第8話

 起きた時、自分がどこにいるのか、わからなかった。僕は一瞬、実家にでも帰省していただろうか、と思ったが、父しか住んでいない実家に、僕が帰省するはずがなかった。父と最後にまともに会話をしたのは、母が死ぬ前のことだった。

 布団の埃っぽさに、三回ほどくしゃみをした。僕は鼻の奥の粘膜に、小さな埃の粒子が纏わりつくのを感じた。くしゃみが収まった後も、その異物感は残ったままだった。そして、そこで初めて、ここがスミカの部屋であることを思い出した。僕は自分の右上のベッドで眠るスミカを見、彼女が目を覚ましていないことを確認した。彼女は時計の針の音が大きく聞こえるほど、小さく息をして眠っていた。暗がりの中薄く見える彼女の寝顔に、警戒の色はなかった。その様子に、僕は何故か性器が硬くなるのを感じた。今なら犯せる、と思った。しかしもちろん、そんなことはしなかった。僕は彼女の顔を見るのをやめ、布団を被った。

 置手紙を残し、帰ってしまおうかと考えた。それは僕が現実的に出来る、最大限の行動のように思えた。しかし、そのようなことをすれば、おそらくスミカが怒ることは予想が出来た。結局、僕は彼女が起きるのを待つことにした。

 音を立てることが出来ない以上、当然行動は制限された。本でも読もうかと考えたが、明かりも肝心の本もなかった。目をつむった。眠れそうにはなかったが、僕は無理やりに目を閉じ、静かに思考をまとめた。

 ――まとめる? と声がした。何をだ? 何をまとめるんだ?

 ――スミカと、彼女が孕んだ子についてだ。決まっているだろ。

 ――つまり、俺のことかい?

 ――そういうことになるんだろうな、と僕は考えた。なあ、お前は下ろされたのか? 本当に? あの女は、全て真実を言っているのか? 出会ったばかりの僕に対して? 

 ――それはわからない。教えるつもりもない。

 どうして、と考えた時には、思考は解れている。少しの時間のことなのに、体に汗をかいている。石油ストーブは尚も暖かい空気を送っており、僕はそれを鬱陶しく思った。しかし、ここはスミカの部屋で、それを止める権利など僕にはない。

 僕に度々訪れるこの声は、一体なんなのだろう。どうして僕には、赤子の声が聞こえるのだろう・・・・・・

 熱を持った体を覆う汗が、急激に冷えた。暖かい空気の中、体を震わせた。体と空気の間に生じる熱の「差」が、僕に妙な感覚を与えた。

 僕はスミカが中絶手術を受けることを想像してみたが、上手くいかなかった。頭の中では、赤子を捨てるイメージが固着していて、剥がれようとしなかった。それは、集められた断片で作られた幻影であるのに、僕は信じるのをやめることが出来なかった。グロテスクなものが目の前にあり、目を背けたいのに、視線が糸で繋げられていて、見るのを止められないような、そんな感覚を覚えた。幻影は僕の近くにあり、そして遠くにあった。僕は幻影との絶対的な距離を、測ることが出来なかった。

 そういえば時間を見ていなかったと思い、スマートフォンを開いた。暗い部屋で眩しすぎるほどに光を放つ画面は、朝の5時半という時間を指していた。空が段々と白んでいき、夜のヴェールが剥がされていく時間だった。彼女もそろそろ起きるかもしれない、と僕は考えた。

 布団を敷いたために退けられた小さな机の上に、テッシュケースと、コンビニのスイーツが置かれていて、それ以外には何もなかった。その生活感の無さと、スイーツの存在との「差」が、僕に違和感を与える。彼女が何者なのか、僕には未だにつかめない。

「・・・・・・おはよう」

 背後から、声が聞こえた。振り返ると、スミカが起きていた。彼女はベッドの上で体を起こし、目をこすっていた。

「起きるの、早いな」

「あなたの方が早いじゃない。ねえ、何時に起きたの?」

「いや、そんな早いわけじゃない。今さっき」

 僕は起きてからどれだけの時間が経ったのかわからなかったから、そう言った。感覚としては、嘘ではなかった。

 スミカがカーテンを開いた。外はまだ暗いが、まばらの街灯の光がぼんやりと映り、それが少量の光を部屋の僕らに与えていた。

「起きたら、もういないんじゃないかと思った」

「まあ、それも考えたけどな、実際」

「でも、帰らなかったんでしょう? どうして?」

「・・・・・・別に、なんでもいいだろ」

 僕は、眩しい時にそうするように、手を目の上にかざしてそう言った。うつむいていたため、あるいは落ち込んでいるようにも見えたかもしれなかった。

「ふうん・・・・・・まあ、なんでもいいけど」

 スミカは、釈然としない様子だったが、そう言った。

「朝までって約束だったし、明るくなったら、帰るよ」と僕は言った。「それでいいよな? スミカだって、やることがあると思うし、それに――」

「大丈夫だよ、それで」

 スミカは僕の言葉を遮った。彼女の声は、少しだけ尖っていた。

 立ち上がり、電気を点けないか、と提案した。彼女は、そうね、と言い、部屋の入口近くにあるスイッチを押して電気を点けた。部屋が明るくなった。僕は彼女に何か言う前に、カーテンを再び閉めた。

