ランクB
その日も雪であることに変わりはなかった。
いつもと変わらない、流れてくる無線回路トレイに同じ部品を並べるだけの単純な受給作業を終えた山田宗介は、大阪駅に直通するマンションの一室に戻ろうとしていた。
どんな悪天候であれダイヤグラムから一分の遅れもとらない鉄道に、清潔感溢れる無料公衆トイレ、静かで奥ゆかしい国民性を持ち併せたこの国に生まれたことを山田は至上の幸運だと感じており、最近の楽しみは持って生まれたその幸福をインターネットで所構わず見せびらかすことであった。
駅の改札を抜け右に曲がり、見えるエスカレーターをひとつ上ればもうそこは彼の住むマンションのロビーだ。山田はエスカレーターを上りながら、別の鉄道に乗り換え家へと向かう人の波を見下ろし、やはり自分は運に愛されていると優越感を噛み締めた。
ロビーのドアをくぐり、正面に見えるエレベーターに乗る———前に、セキュリティに自分のキーを通そうと近づくと、いつもは見えない何か黒い塊が足元に転がっている。
黒革に似たその塊は、ゴミ袋のように動かずに汚らしくそこに鎮座している。
こんな綺麗な整備されたマンションになぜ?———山田は反吐が出る思いで、その塊を厚いブーツの底で思い切り蹴り飛ばした。
塊は床から離れることなくズルズルと床を擦りながら二mほど先に移動した。
ロビーの端まで寄せてやろうともう一度蹴り上げに山田が寄っていったところ、その塊はのそのそと動き始めた。
「ああ、よかった、やっと気づいてくれる人がいた」
塊は亀のようにひっくり返ると、赤黒い中身を露にした。
それは一瞬見ただけでは、スーパーの廃棄された腐った牛肉と大差なかった。だが牛肉との唯一の相違は、それには頭がありてっぺんに黒い毛が生えているという点だった。
紛れもなくそれは人間あるいはその類であり、言葉を話し微かに上下に呼吸している姿からも明らかだった。
「誰だよ、お前は」
山田は震える指を彼に向けて言った。
「僕、木谷草太といいます。十一月まで道の金属類を集めることで生計を立てておりましたが、大阪市クリーン法ができたせいで道からゴミがなくなり、仕事も必然的になくなりました」
そう言うと木谷と名乗ったその男は、黒革のコートから———先ほど山田がつけた足跡がまだくっきりと残るコートのポケットから———萎びて黄ばんだ名刺らしきものを取り出した。
確かにそこには『金属収集師 木谷草太』と黒く印字されていた。
「新しい受給作業を探しましたが、日銭を稼ぐような作業はもうこの街に残っていません。ランクDなので時給換算されるような作業にはほぼ就けませんし。あなたはおそらくB、Cくらいにはいるだろうからわからないでしょうが」
この国の国民には国際法に倣ってS、AからEまでのランクが何らかの基準によって振り分けられ、それによって受けられる教育や従事できる受給作業は大きく変わる。
それでもEランクにですら日銭が稼げる作業を提供できるこの国は、世界でも比較的いいほうなのだという。『誰もが野垂れ死なない国』を掲げ活動する五二歳の若手、犬貝総理大臣は、すでに三年に渡り票を獲得している。
ただ、当然この国のシステムにも欠点がないというわけではない——————
「僕はそのせいで妻からも見放され、今は孤独なホームレスです。妻は今頃民間シェルターにでも入っているのでしょうか————娘のゆみも。ああ、僕が一七歳の時に金属収集作業なんかを選んでいなかったら。もうすこし金が少なくなったって、身体が危なくたって、他の作業を選んでいたら」
木谷はそういうと涙を流し始めた。うっえっえっという嗚咽も聞こえた。
「お願いします。どうか、僕に何かお与えください。よければ家に泊めてください。仕事もあるともっといいです。あるいは…」
「おい、ちょっと待てよ。お前になにか施すつもりがあるとは一言も言ってないぞ」
「で、でも…」
「そんな余裕があるとでも思ってるのか?」
そうやって首を振り、手のひらを木谷の前に突き出し牽制している最中にも山田は、当然また底知れない至福を感じていた。
———そう、こんな平和な国に生まれるという幸運を得てもまだ、木谷のような境遇に陥る可能性はあるのだ。それもクリアして安定した職を得、平穏に暮らす自分とは———
