第10話

 それからさらに三日が経った。

 三日間、僕はまるで修行僧のように時を過ごした。が。僕の生活は悟りを開くためのそれと異なり、単なる無為によって構成された。本を読み、食事をせず、眠らなかった。底に黒くコーヒーのこびりついたカップが、その日々を証明するみたく、机の上に存在した。掌の傷は塞がりかけ、赤い光の熱はもう感じなかった。

 スマートフォンは充電器に繋がなかったため、少し前から電源が落ちていた。もっとも、僕はスミカのことを思い出したくなかったので、それは好都合だった。

 いいかげん、どうするか決めなくちゃいけない、と僕は考えた。スミカをどうするか、どうやって殺すか、本当に殺すのか、判断に迫られていた。今ならスミカを呼び出せるかもしれないが、これ以上連絡を絶っていると、それも難しくなるかもしれなかった。

 殺す、という行為のことを考えると、僕は途端に現実の平衡感覚を失った。もちろん僕は人を殺したことがなく、そういった行為のことを考えると、色々なことがわからなくなってしまうのだ。僕は困惑しつつも、現実を営もうと思った。床に散乱したペットボトルのゴミを拾い、ビニール袋に放り込んだ。その時、僕の生活の蓄積は、そういったゴミ達によって明瞭にされているのだと思った。もしも全てのものがゴミを出さないように設計されたら、僕は前日に何をしていたのか、わからなくなるに違いなかった。

 仕方がないと思い、スマートフォンを充電器に繋いだ。暗くなった画面に、充電のサインが点滅する。僕はカーテンを開け、朝の光を部屋の中に取り込んだ。光を含んだ部屋の壁は白く、明るいと思った。僕はスミカの部屋を思い出そうとしたが、そうすると頭が痛んだ。視界に灰色がかかり、僕はそれを拒むようにきつく目を閉じた。もう、あの夢の中を彷徨いたくはなかった。

 久しぶりに覗くスマートフォンの画面は眩しかった。僕はホーム画面を赤のデフォルトのものにしていたが、その色彩を含んだ光は、やはり僕に灰色の夢を思い出させた。夢の中で見たあの赤い光は血のイメージを感じさせた。ということは、あれは僕の殺意だったのだろう。そして、その殺意の光は、スマートフォンのホーム画面の光にさえ潜んでいるのだ。

 予感めいた夢の残滓はいつまでも僕の内奥に残っていた。それは粘着質で、何かの虫の体液のようなものだ。冷蔵庫からコーヒーを出し、汚れたままのカップに注いだ。注いだ瞬間、そこにこびりついた乾いたコーヒーが溶けるのがわかったわああああああああdが、僕はそれを気にせず飲んだ。安く不味いコーヒーは、空虚な現実感を僕に取り戻させた。

 充電を回復させたスマートフォンを開き、連絡が来ていないか確認した。二日前に、スミカからメッセージが届いていた。僕はそれを読まずに消そうかと思ったが、計画(と言えるほど明確なものではないが)を思い出して、やめた。

『また会える?』 

 メッセージはそれだけだった。簡単で、なによりも直接的な言葉だった。

 僕は考えた末、『いつでも大丈夫』とだけ返した。返答としては、間違っていないはずだった。

『どうしてこんな返事遅いの?』

『元からそんなに早い方じゃない』と僕は返した。

『でも、この前はもっと早かったでしょ?』

 僕はスマートフォンを固く握った。

『忙しかったんだ。だから、疲れて寝てた』

 スミカからの返事が途絶えた。僕は少しだけ安心し、スマートフォンを閉じた。手が汗ばんでいた。僕はその汗を衣服で拭い、何回か手でグーとパーを作った。手には何か違和感が存在し、それはおそらく緊張によるものだった。冷たい汗が残り、僕の意思とは関係なく震える手は、自分のものではないように感じる。もしかすると、この手でスミカを殺しても、僕は自分の行為だと思えないかもしれない。

 食べるものが無かったため、外食をしようと思った。僕が外で食事をすることはあまりなかったが、今日はどうしても外で食べようと考えていた。そうすることで、僕はこの数日の空虚な夢の浮遊感を消し去ることが出来るはずだった。

 僕は出来るだけ普段着ることの少ない服に着替えた。前に父親が忘れて帰った、深い緑の地味なコートがあったため、それを選んだ。父は母が死んでから、パチンコに通うのを生きがいにしていた。だから、コートからは煙草や退廃の臭いがした。

 左のポケットに潰れた煙草の箱があり、中には二本の煙草が残っていた。銘柄はpeaceだったが、僕の知る限り父親の吸うたばこの銘柄は、セブンスターのはずだった。それはつまり、僕の知らない間に煙草の趣向が変わったことを意味した。僕は父親について、何も知らないのだ。

