だから性欲など持たないのだと龍平は申し開きをする。真実の愛とは性欲などに振り回されるものではないと熱く口述するのだ。姫奈はとても口惜しそうな面持ちをして、天を仰いで嘆息した。


「わたしは小説にリアルを求める必要はなく、リアリティさえあればいいとまさしく言ったわ。ただし、愛と性欲を切り放すという発想はリアリティすらないのではないかしら。性欲のない恋愛をあなたに描くことができるのかしら。」


 厳格な抗議であったが龍平はいつになく自信を持って応じた。なぜなら斗真は自分と同じであるから。僕こそが性欲に振り回されない愛を有する見本なのだからと応えた。


 龍平は真に姫奈のことを愛しているという。いつも抱き締めたいし、接吻もしたい。可憐で愛おしい容姿をしている姫奈を傍でずっと見詰めていたい。会えないときには写真を味わい想い出に浸りたい。姫奈は心から可愛らしい。この世界で一等である。理屈ではなく感性や感受性を通じてそう判断しているのだと言う。

 

 とはいえ、毎晩姫奈を抱きたいかと言えばそんなことはないと言うのだ。女として色気を感じないわけではない。清らかな姫奈を汚したくないとかおためごかしを言うつもりではない。姫奈に情欲を憶えないのだ。

 

 龍平は自身のことを性欲の強い人間だと自覚している。それに女好きだということも。実際、学校や街で少し色めいた女とお目にかかったらすぐに悶々とする。性欲に駆られる。隙あれば毎晩女と性交がしたい。龍平はそんな性癖の持ち主だ。とはいえ、なぜか姫奈と交わりたいと焦がれたりはしないのだ。姫奈は愛の対象ではあるけれど、性欲の対象ではないというのが龍平の主張だ。

 

 龍平の申し開きを聴いている姫奈は冷たい目をしていない。なるほどと龍平の申し開きを汲み取ったような顔色をしていた。だが、神経がいつでも顔色に出るとは限らない。


 龍平は姫奈の目が冷めていないから安心し、落ち着いて独自の主張を続行した。愛着のない女と性交したくなり、慈しむ姫奈を求めないのが自分でも奇妙なのだと。


 おそらく自身が姫奈に抱いている情熱は大衆がのたまう愛というものとは異質なものである気さえする。


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