第7話

 ドアをくぐるとき、自分以外の人間のにおいのする部屋に、懐かしさを覚えた。

 死んだ母は、何かと匂いのするものを置くのが好きだった。だから、僕は昔家に帰る時、毎回他人の家に入るような、そんな気がしていた。その異質な空間を通り抜けた先には、僕が生活を営む「いつも」が存在していた。それが小さい時には、不思議だった。

 

 部屋に入ると、スミカは電気を点け、コートを脱ぎ捨てると、窓際に置かれたベッドに腰を下ろした。僕も着ていた上着を脱いだ。カーテンは最初から閉まっていた。どこに座っていいか迷い、その場を見渡した。忙しく動く僕の視線に気づき、スミカは床に置かれたクッションを、僕の足元に投げた。そこ、座っていいよ、と彼女は言った。白く膨らんだクッションは、あまり使われていないことを思わせた。座り心地が悪かったが、僕は何も言わなかった。

「結構さ、傷ついたりしたんだ」

 僕らが部屋に落ち着いてしばらくすると、スミカはそう言った。

「え?」

「うん、だからさあ、いきなり断られて。馬鹿みたいだけど、結構好きなのよね、その人のこと、わかる、そういうの? ・・・・・・結構酷い事とか、なんて言えばいいかわからないけど、されてさ、でも自分が怒る立場になくて・・・・・・って」

「そもそも、金を受け取ったら、セフレじゃなくて、それは客なんじゃないのか? いいや、僕は、よくわからないけど・・・・・・でも、始まりが間違っているとしか・・・・・・」

「確かにね、それはそうね、そもそも、わたしも最初は売春するつもりだったもの。・・・・・・でも、私、彼以外の男とは一切してないし、それに、セックスする時以外にも、会ったことあるし、それに・・・・・・」

 彼女は言葉に詰まらせた。もうその先に言葉は無いのかもしれない、と僕は思った。

「それに、なんだよ」

 意地悪をする気持ちで、僕はそう言った。

「よくわからないよ、だから、あなたを呼んだんでしょ」

「・・・・・・僕じゃ、何もできないだろ」

 僕が言葉を放り投げるように、そう言うと、スミカはそれに反応するみたく、体を左右に震わせた。ベッドの上で小さく弾む体が、小さいと思った。蛍光灯の白い光に照らされ、だんだんと輪郭が空気に溶けていくように見える。退屈を装うためにあくびをし、滲む涙を手の甲で拭った。しかし、彼女はそんな僕のことを、見てはいなかった。

 僕はこの部屋のことを、窮屈な牢獄のように感じていた。張り詰めた空気は濃密な時間と合わさり、僕の周りを冷たい鉄格子のように覆っていた。スミカはどこを見るわけでもなく、視線を動かしている。何かを探しているのかと思ったが、それはしかし、どちらかというと、目のやり場を探しているように見えた。僕は目を閉じ、その目に見えない鉄格子を思った。薄く目を開けると、彼女が僕のことを横目で見ていた。

「さっきさ、誰かの母親は抱きたくないって言ったでしょ。あれはさ、どうして?」

 スミカは勇気を振り絞るような具合に、そう言った。

「・・・・・・中学の時に、母親が死んだんだよ、だから、嫌だった。わからないけど、母親という存在は僕の中で、犯し難いものでさ、なんか、上手く言えないけど・・・・・・」

「ふうん、なるほどね」

「納得できたか?」

「なんとなく」

「・・・・・・でも、僕は納得できていない」と僕は絶え絶えに言った。「・・・・・・ずっと違和感がある。母親を失くしていることと、誰かの母親を抱かないなんて、一体なんの関係がある? ・・・・・・僕にはわからない」

 その時、スミカが指の先二センチほどで自分の腹をさすったのを、僕は見逃さなかった。彼女はまるで、妊婦がお腹の子を思いやるように、自分の腹の上を撫でたのだ。その動作が酷く気がかりだった。その腹の中に、何かを隠しているのだと考えた。が、それは母親の話題からくる、一つの女性としての本能的な動作なのかもしれなかった。

