21.女子大生と異界村

 避難所のようだった。

 広い体育館のような空間に、思い思いの資材を掻き集めて居住スペースを確保している。そんな場所だった。

 災害でもあったのだろうか。そんなはずはない。台風にせよ地震にせよ、これほど近所で関知しないはずがない。というより、そもそもここは現実ではない異界。ならば、彼らはみな同様に異界へ迷い込んでしまった被害者なのだろうか。

 であれば、彼らはみな仲間だ。

 しかし、伊藤優子は、拭い切れぬ不安を抱えていた。


「大丈夫ですヨ」


 老人は笑顔のまま繰り返す。

 案内された先では、多くの人々が「避難」しているように見えた。百人か、それ以上か。ブルーシートを広げ、段ボールで仕切りをつくり、木箱を椅子にして、くつろいでいた。服を乾かしていたり、タオルがかかっていたり微妙な生活感もある。将棋や囲碁に興じていたり、桃のような果実を口にしている。

 そして、みな誰もが笑顔だ。くたびれた様子はなく、誰もが笑顔だ。


(あれ?)


 見渡すほどに、違和感が募る。

 トンネルの先が体育館で避難所になっていた。大勢の人が生活していた。それだけでも異質だったが、異界に迷い込んだ人々が寄り集まっているのだと解釈することもできた。

 だが、じょじょに違和感の正体が明らかになっていく。

 ブルーシートの上に寝転がる人を見る。老人だ。缶ビールを煽る人を見る。老人だ。ストレッチに励む人を見る。老人だ。

 この空間には、老人しかいない。

 背を向け、顔の見えないものもいる。ゆえに断定はできないが、少なくとも見える範囲では。顔には皺が刻まれ、髪は抜けるかあるいは白髪で、八十歳を超えるような高齢者に見えた。

 そういうこともあるかもしれない――では、済まされない違和感。たまたま老人しかいない、という状況はどのように解釈できるのか。老人ホームがまるごと漂流した? であれば、介護従事者は? そもそも、現にこうして若者である優子が迷い込んでいる。そのようなことがこれまでに一度もなかったのか?

 そしてその違和感は、直前の出来事と接続される。


(アカヒトさんは、なんで……)


 逃げ出したのか。

 てっきり、怪物でもいるのかと思った。残虐で凄惨な現場が待ち受けているのかと思った。そうであったなら、彼のように一目散に逃げ出すつもりだった。

 だが、待っていたのは弱々しくも朗らかな老人たちの集落。少なくとも表面上は。


「よく来たネェ」

「大変だったろう」

「ささ、こっちにきんしゃい」


 早く、こんなところから抜け出さねばならない。現実に帰らねばならない。そのためには手がかりがいる。気味は悪くも、目の前にいる彼らは人間に見える。人の形をしている。話が通じるように見える。ならば。


「あの」


 話すしかない。


「ここは、なんなんですか……?」

「村だよ」

「集落だよ」

「暮らしてるよぉ」


 実りのない答え。疑問は一つも解消していない。なぜ? いつから? あなた方はいったいなに? 疑問はいくらでもあったのに、喉がひび割れるように乾き、声が出ない。


「心配いらないヨ」

「大丈夫だからネ」

「伊藤優子チャン」


 そういえば自己紹介を忘れていた――と気づく前に、名前を呼ばれる。

 なぜ知ってるのか。そう問うべきなのに、言葉が出ない。怖かった。


「喉が渇いたかい」

「お腹が空いたかい」

「桃があるからネェ」


 一見して穏やかで、優しそうな態度であるのに、怖かった。

 ほんの少しの刺激で崩れてしまう積み木のような危うさを感じていた。

 笑顔も、言葉も、なにもかも薄っぺらな嘘っぱちに思えてならなかった。


「桃、ですか?」


 それでも、黙ったままではいられない。疑問を抑えながら、当たり障りのない言葉を選んだ。


「そうだヨォ」

「美味しいヨォ」

「元気になるからネェ」


 空虚な言葉ばかりが返ってくる。崩れることのない笑顔から。

 暴力も恫喝もない。敵意も悪意もない。それでも、怖かった。それだから、怖かった。

 唯々諾々と、従うほかなかった。相手の出方を見る。受動的でも情報は得られる。そんなふうな言い訳を並べながら、誘われるままについていく。

 すなわち、奥へ。奥へ。

 身を縮ませながら、右へ左へ視線を泳がせる。

 避難所のように見える。体育館のように見える。知識にあるもので最も近い言葉を当てはめればそれだ。だが、違う。そうではない。彼らはここを「村」「集落」「暮らしている」と答えた。その言葉を信じるとしても、疑問は一向に消えることがない。

