第9話

 灰色の夢を、ずっと見ていたような気がした。

 風邪を引いてから三日間、熱を持った僕の頭の中には、灰色の夢がずっと流れていた。そのモノクロームの世界では、男と女が交わり、何かが生まれ、捨てられた。女はスミカで、生まれるのはあの赤子だ。男の顔はぼやけていて、誰なのかわからない。しかし、それをずっと見つめていると、靄のかかった顔に表情が出来る。僕は男の顔を見つめた。よく見ると、その男は僕自身のようにも見える。

 違う、と灰色の夢の中で僕は思った。違う、おれじゃない、おれはあの女と寝ていない。僕は目を閉じた。が、そうすると瞼が熱くなり、僕は熱の解放を求めて、すぐさま目を開けてしまう。「見ろ」後ろから声が聞こえる。「見ろ」「見ろ」「見ろ」僕を支配する言葉の螺旋は、無限に続いた。「見ろ」「見ろ」「見ろ」しかし、目に見える世界は、全て灰色だった。僕はその光景を不気味に思いつつも、一体何を見ればいいのだろうと思った。目に見えるもの、それは全てただの灰色の切り抜きであり、何物でもなかった。「見ろ」僕は声の言う通り、それをジッと見た。灰色の男と女はこちらを見て、手を振っていた。二人の間には、横たわった小さな灰色の影が見えた。「アハハハハハ! なあ、あれが見えたか?」声は耳元で叫んでいるようだったが、振り返ることは出来ない。この観念的な世界にあっては、僕の頭は固定され、自分の意志で動かすことは適わない。「違うよ」そう声がした。「違うよ、全然違う。俺がお前を押さえているわけじゃない」声はあざ笑っているように聞こえた。「いいか、お前が振り返ることを、自分で拒絶しているんだ。・・・・・・俺はお前の意識に介入していない。お前が俺を見たくないと思うから、その通りにしているんだよ」僕は体を捻ろうとした。しかし、体は凍り付き、動こうとしない。「アハハハハハ! 俺が怖いんだろ?」声は明確に笑っている。「いいか、怖いんだよ、お前は、俺のことが!」声の残響が、僕を囲んでいる。違う、と僕は思った。違う、違う、違う、そう思うと、体に汗が流れるのを感じた。強張った体が、少しずつ雪解けするように、動こうとしていた。僕はその解放に導かれるように、体を捻った。声を信じるのなら、それは僕の意思がそれを見ようとしていることを意味した。体の凍結は尚も抵抗を続けたが、僕の意思はそれを望んでいなかった。解放は、目の前にあった。

「やっと見る気になったか?」

 僕は何かを言おうとした。しかし、言葉が喉元で詰まり、何も言えない。

「まだ俺を恐れているな。だけど、その調子ならやがて喋れる」

 僕は黙っていた。

「お前の体はもう自由だよ、もう俺を見れるはずだ」

 体は緊張を感じていたが、先程のように固まってはいなかった。浅く息をしながら、緊張の残滓を落とし、灰色に染まった指をほぐすように動かす。声の言う通り、体は既に解放されていた。

「しかし、お前は俺を見るのが初めてじゃないだろ?」

「・・・・・・お前は」

 やっとのことでそう言い、声の正体が存在するはずの後ろを見た。しかし、そこには誰もいない。ただ灰色の空白が漠然と空間を覆っているだけだ。

「前を見ろよ」と声は言った。「前だ、俺はずっとお前の目の前にいるよ、ずっと、ずっとだ、アハハハハハ!」

 言われた通り、前を向いた。足元には、赤子の影が転がっていた。

「わかっていたんだろ? ずっと俺たちは話してきたじゃないか」

「・・・・・・僕は、お前なんか知らない」

「知らない? 俺はずっとお前に話しかけていたけどな、覚えているだろ?」

「・・・・・・黙れ」

 僕の声は、震えていた。

「ああ、いいよ。黙ってやる。・・・・・・でも、あの女、やるぜ、相手の男をさ。そう感じなかったか?」

 僕は黙ってうつむいていた。声は嘲笑するように、息を漏らした。

「ああ・・・・・・可笑しいな、お前の考えていることは全部わかっているのに、それでも可笑しい、ああ、何ていうんだろうな、こういうの・・・・・・快楽、そう、快楽だ、俺はお前を理解し、また支配している・・・・・・どうだ? 俺に支配されるのは苦痛か? ああ・・・・・・しかし、俺は違う、こんなに心地のいい事はない、ああ! これがまさに快楽だよ、お前が絶望の淵に立っていることに、俺は絶対の快楽を感じるんだ、アハハハハハ! なあ、お前、わかっているよな、あの女をどうしなきゃいけないか、わかっているだろ?」

 僕は解放された体で、目の前に横たわる赤子を思いきり蹴った。赤子の皮膚は腐蝕しているのかやわらかく、粘液が靴に付着する。ぐにゃりと曲がった首がこちらを向き、それが睨んでいるように見える。僕はそれに恐怖を感じ、赤子を踏みつぶそうと思った。が、そう思った時には既に赤子はいなくなっていた。ただ灰色の地面が、憂鬱そうにどこまでも続いているだけだった。

 赤子が消えても、僕の内側にある被支配の感覚は取り除かれなかった。未だに、耳元には声が、目の前には赤子の死体が存在しているような気がした。その被支配の感覚は、意識の深くに根を下ろし、いつまでも消えることはないのだと思った。

 遠くに、光の筋が見えた。普通の光ではなく燃えるような赤色で、それは血の赤を思い出させた。僕はそこに向かって歩き始めた。光は遠く、果てしなかった。それでも僕が歩くのをやめなかったのは、赤い光の筋が何かの啓示に思えたからだった。全てが灰色の世界では、色彩が何かの絶対性を持っていて、僕はそれを求めていた。

 やっとその光を手に入れた時、僕は夢から覚めかかっていた。灰色の体は薄くなり、そのわずかな色彩さえも失おうとしていた。光は手の中で暖かく輝き、それは次第に現実的な暖かさと重なった。そこで、僕は自分が目を覚ましていることに気が付いた。手に感じた暖かさの正体は血だった。灰色の夢を見ている間に、掌を切ってしまったようだった。立ち上がり、掌に絆創膏を貼った。頭はぼんやりとし、僕は尚も眠り続けているような気がした。水を飲み、覚醒を求めた。

 完全に灰色の夢から目が覚めた時、僕はスミカを殺そうと思った。

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