「・・・・・・ねえ、なんで亡くなったの?」

「病気。・・・・・・膵癌。見つかった時には色々な場所に転移しててさ、なんか、手遅れだったらしくて、うん、あっけなく死んだよ。割にそれまで元気だった気がしたのに、だから、驚いたな」

「どうしてそんなに他人事みたいなの?」

 スミカは眉をひそめていた。

「実際他人事だろ。死んだのは僕じゃないし、それに、過去の自分なんて、他人に等しい。だって過去の僕は今の僕を知らないだろ? そんなの他人だ」

「でもあなたは過去の自分を知っているでしょ?」

 ぬ「・・・・・・まあ、そうだけど、少なくとも理解はしない。理解が出来ないなら、多分それは自分じゃない、俺はそう思う」

「俺?」

「・・・・・・俺?」と僕は言った。「今、僕、俺って言ったかな」

「言ったわよ」

「そうか」と僕は短く言った。

 僕は高校に入学する以前、自分のことを「俺」と呼んでいたが、生きていたころの母親は、僕の「俺」と言うところを酷く嫌っていた。だから、僕は母親が死んだ時、「俺」としての自分を捨てた。しかし僕は今、「俺」の唐突の出現に、過去と陸続きとなった現在の自分の存在を認めなければならなかった。それは細い糸のようなもので、繋がっているのだと思った。

 スミカは部屋の隅にある本棚を見ていた。大抵は漫画本で、時折タレントの書いた自己啓発のようなくだらない本が、間を埋めるようにして立てられている。その本の存在は、僕に少なくない驚きを与えた。彼女が部屋で一人、あのような本を読んでいるということが、僕には信じられなかった。情婦としてのスミカ、勤勉な女学生としてのスミカ、そして普通の女としてのスミカを、三人同時に頭の中に作り上げてみた。が、しかし、どれが本物の彼女なのかわからなかった。どれも本物のような姿をしていながら、同時に僕を欺こうとしているようにも見える。

 お前は本物か、と僕は思う。お前は一体誰だ(・・・・・・・)・・・・・・?

「今日さ、すごく久しぶりに会う予定だったからさ、それでさ、私なりに勝負を仕掛けるつもりだったのよ、わかる?」

「・・・・・・勝負?」

 僕はそう訊き返した。スミカが息を吸うのがわかった。

「そう、勝負」とスミカは言った。「・・・・・・私さ、中絶したんだよ」

 体に、閃光が走った。

「・・・・・・妊娠したのか、その、つまり、彼の子を?」

「うん、そうだよ。だから、今日その事実を見せつけてやろうと思ってたのにさ」

「・・・・・・彼に言わないで下ろしたのか?」

「言ってもさ、どうせ下ろせって言われるでしょ」

「まあ、そうかもしれないけど・・・・・・でも、下ろしたあとに言うよりは・・・・・・」

「そんなの」とスミカは言った。「捨てられて、終わりだよ。そうでしょ?」

「まあ」

 僕は曖昧に返事をした。彼女の言う通りだと思った。

 目を細めてみると、微細な埃が蛍光灯の光によって照らされ、光の筋のようなものが出来上がっていることに気が付いた。僕はそれが奇麗だと思い、その正体が埃であると考えると、より一層美しいと感じた。もしかすると、この世の美しいものは全て不浄の物で成り立っているのかもしれない。例えば人間を美しいと思う人がおり、その人間の大抵は悪意によって構成されている。同じだ。美しさは無数の「汚れ」の集合体に過ぎない。僕はなんとなくポケットの中のスマートフォンに触れた。何を言えばいいのかわからず、スミカの顔を見た。僕の目からボウフラのようにぶら下がる視線に気が付き、彼女は不機嫌そうにうつむく。赤子のことを考え、やはりその赤子が彼女の腹に収まるのを想像した。赤子は肌を腐らせ、熱と臭気を身にまとい、彼女の内臓をその内部から侵している。僕は、体が緊張するのを感じた。

