23.ロリババアと現代怪異

「零、です」


 それはまるで、姿あるもの、形あるものへの憎悪のように。

 影から伸びた何本もの腕は、手当たり次第に掴む。傘を、パイプ椅子を、桃を、そして老人たちを。次々に。捕らえては、握り潰し、取り込んでいく。

 ごりごり、ぐちゃぐちゃと。容赦なく咀嚼し、貪り、飲み込んでいく。人の姿が崩れる。人の形が失われる。そこに血肉はなく、ただ空き缶だけが残される。抵抗もなく、反応もなく、その笑みのままに。

 無数の腕を生やす影。そのありさまは、磯巾着――あるいは、八岐大蛇を思わせた。


「そうか。それがおぬしか」


 日ごとに現れ、数を告げた。数は日ごとに減っていた。その終わりにはなにが待つのか。その答えがこれだ。

 すなわち、「死」である。死の暴威である。

 ただし、憑いた相手が人間であったのなら――の話だが。


「人に取り憑き、その恐怖心を喰らうことで成長するというわけか。……ん、いや待て」


 だとしたら大きすぎる。微塵も恐怖など感じていなかったのに、この大きさはあり得ない。


「……恐怖心は、特に関係なさそうじゃの」


 取り憑いて六日でよくわからないが巨大化する。おそらくはそんなところだ。現代の怪異は、よくわからぬものばかりだ。

 影は四方八方に腕を伸ばし、噛みつき、食らい、大きく膨れ上がる。段ボールとブルーシートで形作られた居住スペースが崩れていく。将棋に興じていた老人が捕食される。木箱に座り寛いでいた老人が貫かれる。タオルを干していた衝立が倒れる。椅子代わりの木箱が壊れる。寝転がっていた老人が、ビールを煽っていた老人が、棒立ちの老人が、消えていく。空き缶が残される。まるで嵐のように。暴風のように。

 そしてその手は、ついに芙蓉にも伸びる。


「欲深いのう。このわしを取って食おうというのか? このわしを?」


 応じるように、芙蓉もその正体を顕す。

 狐の耳と尾を露わにし、髪も本来の金色こんじきを取り戻す。狐火を散らす演出も欠かさない。幼子の姿ながら、尾は一尾ながらも、万人が慄く威容である。美の極点に迫る勢いである。

 だが、一本しかない尾を誇らしげにもできない。

 これではただの狐だ。彼女は恥じる。

 しかし、それは正確ではない。ただの狐が九匹集まったからといって、九尾の狐のように振る舞えるだろうか。九尾の狐に匹敵するであろうか。九尾の狐とは、九匹の狐の集合だろうか。