 着替え終わり外に出ると、久しぶりの直接の日光が眩しかった。それは朝の空気に冷たく差し込み、地面と建物の壁とを明るませていた。僕は白い息を吐き、それに煙草の煙の面影を重ねながら、コートのポケットに手を入れた。指の先には煙草の箱が当たっていた。

 インターネットで店を調べ、これから行く店を決めた。最寄りの駅から十分程度で着く駅の麓にある、イタリアンの店にした。口コミの評価は良くも悪くもなかったが、そんなことはどうでもよかった。僕は今パスタを食べたい気分で、それが叶う店ならどこでもよかった。

 ポケットの煙草の箱を指で弄びながら、駅まで歩き続けた。僕が灰色の夢に絆されている間に雪が降ったらしく、凍った地面に薄く雪がかかっていた。僕はそれに転倒しないよう、足元に神経を集中させながら歩いた。つま先で地面を蹴ると、雪が散り、透明な氷の奥に黒い地面が淀んでいた。僕はそれを見、なんとなく人間の意識の層と重ね合わせ、鼻で笑った。世界は酷く歪んでいるように見えた。

「もしも人間の無意識を全て表に引きずり出したら、きっと世界は壊れるよ、冗談じゃなくさ。だって、人間はみんな破壊的な衝動を深層部分に秘めてるだろ?」

 哲学は、西洋哲学史の教授がカール・ユングの無意識研究を引き合いに出した時、そのように言った。僕は、今でもそれを覚えていた。

「壊れる?」とその時僕は訊いた。「あはは、世界が壊れるのか?」

「・・・・・・ああ、壊れるよ。文字通り、全部壊れるんだ」

 彼は真面目な顔でそう言った。

「・・・・・・ふうん」

 僕はその時、それ以上を哲学に訪ねなかった。哲学は細い目で僕を見、取り繕うように笑った。その笑みが、チェシャ猫のようにして、空間に張り付いて残った。もしかすると、その時の哲学の無意識は、僕を壊そうとしていたのかもしれなかった。

 最寄りの駅に着き、階段を上った。階段の左右に備え付けられた手すりは、酷く汚れていた。僕はポケットから手を出し、その金属部分に触れた。冷たい光が、そこにはあると思った。

 僕は切符を買ったが、後ろを歩いていた人たちは切符など使わなかった。皆何かに急いでいて、切符を買う余裕など存在しないようにも見えた。僕は電車に、地下鉄に乗る時、左のポケットに切符が存在しなくては、しっくりとこなかった。注意しなければ落としてしまう・・・・・・そんな危うさがもたらす緊張が、僕は好きだった。そして、それは死んだ母親が関係しているかもしれなかった。少なくとも、僕は母親と出掛けた時、切符以外を使ったことが無かった。

 僕が今日着ているコートは、ポケットが深かったため、切符を入れたところで落ちる心配はなかった。だから、僕が普段感じる鼓動を、今日は感じない。それが、僕に非現実の浮遊感を与える。辺りに人は居なく、電光掲示板の示す電車の時間が、ただ無機質にちかちかと光っていた。僕はただそれを見、その後券売機を見た。親に手を引かれる、赤い子供のマークに気が付き、母を思い出した。彼女が教えてくれたことを、僕は何も守れていないと思った。

 しばらく券売機の前に立っていると、電車の時間が近づいたからか、人が現れ出した。横に三つ並んだ券売機の真ん中に僕が立っていて、男と女がそれぞれ横に立った。そして、その後すぐに一人の初老の男が現れ、僕の後ろに立った。それでも、僕はそこに立ち続けたまま、券売機の親子に目を奪われていた。彼らの存在しない目が、僕を石のようにしてしまっていた。

「おい、いつまでそこに突っ立てるんだよ、もう買っただろう」

 最初、後ろから聞こえたその声が、僕に対してのものだと気が付かなかった。遠くで、誰かが誰かに対して、怒っているのだと思った。

「おい、聞いているのか」と男がもう一度言った。「早くしろよ」

「え?」

「お前に言っているんだよ・・・・・・お前、ずっとそこに立っているだろ、さっきからさ」

「・・・・・・ああ、そうですね」やっとのことで、僕は言った。「すみません」

 僕が券売機から退くと、男は不機嫌そうに切符を買いだした。それを見、スミカを殺すなら、この男で先に練習しておくのもありかもしれない、そう思いながら、ポケットにあるタバコの箱を握った。中身の少ない箱は、容易に潰れてしまった。

