【File1】五十嵐脳病院③

 【03】落とし物


 ファミリーレストランを出た途端、不愉快な蒸し暑さが冷房に慣らされた肌をで回す。

 桜井梨沙と茅野循は再び自転車にまたがり、国道を山沿いの方角へ向かう。

 やがて、背後のファミリーレストランの看板が見えなくなった頃だった。路面はだらだらと傾斜を始めて、杉林の下り斜面とこけむした擁壁に挟まれた登り坂となる。

「……どうぶつのビスケットのやつ、あれ好きなんだけど、最近なかなか売ってないんだよねえ」

 坂道を登りながら、平然と雑談をしようとする桜井。一方の茅野は……。

「そう……ひぃ……はぁ……ど……どうぶつの……ぜぇ……はぁ……」

 息も絶え絶えである。

 インドア派の彼女は持久力に欠けるところがあった。

「ところで循」

「な……なあに? 梨沙しゃん」

 思いきり言葉をんだ。

 桜井は噴き出しそうになるが、ぎりぎりこらえる。

「……あとどれくらいで着くの?」

「こっ……この、坂を登ったら……すぐよ……ひっ、左に雑木林があって、登り坂があるから、そこを登るの……ぁああ……うんざり……そうすると、ひぃ……登山客向けの駐車場があるわ……そ、そこで……オェ」