緩む頬を隠すように顰めっ面すると、山田は身体を木谷から背けた。
「俺の部屋には、客用の布団もないし大した飯もないぞ」
「いいんです。ご飯なんて、三角コーナーに入れた残飯でも構わないです。それくらい飢えてるんです」
「えー、どうしようかなあ」
そう小声で呟きながらも、山田は既にもうこっそりポケットのスマホのカメラを回し始めていた。
「お願いします、たのみます」
「うーん、そう言うなら仕方がないなあ。こんなに飢えてるやつを見殺しにもできないしなあ」
山田の言葉に、木谷は目を輝かせた。
「本当ですか。ありがとうございます、ありがとうございます。仕事が見つかったらお礼もたんとします。本当になんといえば良いか」
山田はその言葉を無視して、ロビーのドアを解錠しエレベーターへと向かった。
山田がエレベーターに乗り込むと、五秒ほど遅れて木谷もついてきた。
「僕、本当に感謝してます。ありがとうございます」
「いいからよ」
山田はポケットのなかをもう一度確認し、カメラが回っていることを確かめた。
エレベーターは十階でゆっくりと停まった。ちょうどランクBしか住まえなくなるボーダーラインだ。
山田の部屋は、この階の一番奥にある。山田は木谷を後ろにつけさせたまま自分の部屋まで歩いていき、カードキーでドアを開けた。
「まじで何もないけどよ。まあ座れよ」
山田はスマホを花瓶の後ろに隠した。
その花瓶は、山田がそこそこいい受給作業に従事することが決まった際に母親が山田にやったものだ。『仕事にもランクにも相応しい』と母親が言ったその花瓶は、焦茶のベースにちんまりした桃色の花が描かれた素朴なものだった。
「座れって。ほら、あそこにソファがあるだろ」
「山田さん」山田は花瓶から目を離し、木谷の方を振り返った。
木谷は呆然と、山田のソファがあるあたりを見つめていた。
「独身じゃなかったんですね」
「は?」
山田がソファに目をやると、そこには痩せたひっつめの女とおさげの幼女がいた。
「佳代、もうお前が別の男の所にいたとはな」
「知らないわよ、こんな男」佳代と呼ばれた女は眉をひそめた。
「どういうことですか、山田さん」木谷は山田を睨んだ。
「知るわけないだろこんな女!ここは俺の家だぞ」
そう山田が言うと、佳代は大袈裟に手を叩いた。
「ああ、きっとここの前の住人でしょう。早く荷物を纏めてよ」
佳代はテレビを指差した。
「ランクはS以外、全部上下逆になったの」
テレビには、『犬貝総理 ランク改革で大勝負に』とタイトルが表示されていた。
『今の上位ランクの荒廃ぶりに目をつぶってちゃなりません。勝負の大改革です。選挙で選ばれた者としての責任を取ります』
そう言う総理の目は至極真面目だった。
「ねえ草太、また私たち一緒に住めるわよ———だから分かったでしょ山田さん、とっとと出てってくれない。警察呼ぶわよ」
「違う、こんなのおかしいだろう。俺にも衣食住の権利があるじゃないか、なんで俺が権利を奪われなきゃいけないんだ、嫌だ、お前たちには譲らないぞ」
「やだ怖い」
佳代は、そばに置いてある固定電話の受話器を取ると番号を押し始めた。
「すいません、警察ですか。今、私たちの家に知らない男の人がいて、出て行かないんです。はい、部屋番号は———」
山田はそこでようやく部屋を抜けた。誰にも見られていないかと辺りをキョロキョロしながら、マフラーで顔を覆いながら。
ロビーを抜けると、冷たいものが鼻に流れてきた。
辺りを見渡すと、そこにはいつもと変わらない光景が広がっていた。
綺麗なビル、ゴミの落ちていないエスカレーター、誰でも受け入れるかのような顔をしたホテル———それにほんの少数の、道脇に転がる紙屑のような人々。
そこに一時間もいると、鼻に流れてくる冷たいものが、高々と積もり始めた。
それは決して無くなることがない。消えたと思っても、それは既に鼻に染み込み、あるいは誰かの鼻に流れただけで必ずどこかに残り続けるものだ。
もしその冷たいものが消える日が訪れるなら、本当にそういう日が訪れるなら、それは—————————
その日も雪であることに変わりはなかった。
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