第20話 『悪役令嬢』の成り下がり《過去回想》(前編)


 バッチーンッ!!


『……おっ、お姉さま……?』


 頬をひっぱたかれたはずみで床に倒れ込んだ妹に姉は蔑むような視線を送る。当の本人は一体、何が起こったのか分からず、じんじんと痛み始めた頬に手をあて、呆然としていた。


(そりゃあ、そうよね。今まで一度だって、ことなんてないもの)


 いかにも、“私が主人公ヒロインです”と、いわんばかりのピンクゴールドの髪。うるっと涙を溜めた薄紫色の瞳。そして、庇護欲をそそる細い手で抑えた白く透き通った頬に、少しずつ赤みが差していく。


『これは……何事だ?』


 そこに現れたのはアーネスト侯爵家の嫡男オレアンダー・アーネスト。

 今の構図は誰がどう見ても、姉であるウィステリア・アーネストが“悪役”である。それはもちろん、彼女の異母兄であるオレアンダーから見ても。





 アーネスト侯爵家は複雑だ。

 ゼフィランサス・アーネスト侯爵には三人の妻がいた。――正確にいうと今の妻ロザリーは三人目の妻である。


 一人目の妻はオレアンダーを産んだあと、産後の肥立ちが悪く、天に召されてしまった。

 元々、家同士の定められた結婚だったのだが、ゼフィランサスはまたしても家の定めにより、二人目の妻――ウィステリアの母リアトリスと結婚した。


 ゼフィランサスの見目麗しさと、神の加護を受けている強大な魔力に、密かにずっと淡い恋心を抱いていたリアトリスは、突然、天から舞い降りてきた幸運を喜んだ。


 しかし、そんな幸せは一瞬にして消え失せた。


 侯爵夫人として、妻としての扱いはしてもらえたが、愛してはもらえなかった。実はゼフィランサスには、ずっと想いを通わせていた令嬢がいたのだ。


 彼の愛はすべて妾となっていたロザリー――今の妻に向けられていた。二人は時期を同じくして懐妊したのだが、リアトリスはウィステリアを出産後、心を壊し、少しずつ弱っていった。


 そして、ウィステリアが5歳になった日。静かに息を引き取った。


 ゼフィランサスは亡くなったリアトリスや残された娘であるウィステリアに顔を見せることはなく、喪が明けるとすぐにロザリーを妻に、そして、ローズマリーを娘として迎え入れた。


 ウィステリアの義母であるロザリーはまるで聖女のように柔らかく優しい雰囲気の、おっとりとした女性だった。

 いつも病床で愛に飢え、カサカサに弱っていったウィステリアの母リアトリスとは正反対である。


 そして、妹ローズマリーのふわふわと舞うピンクゴールドの髪は何とも庇護欲をくすぐる……のだろう。彼女ににっこりと微笑まれれば、誰もが一瞬にして絆されてしまう。


 ゼフィランサスはウィステリアが今まで一度たりとも見たことのない、ゆるんだ顔で毎日、上機嫌であった。


 ウィステリアの唯一の救いは同じ立場である異母兄オレアンダーがいることだった。


 彼も――こんな想いをずっとしてきたのだろうか。とはいえ、彼は自分の母との記憶はないだろうから、比べようもないのだろうけれど。


 それでも乳母より母の温もりが恋しい日もあったと思う。病床だったとはいえ、ウィステリアは5年間、母リアトリスと過ごせたのだから。彼からしたら、ウィステリアもローズマリーと変わらないのかもしれない。


 そんな愛に飢えた7歳の子どもの前に舞い降りた美しい女神と愛らしい天使。


 ウィステリアにも彼女たちのような華やかさがあれば、幼いオレアンダーの心を癒やすことが出来たのだろうか。彼女たちは、あっという間に彼の心までも奪っていった。


、何も出来なかった……)


 物心ついたときには気づいていた。ウィステリアには別人として生きた記憶がある、ということに。


 ただ、記憶は朧げだったし、自分自身が幼かったこともあり、あまり気にしていなかった。


 侯爵家の娘であるウィステリアは、その名に恥じぬよう幼少期より高等教育を叩き込まれていた。

 前世の記憶が役立つ部分もあったが、何せ世界が違う。マナーなどはイチから覚え直しであったし、小難しい法律など、まるっきり違うのだ。ウィステリアの頭の中はいつもパニックだった。


 しかし、歳を重ねる毎に理解した。

 どうやらこれは『転生』というやつらしい、と。


 そして、間違いなく妹ローズマリーも“転生者”だということ、彼女は恐らくウィステリアと同じ世界から来たのではないかということ、さらに、彼女がウィステリアを『悪役令嬢』だと言っていることを知ってしまったのである。


 ローズマリーは事ある毎にウィステリアを『悪役令嬢』に仕立て上げた。


『お姉さまが取った』

『お姉さまがやった』

『お姉さまのせいよ』


 屋敷内でのウィステリアは次第に居場所を失っていった。父親も、義母も、兄も、使用人も。皆が、ウィステリアではなくローズマリーを信じた。


(何で……? 私はローズマリーと仲良くしたいのに。私が何をしたというの?)