「・・・・・・何か、食べる? ・・・・・・何も無いけど、冷凍の枝豆くらいならあるわよ」

「いや、いらない、そんな長居するつもりもないしさ」

「そう」

 スミカは口元に笑顔を作ろうとしたが、それに失敗し、表情が歪んだ。僕はそれを見て取り、哀れに思った。

「なんだよ、僕にいて欲しいのか?」と僕は言った。「・・・・・・なあ、僕はまだ出会ったばかりで、そんなに深い関係ってわけじゃないだろ、そんな僕がいたからって、何がどうなるんだよ?」

「ぞういうわけじゃないけどさ、ただ、どうしたらいいのかわからないのよ、私」

「僕にだってわからないよ」

「そうかもしれないけど、今夜はいてよ」

 どうしてだよ、と言いかけ、思い直し、やめた。僕には、彼女が何を求めているかが、なんとなくではあるが、わかるような気がした。きっと彼女は空白の時間に生まれる惨めさを、僕で埋めてしまいたいのだ。プラスチックごみの入ったビニール袋が、ゴミ箱からはみ出ていて、そこにはスーパーの弁当のゴミが捨てられていた。僕は暗い部屋でその弁当をむさぼり、惨めさの中で赤子の幻想を殺すスミカの姿を想像した。それはあまりに生々しく、頭の中で再生された。彼女は本当のことを言っているだろうか、と思った。僕には、判断が出来なかった。

「明日、一限なんだよ」と僕は嘘をついた。「だから、帰って寝てしまいたい。わかるだろ?」

「なんの講義?」

 僕はスミカの質問に、咄嗟に答えられなかった。

「ねえ、嘘ついているんでしょ、わかるよ、そういうの。男って嘘下手なんだよ、気付いていないかもしれないけど」

「なにも、嘘ってわけじゃ・・・・・・」

 僕は弁解するようにそう言ったが、それはどう考えても嘘だった。きまりが悪くなり、黙った。彼女の目の色は、その嘘を見透かすように、濁っていた。

「でも、一限に講義なんてないんでしょ?」

「まあ」

「なら、嘘じゃないの?」

 僕は力なく頷き、ごめん、と言った。「別に、嫌だとかそういうわけじゃない、それは、まじで本当に。・・・・・・ただ、なんか、逃げないとって、思って、それで・・・・・・」

「それで?」

「・・・・・・ごめん」と僕はもう一度言った。「・・・・・・わかった、朝までいるよ、それでいいだろ。・・・・・・でもいるだけだ、適当にそこらへんの床で寝てる。お前の身体には触れない」

「ありがとう、それでいいよ。あと、布団出すよ、もう一つあるし」

 僕はベッドの下に置かれた白い袋を見、そこに布団が入っているのだろうと思った。それは一瞬死体の入った袋を思わせたが、膨らみ方が布団のそれだったので、違うと思い直した。ふと、おれは今ここで何をしているのか、という虚しさが胸で沸いた。僕は自分がここに理由を、見出すことが出来なかった。スミカは白い袋を引きずり出し、袋の上で縛られた紐をほどいていた。少し埃っぽいけど、大丈夫よね、と確認するように彼女は言った。ああ、と僕はほとんど脊髄反射的に答えたが、その後すぐ、自分が慢性的な鼻炎を持っていることに思い当たった。しかし、僕は黙ったままだ。

 スミカが布団を敷き終わると、僕は床に置かれた上着を布団に寄せた。僕はデニムを締めていたベルトを外し、腹回りを緩くさせた。別に脱ぐわけじゃない、と弁解するように僕は腕を広げた。

 遠くで救急車のサイレンの音が聞こえ、段々と近づき、やがてそれは消えた。僕は空気に溶けるようにして消えていく音に、耳を澄ませていた。危うさの中を点滅するように生きる命を乗せたその救急車は、それを周囲に知らしめるように大きな音を鳴らす。僕はその姿が、たまらなく美しいと思った。

  

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