第21話 『悪役令嬢』の成り下がり《過去回想》(後編)
――それにしても。
(あーっ! 痛かった!! ひっぱたいた私の手の方が痛いって!)
ウィステリアはじんじんとする右手を口をへの字に曲げてさする。――でも。何だかスッキリした。はじめから、こうすればよかったのだ。
分かり合えない人は必ずいる。それは他人でも、家族でも変わらない。
他人から見える自分は、どんな人間なのだろう。それこそ、十人いれば十通りの見え方があるのだ。そんなのいちいち気にしていたら、キリがない。
(それなら、自分自身の自由のために、縁を切ってもらおう。皆様のお望み通り、私は『悪役令嬢』に成り下がって差し上げますわ――)
それから、ウィステリアの生活は明るく開けた。周りを気にせず、したいことをして過ごした。
ローズマリーがウィステリアに何かされたと言えば、それを実現してあげた。
――今までだって、そうだったのだから。
ローズマリーは、やりたくない課題を捨て、やらずに済まし、古くなったドレスを引き裂き、新しいものを買ってもらう。小遣いが足りなくなれば、装飾品を捨てられたといって売り飛ばす。――すべてを、ウィステリアのせいにして。
だから『悪役令嬢』に成り下がったウィステリアがそれを
ローズマリーがやっとの思いで終わらせた課題を燃やし、新しいドレスを裂き、お気に入りの装飾品は売り飛ばして寄付をする。
極めつけは――
『アドルフ殿下』
『ウィステリア……君はまたローズマリーに嫌がらせをしているの?』
『
『君が……彼女のドレスを引き裂く、と。だから、新しいものを僕から贈ることにしたよ』
『まぁ、そうでしたの』
――なぜなりたくもない王太子の婚約者になり、やりたくもない妃教育をやらなければならないのか。
その上、妹ローズマリーは王太子アドルフにベッタリとくっついている。彼も満更でもなさそうだ。
(それなら、ローズマリーがアドルフ殿下の婚約者になればいい。王太子妃の座などいらない。王太子も、妃教育も、くれてやるわ)
家同士の決めた結婚がどれだけ悲惨なのか、ウィステリアは身を以て知っている。そして、愛されることがどれほど幸せになれるのかも。
ただこの世界で自由に恋愛することが難しいことも知っている。だからこそ、ウィステリアは自由が欲しかった。そのためにもウィステリアは『悪役』に成り下がり、その状態から解放してもらわなければならなかったのだ。
ふとウィステリアは、昔、屋敷に出入りしていた庭師の息子と遊んだことを思い出した。
『いつか、お嬢様を迎えにいくよ』
花が咲き誇る庭園で、二人はそう約束した。降り注ぐ太陽と、少し照れながらウィステリアにそっと差し出したヒマワリがよく似合う男の子だった。
きっとそれがウィステリアにとって初めての恋。
◇◇◇◇
『さすがにやり過ぎだ、ウィステリア』
『――何のお話です?』
ある日、妃教育から屋敷に戻ると、父、義母、兄が揃っていた。
ソファには頭や手足に包帯を巻き、痛々しい姿のローズマリー。
『階段から突き落としたそうだな』
(は、はーん。なるほどね。さてはローズマリー、実践のテストを受けたくなかったのね……)
ローズマリーは努力をしない。
いくら何かの主人公だったとしても、何もせずに力など手に入るわけがない。どんな物語の主人公なのかはウィステリアには分からないのだけれど。
『それは、いつの話です?』
『今日の午後、学園で』
『……さようですか』
(午後は妃教育で学園にいませんでしたけどね)
『もうこれ以上は我慢ならん』
ゼフィランサスはダン、とテーブルを拳で叩き、ウィステリアに向かって言い放つ。
『家族に危害を加える者を、家族としておいておくわけにはいかない』
(今までは家族だったの? 驚いた。そういう認識だったとは。そして、事実確認もせずに――まぁ、今までもずっとそうだったから……)
やっぱり人は変わらない。そして、自分が正しいと思っている人には何を言ってもムダなのだ。
分かり合うことは永遠にない。
『この家から出ていけ』
(やっと、自由になれる――)
『――はい。仰せのままに』
王太子アドルフとの婚約を解消して、侯爵家から除籍、家から追放された。
そうして自由になったウィステリアは、こっそり寄付をしていた修道院へと歩き出した――その時、
『迎えにきましたよ、お嬢様』
『え……?』
目の前に、昔の面影が残る青年。
大きな樹の幹に背を預け、腕を組み、昔と変わらない笑顔で、ウィステリアに向かい微笑んでいる。
手には、一輪のヒマワリ。
『あなたは――アッシュ?』
『そうですよ? 嫌だなぁ、忘れちゃったの?』
ひょいと肩をすくめた彼にウィステリアは思わずクスリと笑ってしまった。
一瞬にして、昔の記憶が蘇る。
母が儚くなり、一人ぼっちだったウィステリアにそっと寄り添って、笑いかけてくれた唯一の人。
そして、ウィステリアにとって『初恋』の人。――なぜ、ずっと忘れていたのだろう。
ウィステリアはアーネスト侯爵家で生きていくのに必死だった。二人の約束を忘れてしまうほどに。でも、アッシュは覚えていてくれた。そして、その約束を果たしに来てくれた。
不意にウィステリアの胸が熱くなった。
『え……お嬢様?』
目の前の笑顔が急に消え、慌てた様子になる。
(ダメ……私はあなたの笑った顔が大好きなのに。そんな顔しないで)
そっと差し出されたハンカチに、ウィステリアはハッと気がついた。――自分の頬が濡れている、と。
気がつけば、涙はウィステリアの頬を止めどなく流れ、濡らしていく。まるで今までの辛かったことをすべて洗い流すかのように。
突然、ふわりと何かに包まれた。
ウィステリアの耳元で規則正しい鼓動が聞こえている。少し速いその鼓動を誤魔化すように、彼女の頭上から優しい声が降ってきた。
『側にいます』
『……ずっといてくれなかったわ』
『うっ……それは――』
ウィステリアがその声の主を見上げると、バツが悪そうな顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
『こっ、これからは……側にいます……』
アッシュはウィステリアの頭を両腕でそっと抱え込むと、ぎゅうと胸の中に収める。赤く染まった顔をウィステリアから隠すように。
張り詰めていたウィステリアの心が少しずつ軽くなっていく。
『さぁ、行きましょうか』
二人が見上げた澄み渡る青空は、どこまでも続いていた。
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