第弐章 第肆節:火の用心ライター一本火事の元

 昨日、あれほどざぁざぁと激しく降り頻った大雨も、今やすっかりと晴れて眩しくも暖かい陽光が地上を差している。いつものようにコーヒーを堪能しながら町の風景を眺める一颯だが、今日はいつもと違ってもう一人分用意されていた。


 その一人は「おはようござ……あふっ」と、のそのそとリビングにやってきた。


 どうやらまだ意識は微睡の中にいるらしく、覚醒し切っていない顔は酷く眠た気だった。


「遅い起床だな、みこと」と、一颯は時計の方にちらりと横目をやった。


 時計の針は午前8時をちょうどすぎたところ。午前7時前に起床するのが当たり前である一颯からすれば遅い方である。



「休みだからっていつまでものんびりしてるな。ほら、温め直してやったから、さっさと食え」


「うにゅ……いただきます……」と、コーヒーを一口啜って早々に、みことの眉間にシワがきゅっと寄った。


 舌をべぇっと出して、恨みがましそうに一颯の方をじろりと睨む。



「これ、コーヒーじゃないですかぁ」

「見りゃわかるだろ」

「私、コーヒーよりも紅茶派なんですけど……」

「いや知るか」



 ごくごく当たり前のことを返す一颯。

 この家に紅茶なんかあるか! 自称コーヒー愛好家である一颯は紅茶を、そこまで毛嫌いしていないが、飲む頻度についてはほとんどない。



「次からは紅茶にはミルクと角砂糖たっぷりでお願いします」

「お前その図々しさはどこからくるんだ?」



 呆れる一颯はコーヒーに変わって、オレンジジュースを用意した。

 するとさっきまで不服な顔もたちまち笑みに変わり、ごくごくと機嫌よく飲み始める。

 本当にどこまでも子供だ。一颯はそう思いつつ、コーヒーを口にした。


「あっ」と、声を彼がもらした時にはすでに遅く。


 みことの頬は茹でたこの如く、赤々と紅潮していた。

 一颯はとうに、自分のコーヒーは飲み終えている。

 つまり今彼が口にしたのは、みことが残した分で、もったいない症がある一颯はいつものように飲んでしまった。


「ななな、何やってるんですか一颯さん!」と、みことががぁっと吠えるのも無理はない。


 早い話が間接キスである。年頃の健全な少年少女らにはいささか刺激が強く、ただ一颯の方は至って冷静であった。やってしまった、とそう言いた気に表情かおをしかめこそするが、みことのように取り乱したりはしない。



