第18話 お風呂は別々で我慢してね

「さあ。次が最後よ。わたし達ふたりにとってとても特別な場所よ。」


 行く先は芥川が療養する為に使っていた旅館の跡地であるに間違いない。そこは今では駐車場になっていた。車はまばら。姫奈は駐車場の隅に腰を下ろして財布から百円玉を取り出して龍平に缶珈琲を買ってくるように求めた。それを買うのにはまだ少し金が足りないのだが、龍平は黙って姫奈に従った。珈琲を一口舐めた後、姫奈は鞄から煙草を取り出して徐に煙を吸い込んだ。


「煙草を吸う女は嫌い?」

 

 姫奈の問いかけに龍平は別に、と答えた。嫌いもなにも煙草を吸う女など初めて見た。この女は酒も煙草も嗜む。未成年のくせに。もしも、姫奈が背伸びをして煙草を吸うのであれば龍平は軽蔑したかもしれない。ただ、姫奈はそんな素振りではない。これがいつものわたしであると真面目な顔をしている。


「別にニコチン依存症ではないわ。ただ、芥川もこうしていたはずなの。芥川は一日百五十本以上の煙草を吸っていたのですって。あなたも吸ってごらんなさい。」


 姫奈から受け取った煙草に火を付けて煙を吸い込んだ。もっと苦くて、臭いものだと思っていたがこれがなかなか旨かった。初めて煙草を吸った感想を姫奈に告げようとしたが、姫奈を取り囲む空気が先程とはまったく違っていた。とても冷たい目をしている。龍平も何度も見たことがあるなにかを射るような視線。こういうときの姫奈には迂闊に声をかけない方が身の為だ。


「ここにまだ中西屋があったとき芥川はなにを感じて物思いにふけっていたと思う?」


 他ならぬ自分の小説について思い遣っていたのではないだろうか。


「わたしは違うと思うわ。」


 ではもっと人間らしいことを考えていたのでないか。生きることが苦しいとかそういうことを。


「それもあるかもしれないわね。ただ、あの人はどうせ生きているからには、苦しいのはあたり前だと知っていたわ。そればかりに神経を費やしていたとは思えないわ。」


 それではなにを想っていたのだろう。


「将来に対する唯ぼんやりした不安を抱えていたばかりだったのではないかしら。」


 龍平の背筋が寒くなった。この言は好きではない。いや、この言を口にする姫奈のことはあまり好きではないと言った方が適切だろう。


「わたしも芥川と同じような不安を感じている。もう何年も前からずっとね。時にはそれを味あわない日もある。だけど、それを取っ払うことは不可能なの。なにせ、なにが不安でなぜ不安なのか憶えがないのだもの。わたしの日常は恵まれているものだと思うわ。愉しいと感じることも、充実感を得ることも少なくない。だけど、不安が失せることはない。」

 

 にわかには信じられない発言だが姫奈の言を疑う必要は無い。


「ここにくればなにかを掴めるのではないかとときめいていたわ。芥川が如何なることを勘えて、如何に自分を奮い立たせて、如何なる答えを出したとかそういうものをね。良ければ教えて頂けないかしら。わたしはなぜ不安なのだろうか。どうしたら抜け出すことが許されるのだろうか。」


 そんな問いに答えが出せるはずがない。長い長い時間ふたりは黙ってしまった。姫奈は煙草の火を消したらまた次の煙草を咥える所作を繰り返す。


 六本目を吸い終わったと同時に立ち上がってなにかを奮い立たせるように声を張り上げた。


「さあ。旅館に向かいましょうか。」


 龍平は姫奈が置いて残した缶珈琲の缶を拾って後を追った。誰もいないはずの駐車場に気配を感じた。決して気味の悪いものではなかったが、人のものとは思えない気配だった。


 旅館に行きついた頃はもう夕刻になっていた。姫奈の選んだ旅館は静かな山間に佇む茶室風の住宅のような旅館だった。庭園を囲むように建てられた客室のひとつに女将が案内してくれる。質素だが品のある客室は杉の木の香りが満ちている。


 ちょうどいい折に食事が運ばれてきた。前菜、椀物、造り、強肴、酢の物、焜炉、飯、水菓子と旬の食材をふんだんに使った伝統的だが新趣が織りなす贅沢な料理だった。姫奈は鮑のしゃぶしゃぶが気に入ったらしく自分の皿を開けた後、龍平の皿にまで箸を伸ばしてきた。滅多に食べられない高級食材を譲りたくはなかったが、姫奈が手を伸ばす、自分がそれを遮るという行為が悦ばしくて何度も繰り返している間に半分くらいは姫奈に取りあげられてしまった。


 食事の時間も、食後にのんびりとテレビを眺めているひとときも龍平にとっては甚だ至福の時間であった。ありふれた日常を飛び出した実感が湧いてくる。


 そうか。姫奈と一緒にいるだけでこんなにも生活というのは鮮やかになるのか。しかし、自分はまだ求愛というものをしていない。それさえ完うすればもっと幸せな気分になれるに違いない。だから、今夜はそれを必ず為し遂げよう。ひと風呂浴びた後が良いかもしれない。どうせ姫奈はビールを飲むだろう。ほろ酔い気分の方が趣が良いだろう。客室内の冷蔵庫にはビールが揃っているだろうか。確認する為に冷蔵庫の扉を開けた。


「あ。ビール飲むの。わたしにも一本ちょうだい。」


 今からあまり酔わないでくれよと心の中で祈った。眠くなってしまったり、おかしな性根になられては参るのだから。


 幸いなことに姫奈は機嫌が良さそうだ。そういえば中西屋の跡地での厳つい気配はすっかり消え去っている。龍平の好きな姫奈が舞戻ったということだ。あの駐車場での姫奈の口舌の意味を勘える余裕は今の龍平にはない。


「さあ。そろそろお風呂にしましょうか。客室内露天風呂のあるいい旅館が見つからなかったの。だから、別々で我慢してね。」


 姫奈は掌を龍平の頬に沿えて麗しい瞳で見詰めた。男を誘うかのような振る舞いだ。いや、現に龍平を誘っているのだ。


 露天風呂に入りながら龍平は口説き文句を選んでいた。ご想像の通り、彼は愛の告白というものが上手ではない。何度かそれらしいことをしたことはある。ただ、穏やかな雰囲気を演出するのも、女の胸を高鳴らせる所作も苦手だ。せめて洒落た文句を並べて姫奈を興奮させてやりたい。だが、彼は肝心なことを忘れている。姫奈という女を文句で盛り上げることが一番厄介だということだ。

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