《オレは女房、アイツの女房》④

 ――放課後。本来はほぼ毎日野球部の活動がある。

 が、琥太朗は無断で練習を休んだ。

 体調不良以外でそんなことをするのは初だった。


(何やってんだろうな、オレは)


 校舎の窓から、野球部が活動しているグラウンドを見下ろす。

 各々が準備運動をして、道具を引っ張り出し、簡単にミーティングする。

 琥太朗じぶんが居ないことはそろそろ周知になっただろう。


(拗ねたガキかよ。あー、遅刻したことにして今から行こうかな)


 そう思いつつも、身体が動かないのは、期待しているからだ。

 ――心配した和友が、自分を探しに来る。

 そんな、本当に子供じみた期待。拗ねた子供という自嘲はまさに的確だろう。


(ンなわけねえだろ。もし来たら……)


 恐らく歓喜した後に、琥太朗はしかし失望する。

 蹴り転がした石ころがドブに落ちて、必死で浚う者に尊意など抱けるだろうか。

 琥太朗にとって、和友はそんな存在ではない。


 どこまでも真っ直ぐに、残酷に、ひたすら前へ進むからこそ、光り輝いてくれる。

 石がドブに落ちた程度で躊躇うな。他の石を蹴って、また進め。


(……森中……)


 和友からキャッチャーミットなどを渡された森中の姿が見えた。

 かなり困惑している。昨日まで三塁手サードだったのだから当然だろう。

 それでも和友に言い包められたのか、やがて防具を付けて球を受け始めていた。


 ――パンッ。

 乾いた、しかし頼りない捕球音がここまで届く。


(……もっと上手く捕れって。良い音立ててやったらノるんだよ、和友は)


 球を捕球する側にも様々な技術がある。あえて音を出すというのもその一つだ。

 要は『いい球を投げた』と投手側に思わせる為だが、和友は意外にもこれが効く。

 なので琥太朗は練習の時から、なるべく音を響かせるよう捕球していたのだが。


(違う、あいつに好き放題投げさせるな。試合中制御出来なくなるぞ)


 外から見るだけで、森中は和友の言いなりになっているのが分かった。

 あれでは捕手など、ただ捕るだけの機械と変わらない。

 両者の力関係は普段の練習から出る。試合中にいきなり立場逆転などしない。


 このままだと肝心な時に、和友は勝手な投球をする。意思疎通が取れなくなる。

 しかし、それでも――森中も、和友も、妙に楽しげだった。

 どちらも普段とは違う刺激があるからか。二人共、歯を見せて笑っている。


「…………」


 ぎちっ……。窓のサッシを、割りそうなぐらい琥太朗は握り締めていた。

 あの笑顔が、一番見たくなかった。

 他の技術的な部分など、結局は難癖でしかないから。

 胸の中にどす黒いものが渦巻く。今、息を吐けば、黒く濁っている気さえする。


 ――あれを向けられるのが、自分以外であることに我慢がならない。


 いや、別に和友も笑う時は笑う。しかし、投球時のそれだけは話が別だ。

 あれは捕手こたろう投手かずともだけの、二人だけの、対話だった。

 割って入られることがこんなにも――苦痛だなんて、知らなかった。


「あ、あの、ごめんなさい。掃除中なんですけど……?」


 誰かが声を掛けてくる。振り向くと、箒を持った今下が立っていた。


「ひっ!」


 が、今下は小さく悲鳴を上げる。琥太朗の表情が相当鬼気迫るものだったからだ。

 足元に放り投げていた鞄を拾い、琥太朗は無言でその場を立ち去った。


 ぽつんと一人残される今下には、何が何やら分からない。

 とりあえず――野球部の練習風景を眺めながら、箒を適当に動かし始めた。



* * * 



「はあ……」


 ぼんやりと溜め息混じりに河川敷を歩く。

 結局、練習には一度も顔を出さなかった。


 それどころか、明日からも出すべきかどうか迷う。

 一度蹴躓けば、中々立ち上がれない。女々しいな、と琥太朗は鼻で己を笑う。


(けど家に帰ってもな……。何やってんだってオヤジにどやされるだけか)


