第20話 少女曰く「それにしても馬鹿な男」

 十月になり、学び舎に学生達が戻ってきた。多くの学生にとっては自由とは山巓の空気に似ているのだろう。大学で講義を受けたり、ときには横着してつるんで気晴らしするくらいがちょうどいいのだろう。義務が多くてもいけないが、自由が多過ぎても息苦しい。


 例のふたりはと言えば、相変わらず文芸倶楽部の部室で時間を潰すことが多かった。あまりふたりきりでいることに執着はないようだ。もちろん、ふたりで出かけることもあったが講義のある日は陽が暮れるまでここにいた。この部屋の空気と仲間を好んでいるのだろう。


 文芸倶楽部の面子もどうやらふたりが交際しているようだと気が付いていた。姫奈が作ってきた弁当をふたりして部室で食べているところに遭遇した者もいれば、公園で手を繋いでいるときに出くわした者もいる。


 ふたりは交際していると宣言するつもりはなかった。その代わり隠し通すつもりもなかった。周りがどう解釈しようが構わないというのがふたりに共通した気質だった。ただ、颯太だけはある日龍平の肩を叩いて、おめでとうと言ってくれた。


「そろそろ冬の発表会の準備をしなくてはならないわね。」


 ふたりきりの部室で、姫奈は言った。

 そうだ。年末には自身の作文を部員全員に読んで貰うという行事があるのだ。


「あなたは当然、恋愛小説「無題」を発表するのでしょう。」


 そんなつもりはなかった。発表会には別の短編小説でも書いて臨むつもりであった。


「それはだめよ。もったいないわ。あれは是非人に読ませるべき小説よ。横着しないで発表会までに仕上げなさい。」


 龍平にとってあの作品は特別なのだ。初めて手がける小説だからという他にも格別な思い入れがある。期限など設けずにゆっくり時間をかけて納得のいく仕上がりにしたいのだ。


「あなた忘れたの。あなたの能力は崖っぷちに立たされないと存分に発揮されないのよ。締切りを定めないなんて怠惰なだけよ。いいこと。必ず発表会には間に合わせなさい。そして、みなに読んで貰うことを目標となさい。」


 姫奈の言が身に沁みたようだ。龍平は創作をしたいと欲してはいるが、甘えていることも意識していた。漫然と時間を食潰していたのだ。そんな体質がいい加減嫌になっているのも間違いない。だから彼は崖へと一歩を踏み出した。恋愛小説「無題」を発表会で披露すると宣言した。


「真によろしいわ。でも、年末までにあなたひとりの力であの小説を上手い作品に仕上げるのは難しいわ。だから、わたしが力添えしてあげる。共作ということにしましょう。もちろん、主導権はあなたにあってわたしは陰で支える役割よ。ふたりで力を合わせて傑作を創出しましょう。」


 さすがにこの提案は良しとされないだろう。ところが龍平はことのほか軽々に納得した。


 理由はふたつ。ひとつは姫奈が申し立てたことを断念することはないだろうと察したから。ひとつは、自分の力で作品を完成させたいと思ったが、道連れが姫奈であればそれは他人の力に干渉をされたことにはならないと見做したからだ。


 翌日からふたりの協働が始まった。まず姫奈は龍平が書き溜めた原稿に目を通した。いつか姫奈が大学の食堂で盗み見た物語と比べてたいして噺の進展はなかった。


 若年性アルツハイマー型認知症により記憶を失くしかけている夏苗という女が入院しながら治療を行っているが、幼馴染で恋人である斗真のことを忘れかけているという描写で小説は行き詰っていた。

 

 もう少し補足をすると入院したばかりの夏苗は日によって三つの顔を持つらしい。普段となにも変わらない夏苗。斗真のことを完全に忘れて、顔を見るなり不審者だと勘違いして喚き叫ぶ夏苗。斗真を忘れてはいるが、あなたはだあれと穏やかな様子の夏苗。彼女は三日に一度程の頻度で斗真を認識出来ないくらい記憶を失くすということらしい。

 

 龍平は記憶を失くした夏苗が斗真に好意を抱く有様を描き出したいが、どのように工夫をしたら良いのか悩んでいるという。


「好意を持つなどと曖昧なことを言わず、毎日斗真を好きになれば良いじゃない。」


 姫奈はそう提案するが、記憶を失くす都度斗真に惚れ直すということか。それはいくらなんでも現実的ではないと龍平は批難する。


「この恋愛小説「無題」全般に抗議をすると、あまりに現実世界の常識に囚われ過ぎているわ。小説を書こうとする者がその常識を基準とする必要はないの。気にしなければならないのは、あなたが描こうとしている世界の基準に沿っているか、外れているかどうかよ。現実世界を基準としてそれに似ていることをリアルという。小説の世界を基準として、その世界の現実に似ていることをリアリティという。リアルだけを求めるならばノンフィクションでも書けばいいじゃない。


小説のような作り話を書きたいなら、突き詰めなくてはいけないのはリアルではなくてリアリティなの。リアルだけを追求した小説なんておもしろいわけがないわ。」

 

 なるほど。そういうものかもしれない。姫奈の指摘はいつももっともらしい。だが、夏苗が記憶を失くす都度斗真に惚れてしまうというのは、所謂一目惚れというやつだろう。龍平は一目惚れというものを経験したこともない。だから、その存在が疑わしいのだ。一目惚れというものはなんなのだろう。素直に姫奈に問いかけた。


「男女のお互いがなんの感情も抱いていない状態からなんとなく恋愛感情を育んでいくよりも、一目惚れの片思いから段階を踏んで実らせた恋の方が、特別な価値があると思い込むのは当然ではないかしら。


 男も女も一目惚れはするわ。一目見ただけで胸がドキドキして恋愛のスイッチがオンになる。運命の出会いというものはそういうものよ。


 一目惚れとは理想の異性に感じるもの。特に突き出した魅力を持たない者には一目惚れはしないわ。自分の理想、あるいはそれ以上の異性に出会えば一目惚れをするのが自然なの。男も女も常に理想の異性を探しているのだから。一目惚れとは実に自然で人間らしい営みではないかしら。一目惚れをした異性の欲求には応えたいというのも実に自然なことよ。その異性に好かれたいという意識があるのだから。


 違う恋愛の過程を辿る者は飛躍的に相手を求めることはないわね。小さな積み重ねを続けて愛を育もうとするのだから。


 飛躍的に求められることにも警戒をするでしょう。相手の期待に応えることよりも、自分の基準や常識を大切にするのでしょう。一目惚れをした者とそうでない者に優劣をつけるつもりはない。ただ、一目惚れをする人間の方がロマンチックではないかしら。」

 

 龍平は腕を組んでなるほどと唸った。自分も理想の女が目の前に現れることがあれば一目惚れしたかもしれない。姫奈の注釈によって一目惚れというものの質はなんとなく汲み取れたのだが、どうにも幼稚だという印象は拭い去れなかった。会話や想い出を積み重ねて生まれる愛情の方が愛おしいと心の中で呟いた。

 

姫奈は龍平に背を向けて小声で吐く。


「それにしても馬鹿な男。」

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