《オレは女房、アイツの女房》⑥(終)

 三日後――琥太朗はようやく登校した。

 それまで学校は風邪ということにして休んだ。


 廊下ですれ違う生徒が、必ず一度は琥太朗を振り返る。

 当然だろう。

 全身痣だらけで、血が滲むような症状の風邪などない。


「和友」

「琥太朗――……」


 教室に入るなり、先に来ていた和友へ声を掛けると、流石に目を丸くして驚いていた。

 もう始業時間間近だったが、琥太朗は顎で教室の扉を指し示す。


 それだけで意図は伝わったらしい。和友はすぐに席を立った。


「本気で投げてこいよ」

「ああ」


 言葉数はお互いに少ない。琥太朗の身を案じるような発言はない。

 しかし、それで良かった。

 別に、そんな慰めや社交辞令など琥太朗は欲していない。


 欲しいのはたった一つ――その瞳の中に、また色濃く映ることだけ。


 ミットだけ持って、琥太朗は構える。マウンドで、和友は白球の握りを確かめる。

 この三日間、自分が何をやっていたのかなど和友には筒抜けだろう。

 琥太朗は試合の時と同じく、サインを出す。


 ――フォークボールの要求。

 和友は、一度だけ頷いて、振りかぶった。


「――ふッ!」


 肩を慣らしていない上に、元より制球の定まっていない球だ。

 届きはするが、まともな形では来ないだろう。

 果たして、白球はホームベース手前で地面へと落ち、弾けるように跳ねた。


 ……ぼすっ……。

 制服越しに鈍い音がする。抑え込むようにして、琥太朗は球を受け止めていた。


 どれだけ痛いかは想像に難くない。腹を思いっ切り殴られるようなものだ。

 流石に和友はマウンドを下りて駆け寄ろうとしたが――


「しゃがめ!」


 ――苦悶の表情のまま、琥太朗はそう叫んで球を拾い上げ、誰も居ない二塁へと送球。

 屈んだ和友の頭上を、矢……とは呼べない強さで、球が駆け抜けていった。


 ぽん、ぽん、と、グラウンドを白球が静かに転がっていく。

 仮に、一塁ランナーが居る状態で暴投をした場合、当然遠慮なく走られるだろう。

 だが上手く球を止められたのなら、暴走したそれを二塁で刺せるかもしれない。


 ただ球を止めるだけでは足りない。

 勝つ為には、捕手はそこまでやらないと嘘だろう。

 静かに、和友は琥太朗の方へと歩み寄る。


「お前……」

「試合中、いちいち球止めて痛がったオレに駆け寄ってくるのか?」

「…………」


「違うだろ。それでベースカバー忘れたら一生恨むぜ」


「ああ、気を付ける。まあランナーが居る想定だと思っていなかったが……」

「言ってないしな。でもこれで分かったろ。もうフォークを投げさせないことなんてない」


 むしろ、どれだけリスキーな時でも投げさせるぞ――琥太朗はそう断言した。

 ふ、と和友は一度大きく息を吐く。そしてバツが悪そうに、目を逸らす。


「……参った。森中にどう説明すればいいか分からん」


 やっぱ三塁手サード専任で頼む――今日の練習で森中へそう告げなければならない。


「正捕手は琥太朗おまえだ」


 和友も、清々しいぐらいにハッキリと断言した。


「現金なやつめ……。まあでも、理解わかってくれたのなら嬉しいよ。森中よりオレだって」

「そうだな。正直、ここ数日森中と組んで分かったが――よくない」


「はあ? あれだけ二人で楽しそうにしてたのにか?」

「……随分と詳しいな。まあいいが。要は、楽しすぎた。全部俺の自由に出来るから」


 完全に己一人で配球を組み立て、捕手を受け止めるだけの機械として扱う。

 和友からすれば、それはまさに天国であったが――同時に、危うさも察していたようだ。


「別にそれでもいいじゃん。勝てるならさ」

「あー……いや、お前が俺を叱るから、取れているバランスもあると思ったというか」


 部内において和友は絶対的な存在だ。誰も逆らえない。逆らう意味もない。

 が、鼻につく時は必ずあるだろう。和友もその自覚は薄っすらあるらしい。

 その溜飲を、琥太朗が上手くコントロールして下げている。


「バッテリーは夫婦だ。俺だけ好き勝手したら、多分色々と崩れる気がした」

「森中相手だとお前はDVするってわけね。確かにそうかもなー」


 球の当たった腹部を押さえながら、琥太朗はそうまとめ上げて教室へ歩き出した。

 が、当たりどころが良くなかったのか、まだズキズキと鈍痛がある。


 本来は防具を付けて受け止めるものだ。制服でやる方が悪い。

 和友は琥太朗の前へ躍り出て、そのまましゃがみ込んだ。


「……?」

「保健室まで運ぶ。乗れよ」

「なるほど、そういうことか。靴紐でも結び直してるのかと思った」


