7(あたしたちが一番きれいだったとき)
というわけで、あたしは計画を立てた。もちろん、海へ行くための。
はじめは、バスにしようと思った。何しろ、けっこうな距離がある。でも調べてみると、バスだと四回も乗り継ぎをしなくちゃならないうえ、運賃もバカにならない。あたしはそれほどの金満生活を送っているわけじゃないのだ。たぶん、吉野のほうも。
父親に車で送ってもらう、というのは論外だった。あのひげ親父に頼みごとなんてしたくはなかったし、吉野のことを紹介するなんてもってのほかだ。あの男のゆるい脳みそでは、きっと吉野の境遇なんて理解できないだろう。
そこで考えたのは、自転車だった。距離的には十分可能だったし、何といってもこれなら
もちろん、足をケガしている吉野には無理だった。あの腫れはそう簡単には治らないし、捻挫を悪化させるおそれだってある。けど幸い、自転車には二人乗りという裏技がある。交通法には違反するけど、背に腹は変えられない。
そんなわけで、休日の昼すぎ、あたしは吉野の家の前までやって来た。待ちあわせの場所は別で、住所も教えられていなかったけど、連絡簿で調べたのだ。
見つからないようそっとうかがってみると、それはいわゆる〝低所得者層〟向けの市営住宅だった。コンクリートで造られた細長い箱みたいな建物が、二棟並んでいる。一棟につき、五軒が入居可能。どっちも平屋で、玄関前には洗濯物が干されていたり、植木鉢が置かれていたり、三輪車が転がっていたりした。建物の壁面には、区画番号らしきものが印字されている。
だからどうだというわけでもないのだけど、あたしはそれだけのことを確認すると正規の待ちあわせ場所に戻った。何の変哲もない、近くにある小さな公園の前である。
吉野はしばらくすると、約束の時間の五分前に現れた。早すぎも、遅すぎもしない時間だった。まあ、予想通りというところではある。
軽く挨拶してから、あたしは吉野の格好を眺めた。
何というか、わりと個性的な服装だった。スウェットパンツというか、ボンタンパンツというか、わりとだぼだぼしたズボンに、やけに光沢のあるジャケットを着ている。さすがの美少女ぶりも、一割減というところだった。何でも、母親のお下がりらしい。
一方のあたしはというと、パーカーにショートパンツというごく普通の格好だった。できれば服を交換してやりたい気もしたけど、たぶん気の迷いだ。
その代わり、というわけではないのだけど、あたしはかぶっていた帽子を吉野の頭にのせてやった。陽ざしはけっこう強かったし、移動時間もけっこう長くなる。人類の損失という観点に立てば、こうするのが正解というものだった。
吉野は帽子のつばを押さえながら、いつもの遠慮がちな笑顔を浮かべた。
「ありがとう、和佐ちゃん――」
吉野から「和佐ちゃん」と呼ばれることには、不思議と抵抗がなかった。ほかの人間だったら、たぶん軽い拒否反応を示していただろうけど、吉野の場合はむしろ、変な面映ゆさを感じた。美少女の特権というものかもしれない。
ともかくも、あたしたちは出発することにした。この日のために、あたしのクロスバイクには多少の手が加えられている。キャリアーを装着し、ハブステップを取りつけたのだ。
もちろん、どっちも二人乗り用の装備なんかじゃない。キャリアーの乗り心地や積載加重は人間用には出来ていないし、ハブステップはそもそも足を乗せるための部品じゃなくて、転倒したときにギアを傷つけないようにするためのものだ。
けどまあ、水は低きに流れるのが物事の道理だった。便利な道具があれば、多少本来の目的とは違っていても利用される宿命にある。
あたしはクロスバイクにまたがると、吉野を後ろに乗せた。楽な位置になるよう何度か試運転してから、さっそく出発する。
足のことでもわかるとおり、自慢じゃないけどあたしは体力には自信がある。距離はそれなりとはいえ、海までの道はほぼフラットだった。人を乗せて走るのがきつくないといえば嘘になるけど、無理というほどじゃない。それに吉野は美少女効果なのか、ほかの理由によるのか、小鳥みたいに軽かった……というのは言いすぎだけど。
あたしは前もって設計しておいた経路を、えっちらおっちら走っていった。直線でスピードが出ると、吉野の長い髪が風の形といっしょに乱れた。それは不思議と愉快な感じがして、たぶんそれは吉野も同じだった。
途中、少しだけ道に迷ったり、上り坂を歩いたり、休憩したりしながら、あたしたちは徐々に海へと近づいていった。平野には田んぼが広がって、その向こうには息を胸いっぱい吸い込んだみたいな青空が浮かんでいる。
――自転車のスピードに、悩みごとはついてこなかった。
予定よりは少し遅れたけど、やがてあたしたちは海岸に到着した。幸い、警官に二人乗りを見とがめられるようなことはなかった。世界はけっこう広いところではあるし、税金も警官の数も有限なのだ。たった二人の中学生が交通法規に違反しているところまでは取り締まれない。
「――――」
海岸線に沿った防潮堤の向こうを眺めると、砂浜が一キロくらいにわたって続いていた。さらにその向こうには、白い波濤を立てて、黒々とした海が広がっている。
あたしも吉野も自転車を降りて、砂浜に続く道を探した。波と風の音が強くて、何のためかよくわからない幟がばたばた揺れている。体が引きちぎれそうなところを必死に耐えているような、雄々しい幟だった。
やがて道がそのまま砂浜に続いているところがあって、あたしたちはそこを進んでいく。自転車には鍵をかけて、その辺に転がしておいた。こんな砂の上を走れたもんじゃない。