「悪いな、俺の癖っていうか……もったいない症なんだよ。お前がコーヒーを半分以上飲んでたら捨ててたけど、満足に一口すら飲んでいないってなるともったいないだろ?」

「だ、だからってそれ、関節キスじゃないですか!」

「俺は別に気にしてないから大丈夫だ」

「私が気にするんです! うぅ……もう私、お嫁にいけないです」

「いやなんでだよ。お前が口を付けた場所で飲んだわけでもあるまいし……」

「そういう問題じゃないんです! やっぱり一颯さんって変態じゃないですか!」



 完全に眠気が吹き飛んだみことの口からは、絶えず罵声の言葉が飛び交う。


 食器を今にも投げ出しそうな勢いに、一颯は両手をあげて「悪かったって」と、素直に謝罪した。


 とは言っても、覆水盆に返らず――みことの飲みさしに口を付けた事実は、もうどうしようもないので一颯は一気にコーヒーを飲み干した。


「あー!」と、みことが大声で喚くが一颯はまったく意に介さない。


 コーヒーを飲み切ると、そそくさと逃げるように台所へと向かった。



「とりあえず、洗い物とかもあるから早く食べてくれ。せっかくの料理も冷めたらまずくなるしな」

「うぅぅ……一颯さんに穢されちゃったよぉ」

「言い方よ……コーヒーを飲んだだけだろ」と、一颯は大きな溜息を吐いた。



 洗い物をする傍らで、さっきの行動について彼は素直に反省していた。


 こいつは、本当にあいつと似ている……。ぶつぶつと泣き言をもらしては、朝食にぱっと顔に笑みを浮かべる、そんなみことの忙しなく様子を、一颯は後ろからジッと見つめた。


 細川みことは、完全に赤の他人である。

 年齢はもちろんのこと、外見も性格も、何もかもが彼女・・とは大きく異なる。だと言うのに、ふとした時に見せる仕草がどうしても、一颯に彼女・・の存在を意識させる。



「……俺も未練たらしいな」と、そう自嘲気味に小さく笑った。

「何がですか?」と、みこと。

「別に、なんでもない」と、一颯は首を静かに横に振った。

「それよりも早く食べてしまえよ、もうすぐ調査に行くんだからな」

「わかってますってば~もう!」



 みことが朝食を食べる中で、一颯は自室へと戻った。

 いつも彼が愛用する白いコート、ではなく今日のコーディネートは上下共に黒一色。

 赤いアンダーシャツと黒のネクタイと、その出で立ちは【衛府人えふびと】の正装だ。


 だからみことも「今日はいつもの服装と違うんですね」と、不思議がるのは至極当然の反応と言えよう。


 自分の食べた食器を片付けるみことに一颯は「まぁな」と、一言だけ返した。



「大人には色々とあるんだよ、色々とな」

「ふ~ん、でもその服装も一颯さん、とってもかっこいいですよ!」

「ありがとう、とだけ言っておく――さてと、それじゃあ支度の方はいいか?」

「はいっ! 一颯さんの朝ごはんも食べたので元気いっぱいです!」



 むんと胸を張るみことに、一颯はふっと笑みを返した。


 今日こそは、あの怪異をどうにかしないと……! 【現代の神隠し事件】も然り、謎の焼死体事件も然り。


 早急に解決すべき事案が多い現状に一颯は苛立ちに苛まれながら、みことと共に家を出た。



「――、っ!」



 マンションを出て早々に、一颯の鼻腔を強烈な異臭が襲った。

 香ばしいなどというものではなく、金属やプラスチックなどの有害物質が焼けたような異臭は、みことも察知したらしく「な、なんですかこの臭い!」と、両手で鼻を覆った。


 臭いのもとはすぐに判明した。

 駐車中の一台の車から火柱が激しく燃え上がっている。

 ごうごうと音を立てて、勢いが全然弱まる気配がない中で一人の男が喚いていた。彼が炎上中の車の持ち主なのだろう。しかしよくよく見やれば、男の右手には着火したままのジッポーライターがしっかりと握られていた。

 以上からこの男が放火したと察するのは必然だ。



「おいお前何やってるんだ!」



 一颯は素早く、男を取り押さえた。

 意外にも男は抵抗せず、だが地面に伏した状態でへらへらと笑っていた。



「へ、へへへ……ざまぁ見ろってんだ。これであの不気味な女・・・・・を燃やしてやったぜ……」


「何?」と、訝しむ一颯。


 男はへらへらと笑ったまま、炎上した車を見つめるばかり。



「みこと、早く警察と消防局へ連絡を!」

「わ、わかりました!」



 一先ず火災であることには変わらないので、一颯はすぐにみことに指示を飛ばした。

 通報してからおよそ十数後。当然ながら放火したと言うその男は逮捕され、激しく炎上していた車も鎮火し、幸いなことに飛び火による第二被害もなく済んだ。



「私、生まれてはじめて事情聴取受けちゃいました……なんだかドラマの登場人物にでもなった気分ですよ」

「さすがお嬢様高校出身。受け答えや言葉遣いも完璧だな」

「ケースバイケースです。いっつもあんな感じだと疲れちゃいますから」


「……それにしても、またあの怪異絡みか」と、一颯は周辺を一瞥いちべつする。


 一颯の住まいであるタワーマンション近辺は、至って普通の住宅街である。

 今しがた放火事件でざわついたものの、特にこれといった異変は少なくとも一颯の目には映っていなかった。


 今日は現れないのか……? しばしその場で待機していた一颯だったが、一向に件の怪異が彼の前に姿を見せることはなかった。


「ねぇ一颯さん、そろそろ他の場所も見て回りましょうよ」と、みことが促す。


「……それもそうだな」と、一颯も拒否することなく彼女の意見に賛同した。


 自宅から移動した一颯らは、特に目的地は決まっていない。何せ【現代の神隠し事件】同様、情報があまりにも不足しすぎている。痕跡の一つも未だ発見できずにいる、この現状をもどかしく思っているのは一颯だけではない。


「組織の人間も、今頃躍起になっているだろうな」と、一颯は小さく嘲笑した。


 組織内には、追跡を主とする部隊も存在する――部隊名は【猟犬】。彼らの類まれな捜査能力と追跡能力から逃れられた怪異は、未だに一匹たりともいない。それほどの凄腕集団である彼らでさえも今回の難事件には手を焼いているのだ。単独で行動する一颯には猶更困難だと言えよう。


「でも、このまま何か手掛かりの一つでも見つけないと犠牲者が……」と、不安の感情いろを超えにするみこと。


 一颯としても、彼女の言い分については理解を示していた。このままではどんどん、犠牲者が増加するばかり。せめて蒼い炎・・・を操る怪異の方だけでも先に対処しなければ、遅かれ早かれこの太安京たいあんきょうに山のような焼死体ができあがるのも、もはや戯言ではなくなりつつあるのだ。



「って言っても……どこを探すべきか」



 一颯はうんうんと唸り、地図を広げた。

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