9(引き出しの奥の手紙)

 それが、一番良い方法だった。

 吉野とあたしたちはいったん病院へと向かい、そこで静さんと合流した。今後のことについて相談し、ユウちゃんのプランを了承してもらうためだ。

 病院の待合室で初めて会う吉野の母親は、多少やつれてはいるけど、美人の面影がはっきり認められる人だった。細身で、長い髪を少しだけ染めていた。若い頃は吉野にそっくりの美少女だったのだろう。

 ユウちゃんからの説明を受けた静さんは、長いこと黙っていた。あまり現実的とは言えないけど、このまま家庭内で問題を秘匿してしまう、という手もあった。裁判沙汰になれば、今までどおりの生活を続けていくのは不可能だろう。

 例え自分たちがどれほど間違っているとしても、それを自分で否定してしまうのは難しい。

 でも吉野の母親にしても、今がどういう状況かはわかっていた。自分たちを壊してしまうのは難しいけど、たぶん本当はずっと前から壊れてしまっていたのだ。割れた皿をいくら形だけくっつけてみても、手を離せばそんなものはすぐ元に戻ってしまう。

 静さんは吉野のことを見た。服の返り血や、見えない体の痣、その幼さなんかを。その視線にはたぶん、遠くの過去をかすかにのぞく目と、確かに愛情と呼ばれるものが含まれていた。

 結局、彼女はユウちゃんのプランに従うことにした。警察に出頭し、裁判を受け、しかるべき処置を受ける。

 吉野と静さんがもよりの交番に向かう前に、あたしは吉野と少しだけ話す機会があった。二人だけで、階段近くにあるちょっとしたスペースの、自動販売機の前にたたずむ。非常灯だけの薄暗い病院で、自動販売機の光が無関心に存在を主張していた。

「――大丈夫?」

 あたしはあまり、気が利いているとはいえない質問をした。とはいえ、ほかに言葉は思いつかない。

「うん――」

 と吉野はうなずいた。もちろん、今回のことで吉野はどこにも傷は受けていない。傷は、本来それを受けるべきだった人間が受けた……はずだ。

「これで、親父もちょっとは懲りるといいんだけどね」

 あたしはわざとふざけた調子で、明るく言った。そうでもしないと、やりきれない。

「……かもしれない」

 少しだけ笑いながら、吉野も同意した。「もっと早く、こうすべきだったのかも」

「どうせなら、バットで殴ってやればよかったのにな」

 あたしは同じ調子で続ける。

「頭のあたりを、思いっきり。そうすりゃ、かえってまともになったかも」

「今度やるときは、考えとく」

 吉野が澄ました顔でそう言ったので、あたしは笑った。よかった、少しは元気になってきたみたいだ。

 それからしばらく、あたしたちは黙っていた。自動販売機の低いうなり声が聞こえる。今すぐ世界が滅びたとしても、少なくとも飲み物の心配だけはしなくていいわけだ。ほかのすべての心配事が、それでどうなるわけではないにしろ――

「ねえ、和佐ちゃん」

 吉野は不意に、星の数でもかぞえるみたいにして言った。

「これからも、わたしと友達でいてくれる?」

 その問いに、あたしは即答しなかった。もちろんそれは、すぐに答えられる簡単な質問だった。訊かれるまでもないことなのだから。でもあたしとしては、彼女のその言葉の意味や、重さや、形を、しっかり受けとめておきたかったのかもしれない。それで、すぐには答えなかったのかも。

 本当のところは、自分でもよくわからない。

「――もちろん」

 と、あたしはできるだけにやっとして言った。

「あんたのほうが嫌だって言っても、あたしは勝手にそう思ってるから」

 そう言うと、吉野はあくまで上品な感じに笑った。控えめで、淑やかで、柔らかく。吉野ゆきなはやっぱり、美少女だった。

 あたしは何かを伝えておきたくて、彼女の助けになるようなものを手渡しておきたくて、けど何も思いつきはしなかった。人間はコンビニみたいに都合よく、何でもかんでも用意しておくわけにはいかない。結局、あたしの口から出てきたのは、こんな陳腐な言葉でしかなかった。

「あんたなら、きっと大丈夫だよ」

 吉野はこくりとうなずいて、言う。

「うん――」

 そうして、あたしたちは別れた。吉野と静さんは交番に向かって歩いていき、あたしとユウちゃんもそれぞれの家へと戻っていく。

 実質的に、それがあたしと吉野の会った、最後の時だった。その時は想像もできなかったけど、あたしと吉野はもう直接顔をあわせることはなかったのだ。



 ――だから、これから語る吉野ゆきなのその後は、主として彼女からの手紙によって成りたっている。

 まず、出頭した吉野は一般的な手続きにしたがって拘置所での勾留を受けた。犯人をただ閉じ込めておくためだけの、愛想のない場所だ。通常は捜査終了まで十日ほどをここで過ごすのだけど、事件そのものの内容や年齢を考慮されて、吉野はすぐに少年鑑別所のほうに移されている。