 遠慮なく琥太朗はその背中に全体重を預けた。

 二人は体格差も身長差もある。和友は琥太朗を背負えても、逆は無理だろう。


「相変わらず軽いな。ちゃんと飯は食え」

「オレはこれが適正体重だからいーの。お前こそ体重落とすなよ?」


 そんなことを話しながら、保健室まで歩く。

 もう廊下に他の生徒の姿はない。既に始業のチャイムは鳴っていた。


 しばらく無言の間が生まれて――ぽつりと、琥太朗は訊ねる。


「なあ。和友にとって、オレって何なんだ?」


 恐らくこれは、本人に直接訊くべきではないことだ。ふざけた質問にも程がある。

 しかしこれを訊いてしまうくらいには、琥太朗はまだ幼く、弱かった。

 背負われているとその表情は窺えない。前を向いたまま、和友は答えた。


「同じ質問を返す。琥太朗にとって俺は何だ?」

「え? そりゃあ、親友で相方で――」

「じゃあ、俺の答えも同じだよ。……この前は悪かった」


 どういう顔で和友がそれを言ったのかは、終ぞ知れない。

 琥太朗は呆気に取られたが、しかし否定しておくべき箇所は明確にあった。


「お前に悪い部分なんてないだろ。オレがフォーク止めらんねえから悪いんであって」

「そうだとしても、言い方ってものがあった……と、思う。多分」


「……おばさんに何か言われたな?」

「…………。まあ、そうだな。割と、そこそこ……」

「どーりでね……」


 久遠那はお節介を焼かずにはいられなかったのだろう。

 和友の顔は見えないものの、今どういう表情なのか、琥太朗にはありありと想像出来た。


 高校球児としては非の打ち所がない和友だが、こういう時はふと高校生に戻る。

 それがどうにもおかしく、愛おしく思い、琥太朗は和友の肩に己の顎を乗せた。


「――捕手ってさ、扇の要だとか司令塔だとか女房役とか言うじゃん」

「ああ。今更それがどうしたんだ?」


「ただの捕手ならそれでいい。けど、エースに対する正捕手なら、違う言い方がある」

「ある……か?」


「正妻だよ」


 夫婦めおと――投手エースに対する捕手あいかたの在り方として、最も正しいもの。

 琥太朗にとってのそれは、正妻という表現であった。


「正妻……」

「要は、エースにとっての一番の存在だ。そいつが誰と組もうがさ」


「確かに、ごくたまに聞く表現ではあるな」

「だろ? で、オレはお前の正妻である以上、言っておくことがある」


 背にもたれ掛かったまま、肩に顎を乗せて喋ると、どうしても耳打ちのようになる。

 と言うよりも、声量とトーンを落としたので、本当に琥太朗のそれは耳打ちだった。



「――もう浮気は許さない」



 ぞくぞくと、痺れのようなものが和友の背筋を駆け巡ったのであろう。

 その背中が真っ直ぐになり、ずり落ちそうになったので琥太朗は強めにしがみついた。


「う、浮気って、お前な……。大袈裟な言い回しはやめろ」

「大袈裟じゃないぜ? 少なくとも、今後二年はオレ以外とは組ませないから」


「…………」

「分かってる。その分オレも死ぬ気で努力する。もし足を引っ張ったら、離婚してくれ」

「その時は、遠慮なくそうする」


 お互い妥協は許さない。これは束縛ではなく、宣誓のようなものだ。

 夫婦生活だって同じだろう。お互いを尊重し、常に魅力を伝え続けねばならない。

 それを怠った先に破局りこんがあるとするなら、琥太朗はひたすら努力するだけだ。


 残る高校生活全て――三年の夏が終わる、その日まで。

 和友にとって琥太朗は苦楽を共にする正妻で、運命共同体で、切り離せないものだ。


 感情論は抜きにして、能力だけでこの関係が保てるのなら、何よりも分かりやすい。

 なので琥太朗はついでに、もう一つ多少気掛かりな部分に触れておくことにした。


「あと、私生活も気を付けろよ。オレの勘だけど、お前は絶対女性関係でモメる」

「……いやいや、何でだ。適当なことを言うな」

「被害者として言っておくと、浮気の基準はされた側にあるからな?」


「お前のそれは野球の話だろ! 何が被害者だ!」

「した側は無自覚ってのが一番マズイぞ。罪悪感のない浮気は泥沼確定だから」

「彼女居たこともない俺にそんな真似が出来るか!」


「まあそっちの管理はオレには出来ねーからなぁ。いや、出来なくもないのか……?」

「聞けバカタレ!!」


 何やらぶつぶつと考え始めた琥太朗に、和友は呆れるしかなかった。

 果たして琥太朗の危惧が現実のものになるかどうかは、時が経たねば分からない。

 一方、こと野球方面において、確かに二人はずっと夫婦めおとであり続けた。


 あの日が来るまでは――……。



* * *



「まあそんな感じで、オレはずっと和友の正妻であり続けたんスよね」

