15話 「いいかい、魔女」


「た、ミハアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」

「――――!」


 セレオルタが叫ぶ。

 これまでに聞いたことがないような、それは魔物でも人間でもない、あえて言うならば獣のような吠え声で。

 そして駆け寄るセレオルタの表情は必死の――怒りではない焦りのような、恐れのような、そんな、彼女がこれまでに見せたことのない――


「っ…………」


 ハッとする。何が起こっているのか。数瞬遅れて理解したぼくは、ようやく今の状況を俯瞰――そのきっかけになったのは、風圧を受けてふわりと舞った、一枚の紙。さきほど、タミハが手に取って読んだ一枚の資料だった。

 そこには、タミハ・シルハナという一人の少女の名前と顔写真、呪いの詳細……そして、資料を編纂した日付が書かれていて。

 それも、他の魔女狩り魔女教と同様に、遠い過去の日付を指していて、そしてそんな彼女の顔写真の横には生年月日と、それに続く――


「セレオルタ…………!」

「!」


 ひゅおう、と一陣の風が吹いた。そんな気がした。

 灰色の世界、に入るほどの加速は出来ない。だが、辛うじて間に合った。その場から横に跳躍するように、こちらに走り寄ってくるセレオルタの胴体に突っ込んだぼくは、そのままユクシーさんと対極に位置する路地の端――ゴミ袋が折り重なる場所に勢いよく突進――タックルして、止まる。

 そしてすぐに反動をつけて立ち上がる。

 タミハは、位置が悪かった、一緒に引っ張って、逃げる事が出来なかった。

 逃げる――それはもちろん、


「ロンジ君、何をしてるんだ? なんで――どうして、ああ…………」


 剣を――抜いているユクシーさんが、そこには佇んでいた。その立ち様は。隙があるとかないとか。勝てるとか勝てないとかを後方に置いて。

 無――とも違う。静か、ただひたすら静かに――水面に立っているかのように、ぼくは錯覚する。


 この人、強い。


 たぶん、ぼくが今まで会ってきた人たちの中で一番――


「そうか。君は魔女が力を取り戻さないと人間に戻れないのか? や、それは面倒だな……」

「なにをする、ロンジ……!」


 ゴミ袋の山からようやく立ち上がったセレオルタの大声が、ユクシーさんの呟きをかき消す。ぼくはちらりとそちらを見て……彼女の両目にはうっすらと透明なものが滲んでいる。それは……今のセレオルタの顔は、最初に出会った時のようなすべてを見下ろし睥睨する圧のようなものはなく、それは本当に、我を失った子供のように――


「タミハ、タミハあああ…………」

「動くな。セレオルタ……」


 また、性懲りもなく両足を切断された――今、おそらく出血のショックで気を失ってしまったか。地面に倒れ伏してぴくりとも動かないタミハに駆けよろうとするセレオルタの腕を強くつかんで。


 ぼくは、抜身の――おそらくそれは、極めてノーマルな刀剣だ。何の装飾もなく、特殊な構造でもない刀剣をするりとぶら下げるユクシーさんの目を見て。


「今、セレオルタを切ろうとしましたね。タミハに近づく、セレオルタを……」

「当然じゃないか。彼女は魔女だからね。だけれど、私としたことが早まってしまった。ロンジ君のことを考えられていなかった。すまない」

「…………」


 ぺこり、と頭を下げてくる。

 この人は……本当に、自分のしたことが、ぼくが人間に戻れなくなりうる……その一点だけを心の底から申し訳なく思っている。

 タミハを切ったことも、セレオルタを切ろうとしたことも。なにも悪いとは思っていない。


 そしてそれは、おそらく正しい。


 ぼくを除く絶対多数の人間にとって、それは間違いなく、正義だ。


「ぼくが庇わなかったら、お前の頭の上半分と下半分は離れてた。ユクシーさんの刃圏に入っていたんだよお前は」

「…………どけ、ロンジ……われは、タミハのところに……!」

「……その様子だと、ロンジ君ももう悟っているよね?」


 ――ぼくの言葉がまったく耳に入らないといった様子のセレオルタと、ぼくの言葉に微笑み返すユクシーさん。

 ぼくは、ぼくは…………


「いいかい、魔女」

「…………っ」


 みき、と嫌な音がした。それは、ユクシーさんがその足を無力化したタミハの頭にのせている音。まるで、埠頭の係船柱に足をかけて。沈みゆく夕日を眺めるように、彼女は言う。