 少年鑑別所というのは、裁判(少年審判)を行うまでのあいだに、「少年」の家庭環境やら精神状態やらを調査するための場所だ。軟禁状態だったり、服が支給されたジャージだったりするけど、基本的にはそう悪くないところである。

 最長十週間(通常は四週間程度)のこの期間に、裁判官が処分を決定するための情報が集められる。検察の調査官と呼ばれる人が、「少年」の周辺情報を精査するのだ。精査というのは、要するに関係者(身内、学校の先生、友人など)への聞き込みのこと。

 あたしも、学校で話を聞かれることになった。

 調査官は若い女性で、岸田きしださんという人だった。ショートカットで、ぴしっとしたスーツ姿。いかついところはなくて優しげな人だったけど、さすがその道の人らしく、芯の部分の強さみたいなものが感じられた。

 生徒相談室の狭い部屋に、あたしたちは向かいあって座っていた。個人的な話ということで、部外者はどこにもいない。

 岸田さんの質問はほぼ通り一辺倒のもので、答えるのは難しくなかった。「彼女はどんな子だった?」「クラスではどんなふうだった?」「ほかに友達はたくさんいた?」「暴力的な傾向は?」「心に問題は抱えていた?」

 ただ、最後の質問で、「あなたはどうして彼女と友達になったのかしら?」と訊かれたときは、答えにつまった。

 その答えはとても簡単なような気もしたし、とても難しい気もした。花がどうしてあんな形をしているのか、というみたいに。あたしはちょっと考えてから言った。

「彼女はきれいだったから」

「そうね、吉野さんはとてもきれいで――」

「きれいで、弱かった」

 そう言うと、岸田さんは口を閉ざした。そして珍しいものでも見るような目で、あたしのことを見る。

「……吉野はあれだけきれいで、でも自分勝手な強さを身につけようとはしなかった。彼女は度がすぎるくらい弱かった。それは親とか、環境のせいもあったと思う。けどたぶん、吉野は元からあんなふうだった。誰かを傷つけたり、誰かに嫌な思いをさせることを、極端に怖がってた」

「…………」

「彼女はとてもきれいで、とても弱かった」

 あたしは岸田さんにというよりは、ほかの誰かに向かって言いきかせるみたいにして言った。ほかの誰かというのは、たぶんあたし自身のことだ。

 調査官である岸田さんが、あたしの話をどう判断したのかはわからない。審判は非公開で行われるし、あたしが彼女の報告書に目を通すことなんて不可能だ。それが吉野に有利に働いたか、それとも逆だったかは、あたしにはわからない。

 ただ、それが岸田さんをとおして間接的に吉野に伝わった可能性はある。伝書鳩みたいに遠回しだったけれど。

 審判開始までの四週間のあいだは、学校では中間試験が行われた。あたしは何故かいつもより勉強に集中していて、成績も今までで一番良かった。事情をある程度知っていた先生が驚いたくらいだ。

 吉野のことは、事件も調査も秘密にされていたとはいえ、いろんな噂が出まわるのはどうすることもできなかった。何しろ学校には来ていないし、彼女の父親のことは前々からいろいろ取り沙汰されている。これで黙っていろなんていうのは、倒れたコップの水が地面に零れないようにするみたいなものだった。要するに、自然の摂理に反している。

 噂の中にはずいぶん無責任なものから、当たらずとも遠からずというところまで、様々なものがあった。変質者に誘拐されたとか、売春行為で逮捕されたとか、たんに不登校になっただけとか。

 何にせよ、それらの多くが好意的なものじゃないことだけは確かだった。友達もいなかったうえに、潜在的なやっかみや異物感が強かったせいもあるだろう。あたしはそんな群雀たちを、ほとんど横目で無視していた。

 四週間のあいだ、あたしと吉野は手紙でやりとりをしていた。直接面会に行くことはできないけど、文通は自由だ。慣れない便箋に向かって、あたしはできるだけ丁寧に文字を書いた。少しでも、言葉の正確な形が吉野に伝わるように。

 手紙の内容は、お互いの近況報告みたいなものが大半だった。吉野は鑑別所での生活や、そこで読んだ本のこと、今の心情について簡単に綴ってきたりした。あたしはテストのことや、相変わらず暇な洋品店、多少の愚痴っぽい文章をいくつか書いて送ったりした。

