《オレは女房、アイツの女房》③

 ――昼休み。琥太朗はすぐ和友の席へと向かった。

 朝に言われたことがずっと気掛かりだったのだ。果たして何の話なのか。


 和友の前の席が空いていたので、琥太朗はそこに座る。

 昼食は実家のコンビニで売っているパンだ。琥太朗は食が細かった。


 一方で和友は巨大な弁当箱を広げている。彼の母親が毎朝作っているものだ。

 かなり和友は食べる――というか、身体作りの為に琥太朗が意地でも食べさせている。


「で、話って何だよ。さんざ引っ張っといて金貸してくれとかじゃねーだろうな?」

「そんなわけあるか。琥太朗。春休みの間、ずっと考えていたんだが――」

「おう」


「――お前、三塁手サード守備転向コンバートしないか?」


 その言葉を聞いた瞬間、琥太朗の視界は真っ暗になった。

 親に本気で死ねと言われた方がまだマシだった。

 つまりは琥太朗にとって和友のその何気ない提案は、死よりも辛いものであった。


 手に持ったパンが、形を変えて歪む。机の上に、琥太朗はそれを置いた。

 パックの紅茶を啜って、それでも平静を保って、問い返す。


「いきなり過ぎんだろ。冗談ならもうちょい笑えんの用意しろっての」


 声が震えて上ずっていないだろうか。自分ではもう分からない。

 言って、しかし返答は読める。

 こと野球関連において、和友はこんな冗談を言わない。

 コンバートの提案をするからには、確実な根拠があるはずなのだ。


「今三塁手サードやってる森中もりなかは、中学まで捕手だった」

「知ってるよ、そんくらい。けどアイツは、ぶっちゃけオレよりかなり下手――」

「知ってる、そのくらいは。だがお前よりも体格がいい」


「体格――」

「去年地方大会で負けた理由は、俺がフォークを投げなかったからだ」


 狙い玉を絞られ、それを痛打された失点が、そのまま敗因になった。

 和友も無敵ではない。多少の失点はある。


 本来はそれを上回る得点力があれば問題ないのだが、生憎とこちらは弱小だ。

 もぎ取った一点か二点をひたすら守り続けて勝利するという勝ち筋以外はほぼ望めない。

 そしてその為には――やはり、和友が完全に相手を制する必要がある。


「だが、別に俺が投げられなかったわけじゃない。お前が投げさせなかった」

「それは前に散々議論したろ! お前のフォークは精度が甘いんだよ! もし暴投したら――」

「そうだな。暴投したら捕手が止めればいい」


 和友の目は真剣そのものだ。嫌がらせで琥太朗に迫っているわけではなかった。

 今ある手札から、最も勝ちの目があるものを選び続ける。

 本能とも呼べるその選択の中で、和友は単に気付いただけだ。


 体格に恵まれず、捕手としては所詮二流以下の琥太朗を使うよりも。

 同じ二流以下なら、少しでもデカくて壁になれるやつを使った方が勝てる、と。


「……リスキーだよ。森中でも止められるとは限らない」


 フォークボールは、打者の手前で地面へ引っ張られるように落ちる変化球だ。

 直球との球速差や軌道の落差で打者のタイミングを狂わせ空振りを奪う球である。

 いわゆる決め球になり得る変化球で、和友はフォークボールを投げることが出来る。


 が、琥太朗が指摘したように、その精度――コントロールが今一つだった。

 球が地へ落ちるということは、それだけワンバウンドする危険性が増加するということだ。


 無作為にワンバンする球を、捕手はどうにか捕球せねばならない。

 後ろに逸らしたら、それだけでランナーが居れば進塁されてしまう。

 或いは2ストライクから捕球ミスをすれば、振り逃げされる可能性もある。


 では仮にワンバンが捕れないのであれば、捕手はどうするのか。

 簡単な話だ。己の身体で球を受け止めて、前に落とせばいい。

 直喩で、壁になればいい。


 より体格に恵まれた者の方に『壁』の適性があるのは、自明である。


「それでもお前よりかは止められる可能性はある。そもそも――」

「あのなぁ! 大体、いきなり守備転向しても――」

「――俺にフォークを投げるなというサインを、森中は出さないだろう」


 投球とは、投手が好き勝手に捕手へ球を放るわけではない。

 試合状況、己の状態、対戦相手を鑑みて、投手捕手でサイン交換し、球種等を決めるものだ。


 それで言うと和友はかなり自分勝手に寄った投手だが、一応琥太朗のサインには従う。

