第8話 わたしのことを軽んじてはいやよ。

 色々問い質したい気持ちは強かった。しかし、龍平は素直に姫奈の提案に従うことにした。これまでにないくらい彼女が真剣であったから。こんなに品格のある論争の場に立ち会えたことはない。水を差したくはなかった。


 ただ、余計に困ったことに粋な言が出てこない。仕方がないのでゆっくりと絡み合った毛糸を解すように言を選んで喋った。


 まず、あらゆる人間の心の中には善と悪の両方が存在すると龍平は言う。それは葉書と同じ様でどちらが表でどちらが裏だというものではなく一体なのだ。どちらを選んで役に立てようとするかは心境や環境によって異なるのだ。または、風が吹けば表と裏が逆さになるくらい軽やかなものである。


 下人は善が表になるように勇気を振り絞ったが、それとは反対の勇気によって老婆の着物を奪うという悪が表にひっくり返ってしまった。あくまで老婆から着物を奪おうと決意したのは下人の気質のみによるものではない。老婆に怒りを憶えたこと。このままでは下人も餓死する状況にあったこと。たまたま魔が差したこと。すべての条件が複雑に絡み合って、たまたま悪が表になってしまっただけのことであり、下人の本質が悪であるとは言えない。

 

 そのように龍平は解説したが、姫奈はその所見を怪しいと感じたようだ。


「老婆に怒りを感じた下人は悪なの?善なの?」

 

 女の死体から髪の毛を抜く老婆を悪であると下人は判断した。それを仇なそうとした下人は善であったのではないだろうか。


「なるほど。自分が生き延びる為に女の髪の毛を抜く老婆を悪であると判断した善人が、老婆の着物を奪う悪人になったというわけね。そして、下人は自分の心境や置かれた環境を繋ぎ合わせると悪人になっても仕方がなかったと言うのね。」


 そうじゃあない。龍平が言いたかったことは、そんなことではなかったが上手に説明が出来ない。


「いいのよ。あなたの主張したいことは実はなんとなく分かっているわ。だけど、わたしは意地悪をしているのではないの。あなたは書を読むことにはある程度長けている。だけど、それを噛み砕いて消化する力に乏しいの。覚えておきなさい。そして学びなさい。この合宿はその力を伸ばすのにとても役立つはずよ。」


 姫奈は詰め寄ってそう言った。堪らなく熱心な顔付きだった。こんな顔色を龍平は初めて見た。熱心だが、叱り付けるようでも戒めるようでもないと感じた。甚だ懐かしい母の顔を想い出す。まだ幼児だった頃にこんな顔色を見たことがあるような気がしたのだ。


 何度も姫奈と書について議論を交わすことはあった。だが、姫奈は程々に龍平の所見を認めていたのだ。それはすなわち龍平自身が認められているものだと自覚していたのだが。


 これほどさっぱりと批判されるとは思いもよらなかった。しかし、忌々しいとは感じない。よくぞ自分をそこまで見てくれた。とても神秘的な気持ちの良さを感じた。勝手な解釈かもしれないが自分の傍にいて成長を見守ってくれると言われているようで胸が躍った。

 

 しかし、姫奈は龍平がそんな心地に浸る僅かな猶予も与えてくれない。


「そもそも善とはなに。悪とはなによ。生き残る為に他人のものを奪うことは必ずしも悪だと言えるのかしら。下人は死体の髪の毛をむしる老婆の前でどんな振る舞いをすれば善を為したと言えたのかしら。」


 龍平はまた、なにも答えられずに考え込む。脳が混濁しているようだ。姫奈の問いかけに対する答弁を考えているだけではないようで、なぜ姫奈はこんなにも些細なことを気にかけるのだろうという疑問が大きかったようだ。龍平はまだ姫奈の性根というものを理解するのに及ばない。彼自身もその通りだと感じたようだ。


「いいのよ。時間はたっぷりあるわ。続きは布団の中でゆっくり考えなさい。」


 目の当たりに現れた姫奈の顔を真っ直ぐに見詰められなかった。後ろめたいという気持ちではない。なんだか気恥ずかしいのだ。


 女の顔というものは珍奇なもので陽の灯りに照らされたときと月の灯りを反射させたときではまったく装いが異なる。

 龍平は思わずそっぽを向いた。姫奈の瞳を見ていると吸い込まれてしまいそうで。


「だけど、難しいことを考え過ぎてもっと大切なことを考えるのを忘れては嫌よ。」


 そう言い残して姫奈はログハウスの中に消えていった。

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