 否だ。

 尾が一本だからといって、彼女はただの狐ではない。ただの狐がどれだけ寄り集まろうとも届かぬ高みの、九分の一である。

 すなわち、ただの一尾でもその力は。


「放せ」


 容易く、影の手を振り解く。


「理解したか? それとも、理解していなかったのか? おぬしがいったい、なにものに憑いてしまったのか。ただの幼子だと思うていたのか?」


 腕が迫る。軽く弾き飛ばす。もはや芙蓉に触れることもできない。

 に、影は文字通りに手が出せない。影の弱点は、光だ。


「さて、少し大人しくしてもらおうか」


 芙蓉は歩み寄る。暴威の中心にある影のもとへ。その道中で、ふと。


「優子?」


 横目に、見知った姿が映る。


「優子!」


 呼びかける、が――返事がない。目は虚ろで、人形のように生気がない。伊藤優子の形をしたものは、ただ呆然と立ち尽くしている。


「なにをしておる……!」


 さらに呼びかける。が、やはり返事はない。

 芙蓉はそこで、対峙していたものに背を向けてしまっていた。


「えい」


 優子が倒れた。否、優子の形をしたものが。その背後には角材を手にした優子が立っていた。


「なっ」

「後ろ!」


 唖然としている暇はない。悪意の魔の手はすぐ背後にまで迫る。


「ぬおぅ?!」


 宙返りで寸前で回避。が、問題はそれよりも。


「優子……!」


 やはりいた。だ。ボロボロの身なりで、疲れ果て弱った姿をしている。そして、その手には角材。偽物を殴り倒した角材だ。

 だが、なぜ出てきたのか。なぜ姿を見せたのか。物陰で身を潜めていたのではなかったか。明らかな脅威が現れているというのに、なぜ今。

 そして腕は、やはり――へ向かう。

 だから芙蓉は咄嗟に、を巻き起こす。


「優子! まったくおぬしは」


 そうして、優子を巻き込んで安全な場所まで、影からより遠い物陰まで連れ込む。 


「芙蓉ちゃん、狐だったんだ」


 優子は、間の抜けた声でそういった。


「……今さらじゃな。まあ、いや、隠してはおったが」

「狐に化かされるとかいうけれど……あるんだ、この令和の世で」

「あまり驚いてはおらぬようじゃな?」

「もとはおばけかなにかだと思ってたし、それが狐だったっていわれてもあんまり……」


 話す間にも、暴風が迫る。彼女らを狙っているのかいないのか、形あるものを崩し、食らい、飲み込んでいく。


「まあよい。帰るぞ。その前にあれを斃す必要はあるかの」

「芙蓉ちゃん、助けに来てくれたんだ」


 助けに来た。たしかにそうだ。だが、それを認めるのはどこか小っ恥ずかしく思えた。


「か、勘違いするでないぞ。わしの姿を見れるのはおぬしだけであるから、足掛かりとしてだな」


 と、いいかけると、優子はなぜか目を輝かせて芙蓉を見ていた。


「な、なんじゃ」

「わぁぁ……て、天然もの……?」


 不可解な反応。芙蓉にはまったく理解できない時代の概念がそこにはある。だが、よくわかっていないことは他にもあった。


「優子。おぬし、状況はわかっておるのか?」

「え?」

「どうにも呑気すぎやせんか?」


 あえて人間の目線に立つならば。

 あれは脅威であるはずだ。恐怖そのものであるはずだ。目にしただけで、同じ空間にあると思うだけで、震えが止まらぬものであるはずだ。

 しかし優子にその様子はない。かつては、街灯の下に立っていた、今よりはるかに小さかった影に、怯えていたはずなのに。


「怖くはないのか? あれが」

「たしかに、おばけは怖いよ。異界ここでも、ずいぶん怖い思いをしてきた。だけど」


 優子はちらりと、物陰から顔を出してあれを見る。


「だけどあれは……もう、怖くない。怖いけど」

「どっちじゃ」

「怖いけど、怖くない」

「どっちじゃ!」


 頭を抱える。人間の、優子のいうことがわからない。


「その、だって、芙蓉ちゃんが来てくれたから」

「なに?」

「わけのわからない場所で迷って、よくわからない人たちに囲まれて、敵だか味方なのかもわからなくて、怖かったけど……芙蓉ちゃんの声が聞こえて」

「聞こえて?」

「ちょっとだけ勇気が出て、勧められた桃も断れたし、それで芙蓉ちゃんのもとに向かって、こっそり物陰から見てたんだけど」

「見てたんかい」

「そしたら、怖くなくなっちゃった。なんか説教はじまっちゃうし。むしろ、なんか楽しいなって」

「そうか、おぬし! 姿を表す頃合いを見計らっておったのだな!」

「あ、ところでこの桃ってなんなのかな」


 と、優子はバッグから綺麗な桃を取り出す。


「それいま話すことか?」

「いまじゃないかも」

「だったらそこで大人しくしておれ!」


 芙蓉は再び、影の前に立つ。

 見るほどにそれは「恐怖の象徴」であるように思えた。むろん、人間目線で見た場合である。それを優子は「怖くない」といった。「怖い」ともいっていたが。


(わしがおるからか?)


 と、芙蓉は思う。


(わしならば問題なく倒せると、そう思われておるのか? わしに守ってもらえると?)


 だからもう怖くない――と、そういうのだろうか。


(ん? んん~~~?? わしはなんだと思われておるんじゃ??)


 無力で憐れな幼子だと思われていたから「助けられた」のではなかったか。それが今では「頼られている」。認識を改めてやろうと思っていたら勝手に改められている。だが、そのように改められたかったわけではない。


(わしは、おそるべき大妖怪じゃぞ?)


 考え事をしている最中も、影の腕は迫る。むろん、芙蓉には届かない。


「ええい、うっとうしい」


 目の前の「敵」を見据える。うねうねと無数の腕を揺らし、ひっきりなしに形を喰らう影。形容すら難しい正体不明の怪物。


(さて。こやつはいったい、なんじゃ?)


 ○○のようなとは表現できても、○○そのものではない。つまりは正体不明だ。

 正体のわからなさとは、歴史のなさを意味している。

 仮にその正体が八岐大蛇であったとして、八岐大蛇とはなにか。スサノオに斃された怪物という伝説こそあるが、それ以前は?

 極論すれば、いかなるものも正体不明だ。

 玉藻の前、褒姒、華陽夫人、妲己と歴史を辿れる九尾の狐も、そのはじまりは?

 既知のものと結びつけ、自らの規模感に合わせて理解した気になるだけだ。

 それでも、すでに名づけられた「歴史」と結びつくならば、「正体」はそこにある。

 正体がないとは、歴史がないということだ。


「哀れなものじゃ」


 由来もなく、因縁もなく、正体もない。ただそこにある恐怖。そのようなあり方でしかいられない。でなければ速やかに駆逐される。

 今や、そんな時代なのだ。


いなづまをくれてやろう」


 大気を切り裂くいなづまが、影を貫く。

 大妖怪の神通力を前に、歴史なき怪異はあまりに脆く、儚い。


「出直してこい。現れては消える哀れな現代の怪異あやかしよ」


 美しすぎる決着。圧倒的な力で捻じ伏せ、滅ぼしてやったが、完全に消え去るわけではない。九尾の狐とて幾度も滅ぼされながら、そのたびに蘇ってきた。怪異とはそういうものだ。


「ひぇぇぇ~~、かっこいい~~~……」


 称賛の声が聞こえるが、あえて聞こえないふりをする。その方がかっこいいからだ。


「終わったの? 芙蓉ちゃん」

「ふむ」


 残されたのは、ただ二人。

 百人以上いた老人たちは跡形もなく、資材を持ち寄った住居も消え失せた。ブルーシートも、衝立も、木箱も、パイプ椅子も残っていない。ただ、空き缶が散らばるばかりの、むやみに広い空間だけが残された。


「帰れるの?」

「帰れる。いんたあねっとで調べたからの」

「インターネットで?!」

「便利じゃぞ」


 なにか忘れている気がする。ふと思い出す。そもそもの発端だ。芙蓉は、それを懐から取り出す。


「ほれ、スマホじゃ。忘れておったぞ」

「ん。ありがと」


 芙蓉は、優子の手を掴んだ。

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