 ずっと、ずっと、ウィステリアは疑問に思っていた。――妹のいう『悪役令嬢』というのは一体、何なのか、と。


 そして、ある日、朧げだった記憶が鮮明化した。


 前世の記憶の中にそういうたぐいの物語があったことを。そして、どうやらウィステリアがその物語の中の『悪役令嬢』らしいということを。

 

(――馬鹿馬鹿しい……)


 ――今までなぜ仲良くしようと思っていたのか。相手にはその気がないというのに。相手がその気ならば、受けて立とう。この世界では、思い切り『悪役』に成り下がって差し上げよう。


 そう、ウィステリアは心に決めたのだ。



 


 まるで、どこかの国の王子様かと見間違うほどのキラキラオーラを纏った兄の姿を見た妹は、助けを求めるようにすがりついた。


『お兄さまぁっ! お姉さまがっ……ひっく』


 泣きすがるローズマリーを優しく抱きしめて、オレアンダーは凍てつくような視線をウィステリアに向けた。


 “いつものこと”だ――叩いたこと以外は。


『また、か……』


 はぁ、と溜め息混じりに吐き出したオレアンダーの言葉にウィステリアはいつもであれば呑み込んでいた言葉を吐き返す。


『ええ、、ですわ』

『『――え?』』


 ウィステリアがにっこり微笑むと、兄も妹も呆気にとられた。


『“いつものこと”でしょう? 何を今さら』

『で、でもっ! とても痛かったわ!!』

『だ、か、ら! “いつものこと”なのでしょう? ローズマリー。あなた、頭悪いの?』


 ウィステリアがクスッと笑うと、ローズマリーは兄の後ろに隠れ、涙ぐんだ。


『そうそう。そういえば、他にもあったわよね? 私が“いつもしている”こと』

『え……』


 ローズマリーがビクリと肩を上げる。

 

『何だったかしら……? 確か……ローズマリーのドレスをズタズタに引き裂くとか、あなたのお気に入りの装飾品を捨てるとか、課題のノートを破り捨てる、なんかもあったわね』


 ウィステリアはローズマリーの部屋を一周りし、すべてを実現させていく。


『やめて! やめてよ、お姉さま!!』

『なぜ?』


 ローズマリーが一番気に入っているドレスを引き裂く手を止め、ウィステリアは不思議そうに首を傾けながら、理由を尋ねる。


『いつもされているのだから、いいじゃない。あなた、今まで一度も止めたことなどないでしょう?』

『……いい加減にしろ』


 言い返すことができず悔しそうに唇を噛みしめるローズマリーをかばうようにオレアンダーが低い声を上げた。


『あら? 何年も言われ続けてきたのに、お兄様が実際に目撃するのは、初めてですわね?』


 オレアンダーはハッとしたように目を見張った。


『今までは、何を根拠に私の仕業だと思っていたのかしら? まさか! 直接、見たわけでもないのに私がやった、と?』

『……っ!!』


 戸惑ったように、瞳を左右に揺らす。


『ウィステリア』


 騒ぎを聞きつけたゼフィランサスがローズマリーの部屋まで駆けつけてきた。


『あら、お父様。お帰りでしたの?』

『ウィステリア、これは何の真似だ』


 泣き腫らした顔のローズマリーと悔しそうに顔を歪めるオレアンダー、そして、引き裂いてボロボロになったドレスを手にしているウィステリア。

 その光景を見たゼフィランサスはウィステリアに怒りの視線をぶつけた。


『何って、“いつものこと”をしているだけですわ』

『――何だと?』

『何年もずっと、私が“いつもしてきたこと”をしていただけですわ。お父様もご存知なのでしょう?』


 ゼフィランサスの眉間に深く皺が寄る。


『……もういい。ウィステリア、部屋へ戻れ』

『そうさせていただきます』


 ウィステリアはボロボロの布切れをポイッと放り投げると、ツカツカと部屋を出ていった。

 廊下を歩くウィステリアの背後にはその布切れを見て、今あった出来事を思い出したローズマリーのすすり泣く声がまた聞こえてきていた。

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