 吉野からの手紙はきれいな便箋に、折り目正しく記されていた。彼女の字は相変わらず丁寧で、品がよく、控えめだった。例の黒板に書かれた、彼女の名前と同じで。

 そして父親を刺してからちょうど四週間後、裁判官によって吉野のその後――運命といったほうがいいんだろうか――が決定される日がやって来た。


 ――何か期待されると悪いんだけど、少年審判の結果は予想通りだった。つまり、保護処分。三つある処分のうち、吉野が受けたのは児童相談所送り(ほかの二つは、少年院と保護観察)だった。

 そのあいだ、父親には接近禁止命令が出され、母子ともに一時的な保護施設に移った。当然だけど、今回のことは吉野だけじゃなくて、静さんにも大きな転機になったのである。父親との離婚も成立して、二人の籍も変わった(だから、もう吉野じゃなくなったわけだけど、ここでは一応そのままで通すことにする)。

 二人がどんなふうにその後の混乱や、葛藤や、ごたごたを処理していったのか、あたしは知らない。何故なら、あたしたちは直接会うことなく、二人は別の町に引っ越していったからだ。正直、父親のことを考えればこの町に残るのは無理があったし、今の状況で吉野が中学校に戻ってくるのも難しかっただろう。

 そんなあれやこれやを、あたしはすべて吉野からの手紙で知った。封筒に書かれた住所は、あたしが全然知らない場所のものだった。手紙の中の吉野は、相変わらずの感じではあったけど。

 あたしたちは吉野が鑑別所にいたときと同様に手紙のやりとりを続け、近況や、ちょっとした悩みや相談事、いっしょにいたときの思い出話なんかを書きあった。あたらしい町で、吉野の母親は自立支援プログラムのお世話になり、吉野自身は児童相談施設に預けられることになった。経済的な問題やら何やらで、二人でいっしょに暮らすのは現実的ではなかったのだろう。

 吉野は新生活に、比較的順調に適応しているみたいだった。父親とのことが良くも悪くも影響を与えたのだろう。このままだと、自分が死ぬか、相手が死ぬかしかない。吉野は誰かを殺すようなタイプでは全然なかったし、積極的に死を望むほどアクティブでもない。

 となると、やっぱり変わるしかなかったのだろう。クジラが海に向かい、キリンが首を長くし、人が知恵を身につけたみたいに。

 しばらくすると、吉野は転校先の新しい中学で友達を作った。その子は読書好きで大人しめの、かわいらしい娘だという。あたしとは、眼鏡をかけていることくらいしか共通点がない(その眼鏡にしても、あたしのはただの伊達眼鏡だ)。

 吉野がそんなふうに人間関係の輪を広げていることを、あたしは手紙に書いて祝福したり、茶化したりした。実際、それは喜ばしいことだった。あの吉野ゆきなが、前向きに人生を送っているのだ。

 そうしてあたしたちはずいぶん頻繁に手紙のやりとりをしていたけど、いつからかその数は漸減していった。まるで、砂時計の砂が残り少なくなっていくみたいに。

 あたしたちはお互いの存在しない生活を送りはじめていた。中学を卒業し、高校生になり、人生で抱える荷物は増えはじめていた。生き物のリソースには、常に限りがある。だからこそ、コストの管理が重要になる。生存上、無駄な消費は避けなければならない。そういったものは自然に消滅するか、退化していくことになる。

 たぶん、結局はそういうことなのだと思う。

 あたしたちの通信記録は、数日に一回から、一週間に一回、一ヶ月に一回、一年に一回へと、確実に減っていき、最終的には完全に途絶えてしまった。あたしが出した最後の手紙は、「転居先不明」の判子を押され、ポストに戻ってきている。

 手紙以外の通信手段を、あたしたちはとらなかった。メールとか、ラインとか、電話でさえも。

 古風とか奥ゆかしいとも言えるけど、それはもしかしたら、いつかこうなることをあたしたちは知っていたからかもしれない。お互いのつながりが、褪色した絵みたいに判別できなくなることを。どこかのとんまなヤギが、中身も読まずに手紙を食べてしまう日が来ることを。

 吉野からの最後の手紙には、こんなことが書かれていた。

「――今でも時々、和佐ちゃんのことを思い出します。和佐ちゃんは言いましたね。〝ここじゃないどこかに行きたい〟って。その気持ちが、今なら、わたしにもよくわかります。できれば、わたしも和佐ちゃんみたいに強くなりたいです」

 あたしはその手紙を、今でも机の引き出しの奥にしまっている。

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