「なるほど、魔女の力は強大無比なものだろう。魔女がいるだけで呪いも宗教も、その威容が弱まり鳴りを潜めてしまう。魔物の女王と言うだけはある、すべてを踏みつけるような膨大な悪意が凝縮したもの。それがお前の存在意義なのだろうね」

「やめ、ろ…………なにをしておる、ユクシー……その足を、タミハ、から………………」

「…………」


 セレオルタは目の前で起こっていることが信じられない。自分の見ているものを認識できないように、辛うじて絞り出すように声を絞る。

 感情が重なり過ぎて、セレオルタの表情は醜く歪んでいた。生まれたての赤ん坊のように。あるいは、死にたての死体のように、

 すべてを知っているかのような顔をして。どんな事象であれ、間違っているのは己以外であると。傲慢で自信満々のあの魔女が。初めて自分を疑っているような、そんな痛々しい顔で。


「でも、だからといって……はたして、タミハの『不幸の呪い』そして、完璧からはほど遠い、魔女もどきと化しているロンジ君に一切の宗教的な威容が効かないのは……さすがにおかしいだろう?」

「……ユクシー、さん…………」


 ぼくは、自分が何を言ったらいいのか分からず、彼女の名前を繰り返すしか出来ない。ああ、本当にぼくは間抜けだ……


「レドワナ大祭は十歩歩けば宗教的なものや聖性ある物品に行き当たる……世界でも有数の人間らしいお祭りなんだよ。そんな中で、魔女はともかく他の二人にまったく影響がないなんてことが、はたしてあるだろうか。百歩譲ってロンジ君はともかく……人間であるロンジ君はともかく、タミハにそれが効かないなんてことは、普通ありえないだろ」

「…………?」


 わなわな、と。震えながら、寒くもないだろうに自身の体を抱きかかえるようにしながら、セレオルタは硬直している。

 まるで歩き方を忘れたかのように。不安な虐待児のように、おどおどと、ユクシーさんの表情を見上げているセレオルタ。

 そんな彼女に、ゆっくりかみ砕くように……赤子に流水の感触を教えるかのように、ユクシーさんは穏やかな表情のまま。


「辺幽の魔女セレオルタ。君を取り巻くすべては……ロンジ君が戦った魔女狩り、クドウタ・ユーグル。魔女教徒たちと魔女教第十一司祭ファイク・ザオ……彼らが250年前の十の月に死亡しているように」

「待て……ユクシーさん…………」

「不幸の呪いを持った少女、このタミハ・シルハナも」


 それ以上は。

 それ以上は、やめろ。やめてくれ。ぼくが知っているだけならば、それは……この幻想は守られるんだから。でも、言ってしまったら。きっと、それは、もう……


。そうなんだよな、セレオルタ――」

「―――――」

「………………!」


 言って、聞いた。

 ――そして、その言葉を聞いた、セレオルタの表情を、ぼくはきっと生涯忘れないだろう。それは、空白でしかなかったから。

 何もないのに、何かがある。何かがあるとしたら、それはきっと、無をも越えた虚無。


「……どうして……」


 どうして。こんなことになったんだろう。だって、楽しかったのに。

 そりゃ、最初は無茶苦茶な出会いで……それからもぼくはこいつらに……セレオルタとタミハに振り回されっぱなしで……だけど、最初にこの国に来た時の目的が上書きされていくような、そんな時間がぼくは。