 ここはいったい、なんなのか。

 脚が震える。が、怯える態度を見せることすらが彼らにとっては「失礼」にあたるのではないか。そう思えた。そう考えると、悪循環だ。怯えが怯えを呼んだ。


「ここだヨォ」

「好きにとって食べていいからネェ」


 体育館の中心には、一本の木が生えていた。

 きっとこれが桃の木なのだろう。なんたって、桃が生っているのだから。

 桃という果実は木に生っている。それは知っている。桃も食べたことはある。だが、桃の木というものを実際に見たことはない。どのような形であるかもわからない。

 だが、それでも。なにかが違う、と感じた。

 低いのである。

 遠くからでは気づかなかったほどに、低いのだ。二メートル弱の低木である。そんな頼りない低木に、枝を撓ませながら桃が生っている。腕のように二本の枝をYの字のように広げて、精一杯に桃を実らせている。

 桃の木というものを実際に見たことはない。だがこれは、そんなものよりも、もっとよく見知っているものであるかのような――そんな気がした。


「ほら、遠慮しなくていいからネェ」


 喉は乾いている。お腹は空いている。誘惑はあった。それでも。

 得体の知れない、恐怖があった。


(なんで、桃……? 体育館に、生えて……?)


 体育館呼ばわりも仮称だ。板張りで柱のない、屋根のあるただっ広い空間。体育館と呼ぶしかないが、。なにより、どこにも窓がない。扉がない。出口がない。


「ほら、どれでもいいから捥いでネェ」


 消極的に受け身でいるだけでは済まなくなった。

 桃を捥いで、食べろという。


(本当に、まともなもの……? これは本当に、桃なの……?)


 つまりそれは、善意を疑うということ。

 周りを見るに、彼らは同じものを食べている。つまり毒はない。腐っているわけでもない。不味いわけでもないだろう。しかしそれは、彼らがまともな人間だった場合の話だ。


(ふつうの桃、だよね……?)


 おそるおそる手を伸ばす。柔らかな産毛の感触。たしかな重み。このまま掴んで引っ張れば捥げるだろう。躊躇う理由はないはずだった。


「あの……」


 乾き切った喉で、生唾を飲み込む。


「なんなんですか、この桃」


 聞いてしまった。聞かずにいられなかった。

 ゆっくりと目を開いて、周囲で見守る老人たちの顔を見る。


「大丈夫だヨ」

「美味しいヨォ」

「皮ごと食べられるからネェ」


 話が通じない。まともな答えなど返ってこない。手が震える。不安が募る。

 桃を手に取り、口にすることは、なにか致命的なことのように思えてならなかった。


 逃げ出したかった。かといって、逃げた先になにがあるのだろう。

 ちらりと、背後に目をやる。ここに入ってきた入り口、トンネルを見る。はずが。

 


(入り口が、消えてる……)


 つまり、どこにも逃げ場はない。もう逃げられない。囚われてしまった。


「食べないのかい?」

「美味しいヨォ」

「きっと気にいるからネェ」


 老人たちは笑顔のまま圧をかけにきている。ように思えた。

 いえ、遠慮します――その一言がいえたら。

 言えたからといって、どうなるのだろう。


(もしかして、もう……このまま、帰れない……?)


 環状線のような駅の牢獄に囚われて、いつの間にか穴があって抜け出せて、なんだかんだと帰れるのではないかと楽観していた。子供が迷子になったというならともかく、駅構内で行方不明など聞いたことがない。そんな怪談はあるかもしれないが、現実のニュースでそんなものがあっただろうか。そもそも、帰れなければ怪談にもならない。だからこれは悪い夢のようなもので、そのうち帰れる。そんなふうに考えようとしていた。

 あるいは、「知らない」というだけなのかもしれない。毎年何人かは駅構内で見知らぬホームに迷い込んだり、奇妙な電車に乗り込んでいるのかもしれない。「そんなことはあり得ない」と断言できるほど、世界のすべてを知っていると自惚れてはいない。つまりこれは、世界にもっと関心を払わなかった報いなのだ。


(帰れない? ここで、死ぬ……?)


 封じ込めていた不安が、蓋を押し上げて漏出していく。やり残したこと、やりたかったこと、思い描いていたこれからの人生が、色褪せていく。

 もっといろんなことが、できそうだと思っていたのに。


(……芙蓉ちゃん、どうしてるんだろ)


 ふと、そんなことを思った。他者からは姿も見えず、現代の常識を知らない彼女は今、どこでなにをしているのだろう。路頭に迷っているのだろうか。別の誰かに取り憑いたのだろうか。コンビニを襲ってシュークリーム強盗にでもなっているのだろうか。


「桃? 桃なんぞいらんいらん! しゅーくりーむはないのか?」


 声がした。どこか、懐かしい気のする声が。

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