「何? どうしたの?」

「部屋の光が外に漏れるのが、嫌なんだ」

「隣はアパートの壁だし、角度的に部屋の中なんて見られないわよ」

「そうじゃないんだ」と僕は言った。「なんて言ったらいいかわからないけど、とにかく嫌なんだよ、感覚的な問題だから、理屈じゃないけど・・・・・・」

 よくわからないけど、とスミカは言い、ベッドに腰を下ろした。気にしてはいないようだった。彼女は、リモコン取って、と僕に言った。僕はテレビの台に置かれたリモコンを手に取り、彼女に渡した。テレビが付き、ニュース番組が流れた。ニュース番組のアナウンサーは、明るいニュースの時には明るい顔を、暗いニュースの時には暗い顔を作っていた。番組を見ている内に、アナウンサーの本当の顔は、一体どれなのだろう、と疑問に思った。しかし、それは結局のところ全部営業用の作り物で、本当の顔は隠しているのかもしれなかった。僕は何個も自分を作るような真似は、したくないと思った。

 アナウンサーが一つのニュースを読み終わった後、暗い顔を作った。そこで僕は、次に伝えられるニュースは痛ましいものなんだろう、と予想した。暗いニュースは、この世に溢れかえるほど存在した。だから、僕がそれに何か影響されるようなことはなかった。が、その時は違った。僕は動揺した。アナウンサーの読み上げたニュースは、乳児の遺棄事件だった。

 体が緊張するのを感じた。僕はそれを悟られないように体を伸ばしたが、今何かを話せば、声は震えるに違いなかった。ゆっくりと目だけを動かし、スミカの方を見た。彼女は呆然とテレビの画面を見、動くことはなかった。僕は、彼女もまた緊張しているのだと思った。

 スミカがリモコンで電源を切った。アナウンサーの声は、プツンと途切れた。寸前まで息をし笑っていた人間が、頭を狙撃銃で打ち抜かれ一瞬で事切れるように、アナウンサーの声は突然に聞こえなくなった。

「・・・・・・どうして、消した?」

 僕は何気ない感じを装い、しかし緊張の溶け切った声で言った。

「・・・・・・え?」

「だから、テレビ・・・・・・」と僕は言った。「見てたのに・・・・・・どうして消したんだ?」

「ああ・・・・・・えっと、退屈だったでしょ?」

 体は震えている。どう返せばいいのか、僕にはわからない。

「ニュースに刺激は求めてない」と僕は慎重に言った。「・・・・・・何も求めてない。だって、ニュースは事実の伝達だからさ、面白いとか、退屈とかはない」

「・・・・・・そうね」とスミカは言った。「じゃあ・・・・・・見る?」

「いや、いい」

「どうして?」

 僕は首を振った。

「大したニュースじゃないよ、どうせ」

 僕の言葉に安心するように、スミカは息を吐いた。それは冬の寒い空気の中なら、白く色づいて、忽ち空に上がってしまいそうな、熱っぽい息だった。しかし、ストーブに空気を暖められたこの部屋にあっては、その息は僕らの足元を蠢き、消えることはない。僕はそれを感じながら、静かな時間の中で目をつむった。そうやっていれば、自然と時間は流れていくだろうと思った。


 夜が明けてしまうと、逃げるようにスミカの部屋を出た。彼女は僕を引き留めようとはしなかったが、代わりに寂し気な目を向けた。僕はそれに罪悪感を憶えたが、いつまでもそこに留まるわけにはいかなかった。何故か、頭が鋭く痛んだ。体には倦怠感があった。

 僕は風邪を引いたのだろうかと思ったが、体が熱っぽいというのではなかった。ただ体の節々に疲れを感じ、その部位が独立を叫ぶように、痛みを感じさせた。僕は何度か瞬きをし、頭の鋭い痛みに小休止を作った。朝の光に影を作る電柱が、歪んで見えた。

 地下鉄を降りる頃には、頭の痛みは和らいでいた。体の倦怠感もなかった。風を切る音を立て、暗闇の奧へと進んでいく車体が、穴に潜る虫のように見える。構内を吹き抜ける微風が、僕の前髪を浮かせた。その風は何とも言えず心地よかった。

 自分の部屋に辿り着いた時、においと寒さから、そこを異質な場所だと感じた。きっと長くあそこに居すぎたのだと思った。

 上着を脱ぎ捨てると、すぐにベッドに体を投げ、それから三時間眠った。起きた時、部屋は寒いままで、本当に風邪を引いたのを感じた。僕がその時最初に思ったのは、これでしばらく家を出なくてもいい、ということだった。

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