第9話 この女。ときに病名はなんとしましょうか。

 合宿三日目の午後。龍平は木陰に書を読む姫奈を見出した。手にしている書は羅生門ではない。姫奈に知らせなくてはならないことがあるのだが、魅入ってしまってそれどころではなかった。書を読む姿勢がこんなに美しい女は他には思い当たらない。肩や肘に余計な力をかけず、なんとも自然な構えをしている。足を放り出してはいるが伸びた背筋と一本の針金で繋がっているようなので決してだらしないことはない。 


 歌を歌うときにマイクを握る姿も格好良かったが、やはり姫奈には本が似合う。

 

 見詰める視線があまりにも熱かったからなのか、すぐに姫奈に気が付かれてしまった。


「黙って見詰めているなんていやらしいわね。でも許しましょう。接触するよりも見詰めるだけの方が清々しいことはよくあることだから。」


 姫奈の言うことを聴いていなかったように肯定も否定もしなかった。ただ、沈黙するのは嫌なので手っ取り早く昨夜、姫奈から課された問題の答えが出たと報告した。善とはなに、悪とはなにかを弁明するので聴いて欲しい。


「あら。思っていたよりずっと早く回答するのね。分かったわ。よく聴かせてちょうだい。」


 姫奈が木陰の下に座るように促したので、龍平は彼女の隣に座って一晩以上かけて考えた持論を展開した。


 善とは道徳、良識、社会的規範に是と認められる行動や判断のことである。それらに否とされる行動や判断をしないというだけでは善とは言えない。相対的により良いとされるものではなく絶対的に良いと言えるものを善と言うのだ。人のことを殺めないというのは善ではない。人のことを活かすことを善と言う。話を元に戻すと、下人の老婆が死体から髪の毛を抜き取るという悪を咎める心理は善だった。善を貫くのであれば、下人は老婆の奇癖を力ずくで止めるべきだったのだ。


 一方悪とは善とは逆で道徳、良識、社会的規範に背く行動や判断をすることを指す。ただしそれらの基準は実に曖昧だ。その為、法という明確な基準を下回る者を悪とする場合が多い。生き残りの為とはいえ、老婆から着物を奪った下人は疑いなく悪だと言える。


 善と悪とはその行動や判断について語られるものであり、人間の本質を定める言葉ではない。善人であっても悪をやらかすことはあるし、悪人であっても善を成し遂げることもある。善人、悪人という言葉にはあまり意味はない。絶対の善人というのも絶対の悪人というものもいないのだ。


 つまり、下人は判断を誤って不義をしたに過ぎない。そうさせたのは、生きていく手段を選んでいる遑はなく、選んでいれば、築土の下か道ばたの土の上で饑死をするばかりであるという環境だったのだ。

 

 龍平の弁明の途中から姫奈は目を伏していた。きちんと聴いていたのであろうか。もしかして退屈で眠ってしまったのではないだろうかと疑う程、静かに身動きひとつせずに座っている。龍平がひと通り口述した後も目を開かなかったので、思わず姫奈の名前を呼んだ。すると、ゆっくり目を開いた彼女は右手の人差し指を立ててこう言った。


「疑問がひとつ。死人の髪の毛を抜く老婆を悪とする根拠はなに。そこを明確にしないと、老婆を批難する下人が善人だとする言いわけが成り立たないわよね。修正点がひとつ。善人と悪人という言葉に意味がないと言うのは間違っているわ。悪人というものは煩悩を具足するすべての凡夫のことよ。すべての人間は善悪の判断すらつかない根源的な凡夫であり悪人なの。善悪の区別もつかないから当然自分が悪人であるという自覚に欠けている。善人とは自分の行った善の行いを頼みに幸せを掴もうとする者のこと。もちろん、善人とは悪人というものに包含されるのだから善悪の区別などつかないはずなのに、自分の行いを善だと慢心する愚か者のことよ。いいこと。言葉は正しく使いなさい。」


 龍平は開いた口が塞がらない。老婆を悪だとする根拠の話ではない。善人と悪人の定義についての話だ。


 善人というのは善良な、行いの正しい者であり悪人とはその対義語ではないのか。姫奈の口から出た定義は明らかに辞書の解説の域を超えている。十分な思想が含まれている。そしてそれこそが正しい言の意味だと強迫する。不快ではなかったが、納得は出来なかった。まるで、自分がおかしいと思っていた芸をおかしくないと否定されたような気分だった。


「やり直しよ。時間がかかってもいいからしっかりと考えるのよ。」

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