 だが、琥太朗はリスクを天秤に掛けて、和友へフォークボールのサインを一切出さない。

 その理由は――


「オレが……悪いってのか。ワンバンを止められない俺が」


 ――琥太朗自身に、それを受け止められるだけの体格からだも、技量うでも、無いからだ。


「良い悪いの話じゃない。それに、別にずっと転向しろというわけでもないしな」

「……併用、するのか」

「ああ。もしフォークを投げたい場面が来たら、その時だけ森中と守備位置を替えればいい」


 その方が、勝てるから。和友にとって、優先すべきは勝利。並びに、先にあるもの

 琥太朗の感情や内心など、慮るはずもない。

 そんなものを後に回すから彼は素晴らしい。


 だが、琥太朗はどうにもまだ――子供だった。

 感情の自制が利かない。耳が熱くなって、握った拳に力が入る。


「……ッ、テメェが、クソみたいなフォークを投げるからだろッ!」


 自分でも驚くほどの声量で、琥太朗は和友の首根っこを掴んだ。

 昼休み特有の、気楽なざわつきがあった教室が、一瞬で静寂に沈む。

 その場に居る全員の視線が、琥太朗と和友に注がれた。


 やってしまった――琥太朗はすぐに後悔する。こんなもの、恥の上塗りだ。

 悪いのは自分の能力不足で、和友の発言に理がある。それは理解しているのに。


「――そうだ。だから、絶対に俺はフォークの精度を上げる。夏までには」

「…………ッ」

「大丈夫だ。一試合で一回、失投するかしないかぐらいまでには仕上げるから」


 和友は、どこまでも厳しい正論を――等しく己にもぶつける。

 自分達の努力を鼻で笑うような努力を、必ず和友は重ねて、そして有言実行するだろう。

 文句の付け所が存在しない。感情論を抜きにすれば。


「琥太朗も、いざという時に備えてサードの守備練習は――」

「もういい」

「え?」


 その言葉だけ残して、琥太朗は席を立った。

 和友の反応を見ずに、教室から出て行く。

 本当にチームのことを――和友のことを考えるのなら、有無を言わず承諾すべきだった。


 それこそが尽くすということで、身を捧げるということではないのか。

 何故顔を歪ませて自分があてもなく校舎を歩いているのか、琥太朗は分からなかった。


(オレは――)


 和友の方針に異議があるわけではない。

 むしろ正しいと、頭の片隅では整理が付いている。


 なるほど確かに、捕手二枚体勢の方が確実だろう。

 フォークボールの要求も、森中と和友のバッテリーなら出しやすい。


 どうしても三振を奪いたい場面は試合中必ず存在する。

 甘い戦いなどほぼないのだから。


 投げる和友側としても、自分の手札が制限されることに我慢がならないのだ。

 分かっている。全部分かっている。それが分からないほど琥太朗は愚かではない。


(オレは――……怖いんだ)


 故に、自己分析は早急に済んだ。

 一つ冷静になって、己の胸中を詳らかにすると、粘ついて残る感情は恐怖だった。

 

 まだ早い。まだ、三年間は、その瞳の中に焼け付いているはず。

 捕手として。相方として。無二の親友として。

 自分には存在意義があるはずだった。


 それが、この昼休みの僅かな時間で、揺らいだ――等価値へと一歩近付いた。

 その事実に、琥太朗は怯え、惑い、そして和友の前から逃げ出した。それだけだ。


(笑えねーなぁ……誰よりも図に乗ってたのは他でもない、オレだった)


 余裕か、油断と呼んでもいいだろう。琥太朗は渇いた笑みを浮かべる。

己の立ち位置は、高校三年間絶対的に保証されたものであると、錯覚していたのだ。


そんなはずがない。仮に、自分より上手い捕手が新入生で入部したら、簡単に崩壊するのに。

 惰性や付き合いで、和友は自分という捕手を指名するわけがないのに。


 彼の残酷さすら美徳として捉えていたのは自分自身ではないか。

 矛先が己に向いた途端、取り乱すなど……それこそ傲慢であろう。


(……でも……それでも、オレは……)


 理屈だけで感情が全て処理可能ならば、どれだけ幸せだろうか。

 和友の提案を受けて、三塁手サードの練習を始め、捕手併用のスタイルを確立する。


 たったこれだけのことが、泥の塊ように、まるで飲み込めない。

 結局、琥太朗は昼休み中、当て所もなく校内を歩き回った。


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