第19話 もういいよ。愛しているから。ならセックスしましょう。

 龍平より姫奈の方が先に部屋に戻っていた。まだ髪の毛は少し濡れている。いつもの様に髪を仔馬の尻尾みたいには結っていない。夏の合宿のある夜に姫奈を艶っぽいと思ったが、今夜の姫奈はそれよりもっとだ。


 姫奈は旅館が支度した色気のない浴衣で身を包んでいた。浴衣の色気のなさが余計に姫奈を官能的に見せた。普通男と温泉に行くのなら赤やら桃色などの愛くるしい部屋着でも備えてくるものではないのだろうか。その普通というものとかけ離れた姫奈という女が僕は好きなのだと改めて自覚した。

 

 ふたりで座卓を挟んで対面に座ってテレビを眺める。ただ、テレビは部屋の中が静まり返るのを防ぐ為に動いているだけである。姫奈は座卓に肘をついて書を読んでいるし、龍平は、いつどうやって愛の告白を始めようかと葛藤している。


「ビール取って。」


 視線を上にずらすこともしない姫奈にビールを渡した。そのとき、胸元に目が行った。色の白い胸の谷間が視界に映ったのだ。姫奈に悟られる前に慌てて視線を外した。この女、まさか肌着も付けていないのか。龍平は悶々とする頭の中を沈静させるのに必死である。


 しかし、若い男の想像力とは実に逞しい。もう、ついさっきまでのように姫奈にどうやって求愛をしようか、どんな気の利いた文句を並べようかなどと理屈っぽく思考することなど不可能だ。


 心気が沸いている今こそ抱えているすべての情調をほとばしらせてしまえばいいのかもしれないが、もちろん龍平はそんな男ではない。それにしても息が苦しい。たくさんの酸素を肺に送り込みたくて息つぎが荒くなった。それがあまりにも荒々しいので、姫奈に勘付かれてしまった。


「なに興奮しているの。わたしの胸元でも見ていたのでしょう。馬鹿ね。ちゃんと下着くらい着けているわよ。」


 姫奈は胸元を捲って乳房を隠している白いレースの下着を見せた。なんだかとても小さな下着で乳房の上半分が覆い隠しきれていない。


 部屋の戸を叩いて仲居が入ってきた。布団の準備をしてくれるという。仲居は随分ぞんざいな手際で二枚の布団を並べて敷いた。ごゆっくりどうぞと座ってお辞儀をして、さっさと立ち去った。龍平はすぐに隣り合っている布団を離そうとする。実に無粋な振る舞いである。


「いいじゃない。このままで。」


 龍平はそっと布団をもとの位置に戻す。


「少し早いけど今日は疲れたわ。お布団の中でお話して休みましょう。」


 姫奈は龍平に背を向けて寝そべった。龍平は今日という日が暮れて欲しくないと望みながら姫奈の方に顔に向けてその背中を見守っている。声をかけようとした間際に姫奈の方が先に沈黙を破った。


「ねえ。まだ起きている?」


 龍平はわざと寝ぼけたような声で、うんと返事をした。


「あなたにいくつか謝らなければならないことがあるの。」


 これまで姫奈に詫びられたことはない。それに詫びさせることなどしたつもりもない。


「夏合宿の発表会のとき。わたしはあなたの組み立てた論理をさも我がものであるかのように口述したでしょう。腹が立っただろうし呆れたでしょうね。ごめんなさい。」


 思わぬことだった。姫奈が龍平に詫びるということもそうだが、そんなつまらないことを疾しいと自覚していたとは。


「わたしはあなたがあの日の為に下ごしらえをした論理を奪ってしまえば、あなたがどんな対応をするのかとても興味があったの。きっとあなたはまったく別の論理を披露してくれると信じていた。そして、わたしの見せびらかせた評論をより進化させたものを語ってくれると期待していた。あなたは目覚ましい結果を残してくれたわ。とても妙妙たる演説だったと感服したわ。」


 龍平は初めて姫奈に褒められたが、こそばゆくもないし特に誇らしくもなかった。しおらしい姫奈の態度にちと驚いただけだ。


「わたしはあなたが書を噛み砕いて吸収し、自分の意見を弁ずる力に欠けていると言ったことが何度もあるわ。でも、本当はそうじゃない。あなたはその方面についてもとても優れた手腕の持ち主よ。ただ、崖っぷちに追い込まれないとその力を振るえないの。だからあの日のわたしは意地悪をしたの。是非とも見てみたかったのよ。勇ましいあなたの姿を。」


 背中を向けていた姫奈がやっと龍平の方に顔を向けた。暗くてその顔をよく見詰めることが出来ない。灯りを消してしまったことが悔やまれる。


「もうひとつ詫びなくてはならないわ。あなた小説を書いているでしょう。恋愛小説。それを勝手に読んでしまったの。そのとき確信したの。龍平は書を読むだけでなく、言を操ることも表現することも巧みなのだなと。


 あなたの描く小説は決して斬新な背景もないし、胸をときめかす劇的な筋書きもない。だけど趣があった。小説としてとても秀でている証よ。それは演劇でも小説でも不可欠なものなの。演劇であれば演技や舞台美術や音楽などの演出が趣を深めてくれる。小説であればもっと複雑よ。言葉や単語の選び方、描写の方法、勢いや調子など数えればきりがないほど書の質を左右する要素があるわ。


 そして小説と一言で言ってもその美しさにはいくつかの特徴がある。感動的な筋書きであるもの、詩的な表現を利用するもの、そして人生観や価値観を訴える、まるで随筆のようなものもある。


 あなたの描く恋物語はそれらのどれにも当てはまらない。それでも小説として成り立っているわ。成り立たせているものは趣なの。こういうものこそ小説だという枠を超えた作文であるのよ。そんな小説を描けることは目覚ましい腕前だと感心するわ。作文の下手な者は奇抜な背景や筋書きにばかり囚われる。芸術家を気取る者は詩的表現ばかりに囚われる。


 主張の強過ぎる者は己の思想を押しつけようとする。あなたの作文はすべての要素をほんの少しずつ取り込んでいるけど、とても薄いからこそ味わい深い。料理だって一緒でしょう。味の濃いものばかりが美味いのではない。薄味だからこそ引き立つ美味さもある。あなたの描く作文には品がある。とても多くの書を読んで噛み砕いて吸収し、尚且つ感性が豊かであるからこそうみ出すことが出来るのだろうと心底感心したわ。」

 

 平常の龍平であれば、書きかけの小説を断りなく読まれたことに憤ったり、顔を紅潮させたりしたかもしれない。だが、今はそんなことは知ったことではない。すぐそこにいる姫奈が儚くて、かわゆくて落ち着かないのだから。まさに今、崖っぷちに追い込まれているのだ。


 龍平は姫奈の顔のすぐ前まで迫って、右手で彼女の顎を優しくつまんだ。


「もういいよ。愛しているから。」


 左手で姫奈の目を覆って、そして接吻をした。龍平の男らしい行動は姫奈にも予想外のようだった。しかし、期待通りでもあったのだろう。


「龍平。セックスする?」


 朧な月明かりさえも反射させるほど、姫奈の肌は真っ白だった。

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