 両親は琥太朗の部活動を応援してくれている。

 家の手伝いをたまにするだけで済むのは、野球へ必死に打ち込んでいるからだ。


 サボったことが一度でもバレれば、今後手伝いの回数を増やされるかもしれない。

 なので琥太朗は茜色の空を見上げながら、ただ佇むしか出来なかった。


「……こたろうくん?」


 背後から声がしたので、琥太朗は驚いてすぐ振り向く。

 そこには、スーツ姿の綺麗な女性が、夕陽に照らされていた。


「あ、おばさん……ちわっす」


 果たして彼女を『おばさん』と呼んで良いのかどうか、未だに琥太朗は内心で悩む。

 和友の母、久遠那――到底高校生の息子が居るとは思えない、美人な女性。


 というか年齢も三十代前半で、世間的にはまだまだ若い部類である。

 和友と並んでも、親子ではなくちょっと歳の離れた姉弟にしか見えないほどだ。


 実際中学の三者面談で、久遠那を初めて見た教師が母ではなく姉と勘違いしたこともある。

 よって呼ぶべきは『お姉さん』だろうが、しかし本人はおばさん呼びを受け入れている。


(ホントこの人、いつ見ても姿変わらねーな……)


 小学生の頃から見慣れた久遠那の姿は、年月という絶対的なものに勝利し続けている。

 いつになったらこの人は老けるのだろうか……。

 ぼんやりと琥太朗はそんなことを考えた。


「どうしたの? 今日は野球部の練習のはずじゃ……?」

「あー、いや、ははは……」


 そりゃ息子の予定ぐらい把握済みだよな、と琥太朗は誤魔化して笑う。

 こんな時間に琥太朗が河川敷に居るわけがないのだ。

 普段は日が落ちるまでずっと練習をしているのだから。


 これが自分の親なら確実に怒鳴ってくるだろうが、しかし久遠那は全く違った。

 優しく微笑みながら、琥太朗の近くへと歩いてくる。


「……かずくんと、何かあったのね?」

「…………」


 何かあった、までならともかく、和友の名前が出て来る辺り侮れない。

 そんな分かりやすく顔に出ていたのか。琥太朗は少しバツが悪くなった。


「おばさんでよければ、話を聞くけれど……」

「いや、そんな、大したことじゃないんスよ。ホント、くだらないことなんで」


「くだらないことで、こたろうくんは練習を休まないでしょう?」

「…………」

「だからそれはきっと、くだらなくなんてないわ。大事なことだと思うの」


 事情も知らないのに、偉そうにごめんね――久遠那はすぐ小さく謝罪してきた。

 一般的に見れば、恐らく琥太朗のこれは死ぬほどくだらないことだ。

 単なるエゴで、ガキ臭くて、情けない、わがままだ。


 だが、琥太朗自身からすると――少なくとも、くだらなくはない。

 それを見抜かれたから、琥太朗はぽつぽつと口を開き始めた。


「その……オレ、キャッチャーやってることは知ってますよね?」

「えっと、球を捕る人ね? あの、ごつごつとしたのをつけて……」

「まあそんな認識で大丈夫っス」


 息子が野球のド天才なのに、母親は野球にめちゃくちゃ無知である。

 大体そういう家は親も野球ガチ勢であることが多いが――不思議な話だ。


 中途半端に関わるより、完全に見守って好きにさせているからこそなのか。

 ともかく、久遠那は野球に対して知識はないが、人として聞き上手であった。

 ちょこちょこ野球用語を解説しつつ、琥太朗は今日のあらましを彼女へと語る。


「だからオレ……どうすればいいか、分からなくて……それで……」


 本来は練習に行って、素直に三塁手サードの守備練習をすべきだった。

 だが、行けなかった。琥太朗は、徐々に涙声へとなっていく。


「オレが、悪いのに……。和友は何も、悪くないのに……」


 人へ話す最中に涙することなど、琥太朗は滅多にしない。

 事実、久遠那も琥太朗が泣いているところを見るのは初めてだった。


 それでも真剣に彼女は耳を傾ける。ある意味、息子に対するよりも本気で。

 ――和友は、自分の弱い姿を絶対に久遠那へと見せないから――


「……すんません、時間取らせて。明日からはちゃんと練習行くんで……」


 全部言うだけ言うと、割と頭の中はスッキリするものだ。

 久遠那から渡されたハンカチで、琥太朗は自分の目元を拭う。

 和友と同じ香りがした。


「無理しなくてもいいのよ? なんなら、おばさんからかずくんに――」

「それは、ちょっと……ごめんなさい」


 久遠那の言うことを和友は絶対に聞く。昔からそうだった。

