8(ある夜のこと)
夜中、シャッターを叩く音に気づいた。十時頃のことだ。
「……?」
あたしは読んでいたマンガを放りだして、耳を澄ませた。もう一度、聞こえる。風のせいではなさそうだ。それは切迫していると同時に、ひどく遠慮がちな音だった。
部屋を出て、階段を下りる。父親は商店街の寄りあい(という名前の飲み会)に出かけて留守だった。一階で店の電気をつけるあいだに、もう一度音が聞こえる。一体誰がこんな時間にやって来たのか、見当もつかなかった。誰かが訪ねてくる予定もない。
あたしは店のドアを開け、シャッターの鍵を外した。物音に気づいたのか、誰かはシャッターを叩くのをやめたようだった。あたしは訝しみつつ、がらがらと音を立ててシャッターを上げる。
夜の暗闇、店の明かりの中には、吉野が一人で立っていた。
「――どうしよう?」
彼女はがたがた震えていた。
血のついた包丁を、その手に握って。
ともかく、あたしは吉野を自分の部屋まであがらせた。まさか、あのまま店の前になんて立っていられない。
吉野から包丁を手放させるのには苦労した。体ががちがちに緊張しているし、小刻みに震えてもいる。あたしのほうまで危ない。手を押さえて、指を一本一本ひきはがすようにして、ようやく包丁を取りあげた。
あらためて眺めてみると、包丁にはかなりの血がついていた。先端から、三センチくらいだろうか。ほとんどの血は乾いて、黒っぽく固まっている。遠くから見れば、錆びに見えないこともない。
ただし、何の血液かはわからなかった。それを言うなら、本当に血かどうかも。
――いや、やっぱり間違いないだろう。
あたしはちょっと迷ってから、その包丁をビニール袋に入れて、店にあった空き箱の一つに収めておいた。証拠品、ということになるのだろう、たぶん。どうなるのかはわからないけど、勝手に処理してしまうわけにもいかない。
そのあいだも、吉野はあたしの部屋でぶるぶる震えていた。多少は落ち着いてきたのか、振動レベルは下がってきている。それでも視線は釘で打ちつけられたみたいに一点に定まって動かなかったし、硬直した体は握り拳を作ったままだった。
吉野はいつかのコンビニの時と同じ、飾りけのないワンピースという格好だった。彼女の普段着なのかもしれない。そのワンピースには明らかな乱れがあって、よく見ると返り血らしいのが点々と付着している。
とりあえず、あたしはその背中にシャンパーをかけてやった。わりと冷える夜だったからだ。震えているのは、そのせいもあるのかもしれなかった。
それから、苦労して事情を聞きだす。実際、スエズ運河を開鑿するほどじゃないにしろ、それはずいぶんな難事業だった。吉野自身が混乱していることに加えて、この期に及んでもその時のことを話したがらなかったせいだ。
それでも何とかかんとか話を整理すると、どうやらこういうことらしい。
今日は父親の機嫌がことさらに悪かった。すぐ怒鳴りつけるし、物も壊すし、どうやら仕事で何かあったらしい(どうせろくなことじゃないのだろう)。帰ってくるなり酒を飲みはじめて、すぐに酩酊状態になった。そのうち酒が切れて、騒ぎはじめた。仕方なく母親が酒を買いにいって、家には吉野と父親の二人だけが残された。
その時の父親がどこまで本気だったかは、わからない。酒に酔って自制心をなくしていたのか、何かの記憶を混同していたのか、正しい認識を欠いていたのか。
母親がいなくなってしばらくしてから、父親の息が次第に荒くなりはじめた。ちらちらと吉野のことを眺めては、残った酒をくらっている。
やがて、父親の目がすわって、奥行きを失い、黒く塗りつぶされた。彼は立ちあがって吉野のほうに近づいてくると、その手をつかんで押し倒した。
吉野は抵抗した。父親はやめなかった。父親は脅したり、すかしたり、懇願したりした。手つきはいっそう生々しくなった。そのごつごつした手は、吉野の胸をまさぐりながら、下腹部に向かった。
その時、吉野は必死の力で身をふりほどいた。台所まで逃げると、父親は追ってきた。本能的に、その場にあった包丁をつかんだ。父親は悠々と迫ってきた。刺されることなんてない、とたかをくくっていたのだろう。
そこからの数瞬は、はっきりしない。
吉野と父親はもみあいになった。体が上になったり下になったりした。包丁は手放さなかった。ある時点で、その包丁に手応えがあった。気がつくと、父親の脇腹にそれが刺さっていた。
父親はきょとんとした。酒のせいで痛みはなかったかもしれない。それでもひっくり返って、あおむけに横になった。吉野はパニックになって、包丁を引き抜いた――一番、まずい処置だ。
出血が激しくなって、父親の服がみるみる赤く染まった。父親は何かうめきながら、憎悪と哀願と苦痛の混じった目で吉野のことを見た。血のついた手をのばしてきて、吉野の頭は真っ白になった。
気づくと、吉野は家を飛びだしていた。血のついた包丁は持ったままだった。怖くて、戻る気にはなれなかった。誰かに助けて欲しかった。誰でもいいから、この場所から救って欲しかった。