海岸には、ほとんど人の姿はなかった。まだまだ海水浴のシーズンじゃないし、そもそも人はこんな場所になんて来たりはしない。何故なら、ほかにもっときれいな場所、もっと面白い場所があるからだ。ディズニーランドに行ける人間は、それを避けてまであえて地方の寂れた遊園地になんて行ったりはしない。
砂に足をとられながら、あたしたちは浜辺を歩いていった。砂の上には貝殻の欠片や、半分以上骨になった魚の死骸や、馬の蹄の跡があったりした。馬の蹄? 近くに乗馬クラブがあったから、蹄はそのせいだろう。まさか例の八代目将軍様がこっそりご来訪なさったわけでもあるまい。
波打ち際までやって来ると、風が猛って、白波が唸っていた。波が引いたりよせたりするたびに、海の噛み跡みたいな黒い線が残されていく。縹渺たる景色というやつだった。
あたしたちは特に何をするでもなく、その場所で思いおもいに時間を過ごした。意味もなく手のひらから砂をこぼしてみたり、白く泡立った波の先端に触れてみたり、水平線の丸みを実際に確認してみたり――
どうして吉野が海になんて来たがったのか、理由はよくわからない。何か特別な思い出でもあるのか、たんに海が見たかっただけなのか、それとももっと複雑な事情でもあるのか。
でも、とにかく吉野は海に来たがった。どこに行ったって同じだと、本心からそう言っていた彼女が、ともかくも海に来たがった。だからここに来た理由としては、それで十分なんだと思う。
「――――」
あたしは海の始まりと陸の終わりに立つ、彼女の姿を眺める。
強い風に吹かれ、じっと海面を見つめる吉野の横顔は、それが化けの皮みたいなものにすぎないと知っているあたしが見ても、思わず呼吸をとめてしまいそうなくらい、きれいだった。そこには心臓を小さな針でつかれるくらいの、物理的な痛みさえ存在していた。
――吉野ゆきなは、確かに美少女だった。
あたしは足を投げだして、砂浜に腰をおろした。夏場とは違って、砂はかすかにひんやりとしている。
「ねえ、吉野――」
と、あたしは呼びかけた。吉野はこっちを向く。
「満足した?」
そう訊くと、吉野はにこりと笑ってみせた。たぶん、今までで一番自然な笑顔だった。
「うん、満足した」
あたしは重ねて訊く。
「どこかに行くのも、悪くないでしょ?」
すると吉野は、一度自分に質問するように間をとってから、言った。
「……うん、悪くない」
あたしはけたけたと笑った。吉野のそんな答えが聞けて、あたしも満足だった。
「…………」
少し強く波がよせてきて、吉野の足元を洗った。彼女は澄明な瞳で、寂寥とした海の彼方を見つめている。
それから、吉野は言った。
「――ねえ、和佐ちゃん。わたしといっしょに死んでくれる?」
あたしはしばらくのあいだ、黙っていた。吉野の瞳はとても真剣で、とてもきれいだった。あたしはどう答えていいかわからなかった。
けど、言葉は自分でもよくわからないところから形になって浮かんできた。あたしはほとんど間を置かずに答えていた。
「それは、あたしの主義じゃないから」
言ってから、あたしは自分の発言の意味を吟味する。まるで、他人の口がしゃべった言葉を考察するみたいに。でもそれは、あたしにとっては間違いなく正しい答えだった。
「…………」
吉野はもう一度やって来た波の先端を、今度は自分からそっと踏みつけた。波はその場所にとどまることもなく、さっさと海のほうに戻ってしまう。
「……そっか、残念」
小さくつぶやくように、吉野は言った。ほんのかすかな、笑顔の名残りみたいなものを浮かべながら。
あたしはぼんやりとそんな吉野を見ながら、さっきよりも強く胸の痛みを感じていた。そこに手を触れると、血の跡さえつきそうだった。でもそれを吉野に見せることはできなかった。
世界はそんなあたしたちに、無関心でいる。海も空も雲も太陽も、みんな大きすぎてあたしたちになんて気づいたりしない。風は何も教えてくれることなく通りすぎていった。
すべてのものが移っていく世界の中で、あたしたちだけがどこにも行けず、その場に留まっていた。
それからしばらくして、あたしたちは来た道を戻っていった。
つまりは、差し引きゼロだ。結局は、最初の場所に戻ってくる。もちろんそこには、かすかな違いがある。プラスかマイナスかはわからないにしろ、ほとんどゼロに近いくらいのかすかな違いが。
家路をたどるうち、いつもの見慣れた風景が広がりはじめていた。その頃にはだいぶ時間も遅くなって、日没が迫りつつある。あたしたちの背後には、やけにまっすぐな光を投げてくる夕陽があった。それはまるで、世界にでかい穴でもあいているみたいだった。
あたしは肩に置かれた吉野の手の温もりを感じながら、自転車をひた走らせた。時々、彼女の小さな鼻歌が聞こえてくる。世界を軽く聖別してしまいそうな、きれいな鼻歌だった。
たぶんその日は、〝あたしが一番きれいだったとき〟だった。あたしたちが一番きれいだった、一日。
やがてあたしたちは、それぞれの場所に戻っていった。それぞれの家、それぞれの家庭、それぞれの家族。
別れ際、あたしたちはそっと手を振った。何かを壊してしまわないように、そっと。お互いに、「さよなら」は言わなかった。きっとまたすぐに、会えると思っていたから。
――そしてもちろん、あの日がやって来た。
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