第10話 婆さんが悪でなきゃこの世は語れない


 善人というのは善良な、行いの正しい者であり悪人とはその対義語ではないのか。姫奈の口から出た定義は明らかに辞書の解説の域を超えている。十分な思想が含まれている。そしてそれこそが正しい言の意味だと強迫する。不快ではなかったが、納得は出来なかった。まるで、自分がおかしいと思っていた芸をおかしくないと否定されたような気分だった。


「やり直しよ。時間がかかってもいいからしっかりと考えるのよ。」


 言論の自由とは、すぐさまそんな言が頭を過ったが口にするのはやめておいた。偉い人ならともかく姫奈の前では虚しいだけだと知っていたから。


 とにかく考えなければならないことは明確であり、目的もはっきりしている。姫奈に認めて貰いたいのだ。龍平にとってこの合宿の目的は最終日に行われる弁論会ではないのだ。姫奈に好意を持って貰うことなのだ。彼自身が現在それを自覚しているかどうかは分からないが。

 

 檜皮色の着物を着た、背の低い、痩せた、白髪頭の、猿のような老婆が悪であることを疑ったことなどなかった。老婆が悪でなければこの物語について議論する根っこがなくなってしまうのではないだろうか。だからそこは触れてはいけない領域のような気もしていたのだが。龍平は面皰を親指で撫でながら思い巡らせた。

 

 そもそも死体の髪の毛を抜くという振る舞いが気味悪い。死体とは言うからどこか素っ気ないのだ。死者と言えば少しは尊い。髪の毛を抜き取るというのは尊いものを傷付ける行為だ。死者を損壊するというのは確か罪になるのではなかっただろうか。そのことを調べてみようとしたが、ますます弁論会の準備から遠ざかってしまう。


 同時に姫奈に求められているものとは違うものを追っているような予感もしたのだ。巧遅は拙速に如かずという言がある。それを優先することにした。早く答えを出して姫奈の前で熱弁したいのだ。その自身の姿を想像して快感を憶えるのだ。実に目的に対して忠実である。


 合宿四日目の朝。姫奈は昨日と同じ場所に座って相変わらず書を読んでいた。きっと利口な姫奈のことだ。とっくに課題など片付けてしまって退屈しているのだろう。今なら姫奈の時間を僕の為に使って貰えるだろうと期待して声をかけたが、返事は意外に素っ気なかった。


「わたしがあなたの弁明に口を挟むのはもうお仕舞よ。発表会はもう明日に迫っているのだから、ゆっくりあなたの喋りたいことを纏めておきなさい。」


 つまらないというより侘しかった。弁論会よりも大切な姫奈とのお喋りを撥ねつけられてしまったのだから。しかし、姫奈の言う通り弁論会はもう目の前に迫っているのだ。これ以上、姫奈に難題を出されても回答を探す時間はない。頭の中にちらかっている思考を筋道の立つように整理することもしなければならないのだから。この日は姫奈を諦めるしかなかった。

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