「あ、もういいよ。後で聞くよ。ごめん」

 桜井は心底申し訳なさそうな顔で、律儀に質問に答えようとしてくれた茅野へと謝罪した。

 そのすぐ後だった。

 路面の傾斜が、だんだんと緩やかになる。同時に左の擁壁は姿を消して、茅野の言う通り雑木林へと姿を変えた。土と植物の匂いが強まる。

 そして、心なしか空気がひんやりと感じられてきたとき、左側の雑木林を割って延びる砂利道が見えてくる。

 桜井と茅野は、その砂利道の奥へと進み、木立とやぶに囲まれた未舗装の駐車場へと辿たどり着いた。

 車は一つもない。その駐車場の奥には、肩幅程度の細い山道の入り口があった。二人は隅っこに自転車を止めると一息吐く事にする。

「……ここからしばらく行くと道が二手に分かれていて、その片方が五十嵐脳病院に通じているわ」

 そう言って、茅野は駐車場の端にあった倒木に腰かけながら、スポーツドリンクを口にした。すると、桜井が疑問を呈する。

「でもさ。何でわざわざ、こんな山奥に病院なんか建てたの?」

「昔は今以上に心身の障害者に対しての差別意識が強かっただろうし、人里離れた場所にある事自体は、それほど不自然ではないわ」

「ふうん。昔の人ってクソだね」

「そうね」

 と、茅野は同意して立ちあがる。スポーツドリンクのペットボトルをしまうとスクールバッグを背負い直した。

「そろそろ、行きましょうか」

「うん」

 こうして、桜井と茅野は再び五十嵐脳病院へ到る道を辿り始めた。


     ◇ ◇ ◇


 それから、しばらく経った後だった。

 どん、どん、どん……と、車内から重低音を響かせて黒のハイエースが駐車場にやってくる。

 ハイエースは駐車場の真ん中で停まった。

 エンジンの排気がやむと、車内から三人の男が降り立つ。

 大沼、橋野、寒川である。

 そして、大沼が駐車場の隅に停めてあった二つの自転車に気がつく。

「おい、見ろ。あの二人組のJK、間違いなくここにいるみたいだ」

 橋野が自転車に貼ってある藤見女子高校の通学許可ステッカーを見て、粘度の高い笑みを浮かべた。

「あのロリ、俺のだからな?」

「俺はあっちの胸がデカイ方をもらうか」

 大沼がマルボロをくわえて、どくの飾りがついたオイルライターで火をつける。

「どうする?」

 と、橋野が大沼に指示をあおぐ。

「しばらく、ここで待ち伏せするぞ。どうせすぐに帰ってくるだろ」

 大沼は、五十嵐脳病院へと通じた山道の方を見やり、白い煙を吐き出した。


     ◇ ◇ ◇


 雑草とおびただしいつたに埋もれた門柱。そこに刻まれた『五十嵐脳病院』の文字が、かろうじて葉の隙間からうかがえた。

 門はびた格子扉で閉ざされており、内側には荒れ果てた敷地が広がっていた。

 その奥に鎮座するのは擬洋風の木造建築である。

 蔦や苔に侵食された壁面に並ぶ窓硝子ガ ラ スは、ほとんどが割れ落ちている。その向こう側には、まるで亡霊のような、穴だらけのカーテンがぶら下がっていた。

 壁やかわら屋根が崩れている場所も見受けられ、玄関のひさしは柱が右に傾いでいた。

「ふんいきあるねー」

 と、桜井がネックストラップでるしたスマホで、ぱしゃぱしゃと撮影を始める。

「まだ日本の景気がよかった頃は、この病院を文化財として保存して、観光資源に利用する計画もあったみたい」

「ふうん、そなんだ」

「……でも、土地や建物の権利の問題、自治体の財政難から計画はとんして、それ以来、捨て置かれたままらしいわ」

 茅野がそう言い終わると、桜井は絡まった蔦を引きちぎり、格子の門を押し開いた。ちようつがいきしんだ音を立てる。

 すると、茅野が何かを思い出した様子で声をあげた。

「……あ、言い忘れていたけれど」

「何?」

「こういったはいきよに無断で立ち入る事は、建物や土地の持ち主から不法侵入で訴えられる恐れがあるわ」

「そうなんだ。じゃあ、もう帰る?」

 桜井は残念そうに唇をとがらせる。すると、茅野は不敵に笑いながら首を横に振った。

「いいえ。せっかく、ここまで来たのだから、ちょっとのぞいていきましょう。もしかしたらだけど、本物の心霊現象が拝めるかもしれないわ」

 そう言って、茅野はスクールバッグからデジタル一眼カメラを取りだして首にかけた。動画撮影の準備を始める。

 それを見た桜井の表情が、ぱっと明るく輝いた。

「うん。ちょっとだけならいいよね?」

「そうね。ちょっとだけ」

「もし心霊写真とか撮れたらどうする?」

 桜井の質問に、茅野はほくそ笑む。

「……どこかにアップして、思い切りイキり倒すのも悪くないわね」

「それは〝いいね〞がいっぱいもらえそうだよ」

「でも梨沙さん、SNSやった事ないじゃない」

「そだった」

 ……などと、のんな会話を繰り広げながら、雑草に埋もれた石畳を渡り、傾いた庇の下を潜り抜ける。

 その奥にある玄関の扉は床に倒れていて、入り口は開け放たれたままだった。

 二人は倒れた扉板を踏みつけ、五十嵐脳病院へ足を踏み入れた。


     ◇ ◇ ◇


 のこされた建物の構内には、この病院の在りし日を思い起こさせる品々が、いまだに放置されたままとなっていた。

 古びたベッド、布のカーテン、いろせたポスターや新聞、四脚のブラウン管テレビなどなど……。

 入浴室のバスタブにはくろかびがびっしりとこびりついており、戸棚には当時の薬瓶や、汚濁した液体に満たされた硝子容器がほこりにまみれて並んでいた。

 古めかしい硝子の注射器など、時代を感じさせる治療器具もたくさんあった。

 それらの光景を一つ一つ見て回るうちに、桜井と茅野の心に奇妙な懐かしさが込みあげてくる。彼女たちが、その時代を直接過ごした訳ではないにもかかわらずだ。

 そうした出所不明なノスタルジーに浸りつつ、二人は一階の中庭に面した陽当たりの良さそうな部屋へと足を踏み入れた。

 そこは、どうやら診察室のようだった。

「何か、胸の奥がつんとするね」

 そう言って、桜井は木製の机に無造作に置かれた聴診器の写真を撮った。茅野もどこかうっとりとした表情で、桜井の言葉に同意する。

「そうね。廃墟探索って、けっこういいわ。はまりそう……」

「でもさ、一つ疑問なんだけど」

「何かしら?」

「けっこう、たくさん昔の物が残されているのは何で? これ、みんな大正時代のものなんだよね?」

「病院から出る廃棄物は感染症などの問題があるから処分するのが面倒臭いのよ。危険な薬品もあるし。だから、この病院のように様々な物が放置されたままになるのは、良くある事よ」

「ふうん」

 と、桜井がぼんやりとした返事をした。

「……まあ、文化財にしようとしていたぐらいだし、割と近年まではちゃんと管理されていたのではないかしら」

 と、言いながら茅野が部屋の奥にあった布のついたて退かした瞬間だった。裏にあった診察台の下から、何やら黒い小さな影が飛び出してきた。

「きゃっ」

 茅野は短い悲鳴をあげてたじろぐ。

 影は茅野の脇を駆け抜け木製の回転椅子に、ぴょん、と飛び乗った。そして、きばき出しにして、しわがれた声でひとつ鳴く。

 それは、満月のような金色の目をした黒猫だった。

「何だ。にゃんこか」

 桜井が、ぱしゃりと写真を撮ると、黒猫は再び俊敏な動きで椅子から飛び降り、開かれたままだった部屋の入り口から何処かへ去っていった。

「ちょっとだけ驚いて声が出てしまっただけよ? 私は怖がってなどいないわ」

 と、胸をなでおろしながら言う茅野に対して桜井は苦笑する。

「誰に何の言い訳をしてるのさ」

「そんな事より、梨沙さん」

「何?」

「診察台の下に面白いものが落ちているわ」

 茅野は床にひざを突いて右手を伸ばし、それをつかみ取る。

 診察台の下に落ちていたのはスマホだった。五年前に発売されたモデルである。

「バッテリーは死んでるわね……」

 電源を入れてみたが画面は暗いままだ。

「肝試しに来た誰かが落としていったのかな?」

 桜井が茅野の脇からスマホを覗き込む。

「恐らく、そうでしょうね……」

「どうする? 警察に届ける?」

 茅野は首を振る。

「直接、持ち主に届けてあげましょう。警察に届けるとなると、この場所で拾った事を言わなければいけなくなるわ。それは、ここに入る前に説明した通りい事になるかもしれない」

「不法侵入だね?」

「そう。別に警察に噓を吐いてもいいけれどバレるかもしれない。それなら、スマホのデータを確認して持ち主を特定し、私たちが直接届けた方が確実だわ。だから、私は他人のスマホの中身を覗いてみたいとかよこしまな事を考えている訳では、断じてないのよ?」

「だから、誰に何の言い訳してるの?」

「とりあえず、このスマホは後にして……」

 こほん、と茅野がせきばらいをする。スマホをスクールバッグにしまう。

「そろそろ、この部屋を出て、残りの場所も回ってしまいましょう」

「うん。そだね」

 こうして、二人は診察室を後にしたのだった。

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