――それが、吉野の話のおおまかなところだった。
実際にはもっとごちゃごちゃしていたし、細かかったのだけど、話の筋に違いはない。これでもずいぶん、簡潔にはしょったほうなのだ。
いずれにせよ、このままで済む話じゃなかった。身を守るためとはいえ、吉野は人を刺した。それも、実の父親を。彼女は血に染まった包丁を握っていたし、その服には同じ血が滲みこんでいる。
あたしの前で、吉野はまだ身を固くしていた。小さく、小さく、まるでそのまま消えてしまえればいいと思っているみたいに。そうして時々、歯がかちかち鳴るのが聞こえる。
しばらして、彼女は震えの隙間をぬうみたいにして言った。
「――どうしよう?」
とはいえあたしとしても、どうしていいかはわからなかった。
あたしは吉野を連れて、スナック「櫂」に向かった。
頼れるような場所を、ほかに思いつかなかったのだ。このまま中学生二人で警察に出頭する勇気はなかったし、うちの親じゃ話にならない。学校なんて論外だ。
結果、思いついたのがノリコさんのところだった。何の根拠もなかったけれど、職業柄こういうことに少しは詳しいんじゃないか、と思ったのだ。
あたしはスナックの裏口にまわって、ドアを叩いた。かなり乱暴に。あたしは吉野ほど上品な人間じゃないのだ。
一度ノックしてから、もう一度ノックしようとしたところで、ドアが開いた。入口にはユウちゃんが立っていた。店の明かりは薄暗くて、その場所は汽水域みたいに夜の暗闇と混ざりあっていた。
ユウちゃんは無言で首を傾げた。まあ、当然だろう。けどあたしが何か言う前に、後ろの吉野に気づいたらしい。吉野はまだ小さく震えて、目は見開き、歯の根があわずにいる。それで異状を察したらしく、すぐにあたしたちを中に入れてくれた。
幸いなことに、と言うとあれだけど、店内に客の姿はなかった。もちろん、このほうが話がしやすい。店の経営状態には悪いけど、あたしたちにとっては好都合だった。
ノリコさんの姿を探すと、カウンター席に座って煙草をくゆらせながら無聊をなぐさめていた。あたしたちのことに気づくと、「あらあら、こんな時間に来ると補導されちゃうわよ~」と妙にリアルなことを言う。
あたしは吉野に目配せしてから、ノリコさんの前に座った。とりあえず、吉野のほうは話せる状態じゃなさそうなので、あたしが簡単に事情を説明する。吉野の家庭状況、酒飲みの父親、その父親を刺したこと――
「ふうん」
と、ノリコさんはわかったのかわからないのか、煙草を灰皿でもみ消しながら言った。何だか水を入れすぎたカルピスみたいに薄い反応である。やっぱり、相談相手の選択を間違えたんだろうか。
そう思っていると、ノリコさんは言った。
「だったら~、ユウちゃんに聞いてみれば?」
「……何でまた?」
鏡はなかったけれど、あたしは自分が相当すっとんきょうな顔をしているのがわかった。鳩が豆鉄砲をくらったみたいに。
けど、ノリコさんは意に介したふうもなく、相変わらずのマイペースで続ける。
「だって、ユウちゃんてば元警察官だから」
あたしは目をぱちくりさせた――と、思う。今度は鏡がないとわからなかった。鏡があってもわからなかったかもしれない。
そんなあたしを尻目にして、ノリコさんはさっさと話を進めていた。
「とりあえずここじゃなんだから、上で話したほうがいいんじゃないかな~。いつお客さんが来るかわからないし、そうなったら困るでしょ」
確かに、その通りだった。けど何だか話についていけなくて、まごついてしまう。そんなあたし――と、吉野――に対して、ユウちゃんは首だけ振って行き先を誘導する。ほかにはどうしようもない。野になるか山になるかわからなかったけど、あたしたちはそのあとについていった。
あたしが店をあとにするとき、ノリコさんはいつもの調子で笑顔を浮かべて言ってきた。
「――ゆきなちゃんみたいなこと私も覚えがあるから、できるだけ力になってあげてね、カズちゃん」
裏口から出て店の横にまわると、外階段がくっついていた。街灯のおぼつかない明かりで、かんかん音を立てながら上っていく。蹴破るのに都合のよさそうな薄い木の扉を開けると、ユウちゃんは中に入っていった。
入口の横にあるスイッチを押すと、明かりがつく。何だか荒い紙やすりで削ったみたいな、ざらざらした質感の光だった。そこは店の物置のような場所なのだけど、今はユウちゃんが寝泊りするのに使っている、ということだった。
一階の半分くらいの広さで、壁の棚にダンボールやお酒の備蓄、床の上によくわからないガラクタなんかが転がっている。入口近くの一角に小さなスペースを作って、たたみ三畳の上に卓袱台、ほかにベッドや小ぶりのタンス、化粧台なんかが置かれていた。
元々、生活空間として設計されていないだけに、ひどくうらぶれた雰囲気ではあった。何だか、核戦争後の避難シェルターという感じでもある。