「…………」


 二十楽家の居候淫魔――イン子は、無言で琥太朗の方を眺めている。

 コンビニにおでんをムシャムシャしに来たら、琥太朗の昔話に付き合わされたのだ。


 結構な長話だったので、すっかり食欲も消え失せてしまった。

 思い出を語り終えたからだろう、琥太朗はどこか満足気に訊ねる。


「どうでした、姐さん?」


「こっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっわ!!!!!!!!!!!」


 叫ぶ形の第一声だった。怖い、マジ怖い、めっちゃ怖い、コイツ怖い。

 華奢で色白で金髪の従順なる舎弟……それが琥太朗へのイン子評である。


 だが同時にどこか底知れぬものをコイツは秘めている。

 ドス黒いマグマのような……。

 特に和友が絡んだ時に、琥太朗のマグマは表層まで顔を出す。


 しかしながら琥太朗は『怖い』という感想に全く理解が及ばないようだった。


「怖いって……何がっスか? 怖い話なんざしてねーっスよ?」

「いやもう大体怖かったわい!! 具体的にはピッチングマシン出て来てから以降全部!!」

「あー、なるほどね。ま、人外の姐さんにゃこういうの分かんないか……(笑)」


「あたしが悪いみてェな結論を出すな!! 淫魔サキュバスもドラゴンも魔王もビビるわこの話は!!」

「はいはい、そっスね(苦笑)」

 イン子の感受性がアレだからこういう反応になった――そんな処理を琥太朗はしている。

 高校生活の全てが、琥太朗にとっては輝かしくも口惜しい。


 和友と共に白球を追い掛けた日々。

 和友が全てを喪い、姿を消してからの日々。

 そんな、本来はもう交わることのない自分と和友を繋ぎ合わせた、人ならざる迷惑客。


 もし自分が大富豪なら、一生飯を奢っても足りない。

 それ程の大恩が彼女へある。


(ま、生憎コンビニ店長なもんで、一生奢るのは無理なんだけど)

「もうおでん食う気力もねえわ……主に恐怖で……」

「んじゃ持って帰ってアイツと二人で食べて下さいよ」


「勝手にその場で食べるのはセーフだけど、勝手に持って帰ったらアウトじゃん」


「ゲッツーっスわ姐さん」


 意味不明な倫理観だった。やや理解のある傍若無淫と言えよう。

 琥太朗は「オレの奢りっスよ」と、持って帰っていい理由を付け加えておいた。


「マジか~!! んじゃここに浸かってるおでん全部持って帰っから!!」

「それは無理っス」


 コンビニ店長として見ると、イン子という存在は凶悪な超害虫でしかない。

 だが異形の友人として見た場合――琥太朗は彼女のことが嫌いになれなかった。


「……姐さんが、またこっちに来てくれて良かった」


「あ? 何か言った?」

「いえ。全部はダメでも、半分ぐらいなら持って帰っていいっスよ」

「……。いや3分の2持って帰る!! んで残りは今ここで食う!!」


「クズだなぁ……。食欲失せたみたいなこと今言ってたじゃん……」

「出したり引っ込めたり出来んのが食欲じゃい!」

「ダメな勇気論かよ……」


 まあもういいか――琥太朗は諦観の境地に入っていた。

 今日は客の入りも悪いし、まだイン子が居座るのなら、話すネタ自体は大量にある。


「んじゃ次はオレと和友が中学ん時に全国大会で――」

「帰りまちゅ」

「いえおでん食ってていいんで聞いて下さいよ。たまに誰かに話したいんス」


「味分かんなくなるわ!! 内容が様々な意味で濃いから!!」

「そりゃ濃いでしょ。夫の話なんだし」

「もう出て来てんぞマグマが!!」


 仁瓶琥太朗――和友の親友にして、理解者。並びに正捕手、即ち正妻。

 かつて、その青春全てを、一人の怪物てんさいを育て上げる為に捧げると誓った。


 結局、それは叶わず、歯車は確かに狂ってしまったが……しかし。

 正式な形で高校野球生活を終わらせなかったが故に、残っているものがある。

 ふと、イン子にダメージを与えている中で、琥太朗はそのことに気付いた。


(そういや――オレとアイツは、結局離婚しなかったな)


 三年の夏を、二人一緒に迎えられなかったから。

 これはつまり、要するに――こういうことではないだろうか。


(じゃあ今もまだ、オレはアイツの正妻ってことだな、うん)


「何考えてっか分からんけど怖い!! おでんの味が薄くなってきたぞオイ!!」


 イン子はパチンコの電光板による七色発光で脳を灼かれたと言える。

 ならば琥太朗は、和友という太陽ひかりに脳を灼かれているのかもしれない――……。




《おしまい》

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