 それで、ユクシーさんも途中から加わって……四人で、このレドワナ大祭を遊びまわっていくのが、ぼくは本当に楽しくて、あんなに最高の時間だったのに。

 どうして、こうなってしまったんだろう。それとも最初から、ここだけは決まっていた道筋だったんだろうか。

 ユクシーさん、あなただって、今あなたが踏みつけているタミハと仲が良かったじゃないか。

 あんなふうに笑い合っていたら、全然似てないのに、姉妹と思ってしまうくらい。そこにヤキモチを焼くセレオルタが、ぼくは何だか、一番あいつらしいなって……


「辺幽の魔女セレオルタの能力は……物質創造。周囲を漂う無数の塵のようなものから、形あるものを自在に生み出すことが出来る。その規模は甚大で自由。なるほど、これに加えて長く生きた魔物としての身体能力を考えたら、これはもう女王としか言いようがない戦力だろうね……下手をすれば、世界をも滅ぼせる力かもしれない」

「…………」


 セレオルタにはもはや届いていない。でも、今度はぼくによく届く声音で。

 ユクシーさんは言葉を続ける。聞こえていなくても構わない。ただ伝えることに意味があるといでも言いたげに。

 それは、死刑を待つ囚人への祝詞か。それとも今まさに判決文を読み上げている裁判官のようなものか。


「でもね、物質創造はセレオルタの能力の本質ではなかった。いや、もっと正確に言うならば、その言葉は表現として足りていなかった」

「…………っ」


 ぼくは。

 かつて読んだことがある。大戦期の出来事を記録した本……辺幽の魔女と共和国軍、そして三人の英雄の戦闘推移、その抜粋。

 あらゆるものを作り動かし使役するセレオルタ。

 中でも戦況を動かしたのは、【兵の死(バデスローク)】【鳥葬の王(レイグ・レイ)】という名の大魔術だったという。

 どちらも非常に悪趣味な造形物を生み、動かす技だったが……これに、ボンボルト、ベイジャル。リフエルタは苦戦。

 結果として当時のレドワナ共和国軍参謀が打ち出した紺字型人海戦術によってそれを攻略したが、とてつもない損耗率で、後にその参謀は責任を感じ自害した――と。

 だが――


「造形を生み出し使役する。物質を自由自在に創り障る。それだけがセレオルタの力の答えじゃない。魔女セレオルタ、お前は――」

「ユクシーさん、……」


 ――そうして。優しく楽しい女剣士は。

 その相好を崩さないまま、その印象を変えぬまま、それを言い放った。それは、それこそがこの物語の結末だとでも言わんげに。本をめくっていく手がやまぬまま、最後の頁にたどり着いてしまったかのような言い方で。


ではなく。セレオルタは命すらも生み出すことが出来る。そうやって、とっくに死んだ魔女狩りと魔女教たちを生み出して、自分を襲わせていたんだ。そして、タミハ・シルハナという少女も魔女に生み出された存在。故人で、遊んでいた――すべては自作自演の人形劇……いや、それにも劣るおままごとに付き合わされていたんだよロンジ君、私たちは」