 僕の横で切符を買っていた人たちは、もうすぐ電車が訪れると言うのに、カードで改札を通る人よりも、ゆっくりと改札へと歩いて行った。逆だろう、と僕は思ったが、むしろそれは、そういった時間感覚のギャップが生んだものなのかもしれなかった。僕はそう納得し、彼らを見送った。

 電車を逃したくはなかったため、改札を通った。ホームに先程の初老の男は居なく、不思議に思った。この時間に駅に居るなら、僕と同じ電車に乗るはずだった。

 僕が切符を買う前に通り過ぎて行った、若いに人たちが、スマートフォンをいじっている。彼らは、後ろを気にすることなくホームに立つことが、怖くはないのだろうか。電車がやってきた時、僕がその背中を押せば、それで彼らは命を失うのにも関わらず。

 ふとした時に蓋が開きそうになる殺意は、誰でも持っていると思う。目の前にいる人間を突き落としたら・・・・・・そういう揺らぎは、誰にでも当たり前に存在し、息をひそめているのだ。僕は自分の右腕が彼らの背中を押さないよう、ポケットの中に手を強く差し込んだ。

 タバコは吸ったことがなかったが、喫煙室に入った。あと3分もしたら電車が到着するはずだが、中には人が居た。そこで僕は、喫煙室に先程の初老の男が居るのに気が付いた。彼の隣に立ち、タバコを一本取り出した。片方のポケットには、ライターが入っていた。

「お前、ソレ吸ったことがないだろう」

 突然、男はそう言った。僕は驚いて、彼の方を見た。

「どうしてですか」

 僕の声は震えている。

「・・・・・・緊張が見える。なんとなくな。お前、若いだろう? 何歳だ? 二十歳、いってねえだろう」

「・・・・・・二十歳ですよ」

「そうか、でも、とにかくタバコは初めてだろう。最近の未成年は背伸びでタバコなんてやらないから」

「・・・・・・そうですけど」と僕は言った。「だからどうしたんですか」

「・・・・・・肺まで入れるな、すぐ吐き出せ。・・・・・・まあ、自然とそうなるかもしれんが」

 僕は彼が何故そう介入してくるのかわからなかったが、とにかくタバコを咥え、火をつけた。手が震え、火をつけるのに少し時間がかかった。

 僕は言われた通り、煙をすぐ吐き出した。もちろん味なんてわからなく、ただ舌先にぴりついた感覚が少しばかり残るだけだった。

「・・・・・・お前、それ自分の服じゃないだろう。親のか? どうしてそんなの着ている?」

「え?」

 見ると、男は僕の目をジッと見ていた。

「お前が着るような色合いじゃない、まあ、勘だけどな。違うか?」

「どうして・・・・・・」

 僕はそう言ったが、それが答えになっていることに気が付いたのは、少し後だった。

「さっき、券売機の前でボーっと突っ立ってたろ? ・・・・・・お前、なんかやばい目をしているんだ。・・・・・・俺は警察官やってたから、わかる。お前、これから何かやろうとしているだろう」

 この男は一体何なのだろう。僕は得体の知れない恐怖に体を支配され、ここから逃げ出したく思った。僕は彼を無視して電車に乗ろうと思ったが、そうしたところで、後をつけてくるかもしれなかった。元々警察官をやっていたのなら、正義感からそう行動しても、おかしくはない。

「・・・・・・何のことかわかりませんね、さっきは考え事をしていただけです。あるでしょう? そういうことって」

「・・・・・・考え事なあ」

 男は納得していないようで、尚も僕に疑いの目を向けている。彼の指挟まったタバコは、灰が二センチ程も溜っていた。

 電車がやってくる音がした。僕はそれを救いの音だと感じ、ここから抜け出そうと思った。煙草を灰皿に捨て、それでは、と会釈をした。男がついてくる前に、どの車両に入ったか、わからなくさせようと思った。

 三号車の目の前まで歩き、後ろを確認しながら、扉が開くのを待った。何人かの人間が下りた。僕は煩わしく思いながらも、彼らが下りるのを待ち、電車に乗った。そして、すぐに二号車まで移動し、奥の扉の前に立った。

 僕の左横の席には、中年の女性が座り、何か本を読んでいた。ブックカバーは茶色の皮の物で、それらしく汚れている。何を読んでいるのか確認しようかと思ったが、出来なかった。僕は異邦人を読みたかったが、今それを持ってはいなかった。腕を組み、浅く目をつむった。

 遠くに、先程の男が三号車に乗ったのが見えたので、一号車に移った。そして、また同じように扉の前に立った。その間、僕はあの男を殺すことだけを考えていた。

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