あたしたちとユウちゃんは、卓袱台を囲んで畳の上に座った。一つだけあった座布団には、吉野を座らせる。まだショックが抜けきらないらしく、吉野は大人しくされるがままだった。
そうして話をする準備が整ったところで、あたしたちはユウちゃんについての新しい秘密を知ることになった。
「――じゃあ、順を追って話してもらおうかな」
そう言ったユウちゃんの声を聞いて、あたしは口をぽかんと開けてしまった。吉野でさえ、驚いて顔を正面から見つめている。
ユウちゃんの声は、低く、野太く、割れていた。ごろごろした山の岩肌みたいに。それは、まるっきり――男性のものだった。
想像していたとおりの反応だったのだろう。ユウちゃんは意外な顔もせず、嫌な顔もせず、訓練された冷静さで言った。
「まず、はっきりさせておかなくちゃいけないけど、私の本名は
それはいわゆる、性同一性障害というやつだった。脳は女性で、体は男性。もしくは、その逆。それは間違った容器に魂をつっ込まれたみたいなものだった。サイズも形もあわないその容器を使おうとすれば、容器そのものを壊してしまうか、魂のほうを切り刻んでしまうしかない。
ユウちゃんは――大岡裕二さんは、それなのだという。どうりで、しゃべらないはずだった。
とはいえ、今はそれどころじゃない。悪いけど、当面のさしせまった問題のほうが重要だった。
「お父さんを刺した詳しい経緯について、話して欲しい」
ユウちゃんにうながされて、吉野はとつとつと語りはじめた。吉野はある程度落ち着いていた。ユウちゃんのカミングアウトで、ショックがいくらか相殺されてしまったらしい。それに説明そのものは二回目になるので、あたしに話した最初の時よりずっとすっきりしている。
話を全部聞いてしまうと、ユウちゃんはまず吉野の母親の携帯番号を聞いた。状況的に、今頃はもう母親が、刺されて血を流す父親を発見しているはずだった。どうなったか、確認しなくてはならない。
知らない人間からの電話だったはずだけど、吉野の母親はすぐに通話をつないだ。たぶん、思うところがあったのだろう。何せ父親が刺されて娘が行方不明という、危機的状況だったのだから。
「私は、大岡という者です」
と、ユウちゃんは完全に男のほうの声で、まずは名のった。当たり前だけど、ここで込みいった事情を説明している余裕はない。
ユウちゃんはそのまま、電話でしばらくやりとりを続けた。吉野が声を聞かせたこともあって、吉野の母親(
火星と通信するようなまどろっこしいやりとりの中で、刺された父親の命に別状のないことがわかった。今は病院にいて、治療を受けているらしい。意識もはっきりしていたという。
「警察には、もう?」
というユウちゃんの質問に対しては静さんはまだ、と答えたみたいだった。
「今、どこに? あとでそちらに向かいます」
と、搬送先の病院の名前を聞いたあとで、ユウちゃんは電話を切った。とりあえず、目下のところ必要な情報は手に入った、ということだろう。
ガラスの上の水滴と水滴がくっつくようなわずかな間があってから、吉野は訊いた。
「わたし、これからどうなるんですか?」
父親の生存は一種の朗報だったけど、もちろんそれで問題のすべてが解決したわけじゃない。やむをえない事情があったとはいえ、吉野が父親を刺したのは事実だった。それにだとしても、もっと厄介な問題が残っている。
「とりあえず、法律的な話をしようか」
と言って、ユウちゃんはこれからの一般的な流れについて説明してくれた。
十四歳以上にあたる吉野は、法律的には少年法によって裁かれることになる。これは通常の刑法と違って、「少年」(法典にちゃんとそう書いてある)の保護や更生を主目的として裁判を行うものだ。
全件送致主義といって、非行によって逮捕された「少年」は必ず家庭裁判所に送られて、そこで少年審判を受けることになる(非行そのものが認められない場合などは例外)。審判では、裁判官、調査官、本人や保護者、場合によっては弁護士(付添人と呼ばれる)によって話しあいが行われる。ドラマなんかで見る裁判とは違って、非公開。
そこでの処分は、大きく三つ。
非行の態度が悪質なために事案が検察に戻される、逆送。とりあえずは問題なしと判断される、不処分。それから「少年」の環境などに問題ありと認められた場合の、保護処分。
吉野の場合、三番目の保護処分に該当する可能性が高い、ということだった。いわゆる少年院に送られるのも、この中に含まれている。
「君の場合、おそらく児童相談所に行くことになると思う」
と、ユウちゃんは言った。
しばらくのあいだ、誰も何も口をきかなかった。知らないうちに世界の終わりが通りすぎてしまったみたいな静かさだった。一階に客がやって来たのか、からんからんとカウベルの音がする。
やがて、吉野は言った。
「それが一番良い方法なんですか?」
粛然とした様子で、ユウちゃんは答えた。
「――それが一番良い方法だね」
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