エピローグ『今は、寸足らずの歩幅で』その1

 夏休みに入ったと思ったら、明日はもう二学期だった。そんな気分だった。


 事件から一週間が経ち、ようやく全身の筋肉痛から解放された勢十郎は、椿油の匂いが残る布団を押しのけた。時刻は六時。高校生の朝にしては早い目覚めかもしれないが、あと三十分起床が遅れると遅刻が確定するので、油断は禁物である。


「……マジで中型免許とろう。今の原付じゃ、やってられねえ」


 誰にともなくそう言って、勢十郎は赤ジャージに袖を通した。


 あれから、色々と大変だったのはいうまでもない。

 山火事の後始末や、マスコミへの隠蔽いんぺい工作。汚れ仕事はすべて法力僧に頼り切ってしまったため、事態が収まる頃には、切絵が喜色満面きしょくまんめんになっていた。


『絶大だよ。この貸しは、絶大だよ』


 ここ数日、彼女からのLINEメッセージには、必ずそのフレーズが付いてくる。


「あー、やっべえな。何させられんのかな、俺」


 中身がほとんど入っていない鞄をぶら下げて、勢十郎は部屋を出た。その間も彼の考え事は続いていたが、階段は不細工な踏み方をすると、悪霊の叫び声のような音が出るので、慎重に下りていく。


 彼が居間に辿り着くと、珍しく朝から先生とお蘭が同席していた。


「おはよう。今日は黒鉄が起こしてくれなかったのかい? 勢十郎」

「おはよう、お蘭さん。先生もな。最近の携帯電話はよくできてんだ、時間通りにアラームが鳴る」

「そりゃ便利じゃのう。儂も、ほしい」


 ペンギンは早速、勢十郎の鞄をあさり始めた。


 卓袱台ちゃぶだいにはすでに朝食が用意されており、彼が現れるタイミングを見越していたように、茶碗と汁椀が湯気を上げている。これだけみれば準備の良い事と思いがちだが、ようはプライベートが筒抜けになっているというだけの話だった。


 勢十郎がげんなりしていると、お蘭は大きく伸びをした。


「さぁて、あたしゃちょいと大治郎んとこに行ってこようかねえ。今日こそはツラを拝ませてもらおうじゃないか」


 カーディガンを腕まくりして息巻く彼女は、ひどく楽しそうだった。


 大治郎が話せると知ったお蘭は、ここしばらく彼に付きまとって、飽きるまでからかうのが日課になっている。それをまた大治郎が、仮面をつけたまま心苦しそうにしているのが面白い。朴念仁ぼくねんじんを形にしたようなあのモノガミが、ほとほと困り果てて部屋へ逃げ込んできた時には、さすがの勢十郎も苦笑してしまった。


 居間にしつらえたボンボン時計は、今か今かと登校を急かしている。手早く朝食を取り終えて、勢十郎は座布団から腰を上げた。


 この時間になると、竜の鍔は玄関に置かれている。黒鉄は頑なに「部屋で保管しろ」と主張したが、高校生男子のプライベートルームとは、すなわち宇宙である。何人たりとも侵してはならないという鉄の掟に乗っ取って、勢十郎は二十一時以降、自分の部屋に住人達の出入りを禁じた。


 ならばせめて、学校へは必ず連れて行け、というのは黒鉄の言い分である。

 二階の隣部屋に陣取った彼女は、いつも大治郎に手伝ってもらい、自分の依り代を玄関まで運ばせる。そうして靴を履く勢十郎に向かって「置いていったら、刺します」と、物騒な言葉で呼び止めるのだ。

 それにも、もう慣れてしまったが。


「…………なぁ、先生」

「どうした、小僧?」


 勢十郎も、ペンギンも、互いに目を合わさなかった。


 面と向かって話すような内容でもないが、これは、そう、ただの確認だった。


「……?」

「――――、なんじゃ、知っておったのか」


 勢十郎は、らしくない照れ笑いをした。


 東条との戦いを通じて、少しだけ分かった事がある。

 生命力の源である霊気が体内に拡散するという、勢十郎の特異体質。その体質がもたらすのは、けしてメリットだけではない。驚異的な回復力も、常人の限界を超えた身体性能も、何も知らなかった勢十郎が、自己防衛の為に己の体を鍛え上げた結果、偶然起こった副産物に過ぎないのだ。


 大槻勢十郎の体に起こっている現象は、


 本来ならば自然消滅するはずの霊気を、イレギュラーな方法で消費しているだけ。

 さらにいえば、どれだけ霊気をうまく操ったところで、簡単に人間を超えた運動や超回復ができるのかといえば、おそらく答えはノーだろう。あの東条ですら、そんな霊気の運用はできていなかったのだから。


 そこまで考えた勢十郎は、ようやく一つの結論に達する。


「俺は……」


 少ない霊気を効率よく使っているわけではなく、壊れた蛇口から漏れている水を、大量消費しているだけ。すなわち、人よりも使える霊気そのものが多いだけなのだ。


 それは、際限なく勢十郎の生命力を垂れ流し、やがて――。


「きっと俺は、ある日突然、電池の切れたスマホみたいに止まるんだろうな」


 清々しいまでの表情で、勢十郎は飴色あめいろの天井をあおぎ見る。

 ペンギンは黙りこくっていたが、それがこのモノガミなりの優しさだという事は、鈍感な彼にも察しがついた。



「じゃ、行ってくる」



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