 全ては茶番だ、と。


 ぼくたちを襲ってきた魔女教も魔女狩りたちも。

 タミハ・シルハナも250年前、大戦が終結したころの時代に亡くなっていて。

 そんなこの世にいない人たちを、セレオルタは己の力で生み出した。そして、こんな壮大で矮小な……自作自演を、セレオルタは一人で延々と行っていた。

 ぼくと、ユクシーさんはそんな観客のいない演劇に巻き込まれた、唯一生きている人間。

 他の登場人物は、すべて魂のない人形に過ぎない、と。

 そう――ユクシーさんは口角をまげて言う。

 苦笑とも、温度のない微笑みとも捉えられる、そんな笑い方で。


 ――すべてを、白日の下にさらす。


 白髪のセレオルタは、今やうなだれて、くすんでさえ見えるというのに。

 不思議なことに、大きく見えていた彼女の体が、今は、両手に包んでしまうほど小さく見えた。


「言わんで、くれ……」

「…………?」


 ――そうして、沈黙を貫いていた……違う、なにも語ることが出来なかった、呼吸さえ忘れていたセレオルタが、長い静寂に紛れ込むように、小さく、小さく呟く。


「言わんで、くれ……お願い、なのだ……」


 うなだれて、腰を折り曲げて。

 ゴミ山の前で膝をつくその様子は、女王どころか乞食でさえない。野良猫とか、野良犬とか、それとももっと小さなドブネズミとか。

 それはきっと、魔物の女王にあるまじき、その資格と品格を永遠に失うであろう無様な有様で。


「それ以上、言わんでくれ…………うう、ふ、ぐ…………ひいいいい…………」

「…………ふはっ」


 ――思わずと言う感じで。

 ユクシーさんが自分の口元を抑えて笑った。その目元は三日月のように弧を描いて、優越感とは少し違う、自業自得だと足蹴にするような、そんな、人間が魔物に対するあるべき態度そのもの過ぎて。

 魔女の醜態に、腹がよじれているような、それをこらえている様な態度で。


「ひ……っ、もう、やめとくれ…………聞きたくない…………くっ、うううううう………………」

「……すべては紛い物なんだ、セレオルタ。お前が作った舞台で、登場人物はお前だけだった。これは……こんな壮大な喜劇は聞いたことがない。君がもしも人間ならば、歴史に名を遺す劇作家になれたかもしれないね」

「……………………」


 もしも人間なら。

 それは、きっとユクシーさんが魔物に対する言葉にしては最大級の賛辞なのかもしれない。しかしそれは、セレオルタの心を抉って蝕んでいく、毒に毒を混ぜていくような言葉の棘でしかなくて。


「せ、せめて……タミハ、には……」

「……? なにを言ってるんだ。これは人間じゃない、人形なんだから……そんな気遣いはいらないだろう」


 くきり、と。音をさせながらユクシーさんはタミハの頭に足を乗せたまま……さらに力を込めていく。そのまま踏み抜いて、潰してしまいかねない、そんな音が辺りに響いていって――


「やめ、やめろ! やめるのだ……お願い……おねがいだ……っ!」

「……、セレオルタ……」


 ――セレオルタは、もうタミハの元に近寄らない。自分がこれ以上ユクシーさんに接近すれば、斬られてしまうから……ではない。

 近寄らないのではなく近寄れないのだ。

 セレオルタは腰を抜かしているようだった。

 提示された真実の重さに。まるで自分が被害者のような表情で。


 そんなセレオルタの様子でぼくは全てを察する事が出来る。少なくとも、セレオルタにとっては魔女教も魔女狩りも、そしてもちろんタミハ・シルハナも……それが自分で生み出したものであったとしても、彼女にとってそれは真実で偽物なんかじゃなかった。

 セレオルタは、自分で自分を騙していたのだ。


(そう、か……)


 セレオルタ……お前はずっと、狂っていたんだな。

 おそらく、250年前から……タミハ・シルハナが死んだその日から、お前はずっと狂っていたんだな。

 その、ぐちゃぐちゃの情けない涙にまみれた顔を見れば分かる。お前は、ずっとおかしくなっていたんだ。

 お前は――、狂っていたんだな、セレオルタ。


「…………」


 ぼくは、自分が何をしたいのかも分からないまま、何を選ぶのかも分からずに、その場で一瞬だけ目を閉じる。

 自分の中の魔女の肉片が、少し蠢いて揺れた気がして――、それを鎮めるように。


「セレオルタ…………」


 ――そうすると。ぼくの中に映像が浮き出て、沈み込んで、見たことはないけれど、走馬灯のように不思議な光がぼくを取り巻いて通り過ぎていく――そんな、気がした。

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