 なので彼女の口添えがあれば、ある程度上手くいくことは確実だ。


 しかし琥太朗はそれを拒んだ。反則を使うのはどうかと思ったのである。

 その意地を汲み取ったのか、久遠那はにっこりと笑う。


「こたろうくん。かずくんは、ぶっきらぼうで周りが見えないことが多いけど――」

「いえそんなことはありますが、それがいいんです。和友のそういう部分が好きです」


「そ、そう? ええと、だからその……よく、こたろうくんの話を家でするの」

「……オレのことを?」


 琥太朗はギャーギャーうるさい癖に野球は下手――みたいな愚痴だろうか。

 一瞬そんなことが脳裏によぎり、聞くのが怖くなったが、しかし久遠那は続ける。


「こたろうくんが一緒の高校でよかった、って。あいつが一番俺を分かってくれる、って」

「……そんな、大袈裟っス。大体、分かってくれるヤツなら、さっさとコンバートを……」


「相手の言うことを何でも聞くことが、決して正しいことではないのよ?」


 久遠那の語るその言葉には、妙に真に迫るものがあった。

 琥太朗は元来察しがいい。

 彼女は、何かに抵抗したことがある人なのだ。


 だがそんなつまらない身の上話は、子供相手にするべきではないと思ったのだろう。

 すぐに久遠那は話を切り替えた。


「ほら、ほしゅ? ってああいうんでしょう? 夫婦めおと、だったかしら?」

「そうですね。俗称っスけど」

「前におばさん、勘違いしちゃって。かずくんがこたろうくんをそう呼ぶから――」


 ある日いきなり、琥太朗のことを和友が「あいつ俺の女房だからな」と言ったのだ。

 久遠那は驚き、持っていたお茶をこぼした。息子の方向性にビビったのだ。


 だが絶対に否定をしてはならない。

 久遠那は優しく「それでいいのよ」と受け入れた。

 すぐに「何がだよ」と、冷ややかな息子のツッコミが入ったのは言うまでもない。


 単に、投手と捕手のバッテリーのことを夫婦めおとと呼び、また捕手を女房役と呼ぶのだ。

 結局、そういう比喩表現を久遠那が全く知らなかっただけだったのだが。

 かくも野球用語は難しい――というか、妙にややこしいものである。


「けど、夫に付き従っていれば、良い妻である……とは、おばさんは思えないの」

「…………」

「琥太朗くんが女房役なら、思うままに行動したってバチは当たらないから」


「オレの思うまま……」

「理解するのではなく、理解させる……そんな方法が、野球にあればいいのだけれど」

「ない……ことも、ないっスね。ああ、そっか……」


 見落としだったのか、それとも目を背けていただけなのか。

 久遠那の言葉を受けて、琥太朗は己のやるべきことに思い至る。

 最初から、琥太朗に選択肢などなかったのだ。選びたくなかったのだから。


 承服出来ないものを、嫌々飲み込む――そんなことは真っ平ごめんである。

 夫婦めおと間の話ならば、特に。


「ありがとうございます、おばさん。すげえ気が楽になりました」

「そう? 少しでも助けになったのなら、嬉しいわ。普段、あまり出来ることがないから」

「そんなことないっスよ。だって――めちゃめちゃ説得力ありましたもん」


 いたずらっぽく、琥太朗は笑いながら言う。

 ともすれば非礼な発言であるが、しかし久遠那は目を丸くし、「でしょう?」と微笑んだ。


 二十楽家が母子家庭なことなど、昔から知っている。

 どういう経緯でそうなったのかまでは知らないが、久遠那の言葉の重みはこれが理由だ。


(お前がどんだけ可愛い女子を見ても平然としてる理由がすっげえよく分かったわ)


 母親が美人だと、息子は苦労する――

 そんな話を琥太朗はどこかで聞いたこと思い出す。


 どうも、理想の女性像が母親で固定され、その基準値を上回る女性ひとが中々現れないとか。

 従って和友は将来苦労するだろう。久遠那ほど出来た母が常に傍に居るのだから。


(でも、まあ……お前の女房はオレだからな。おばさんに負けてられねえや)


 それが高校三年間だけの仮初だったとしても、揺るがぬものとするのなら。

 和友が琥太朗を理解者と定めているのならば。


 琥太朗にとって和友も、理解者であるべきなのだろう。

 それを和友に理解わからせる為には、どうしても必要なものがあった。


「あの、おばさん。一つお願いがあるんスけど」

「なにかしら?」


「ちょっと、貸して欲しいものが――」

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