第26話 さくらの初陣

 昼食を摂ってから、俺たちは会社に戻った。

 

「もう、お腹いっぱいわね」


 歩きながら、さくらは腹をさする。


「よかったな。そろそろ会社に戻らないと」

 

 今日は会議があるので、遅刻してはいけない。食堂を出たのは午後一時ころで、今は一時十五分過ぎだ。会議は十五分後に始まるから、余裕があって早く歩く必要はない。

 さくらはIDカードをドアに当て、俺たちは会社に入った。

 冷房の効いた社内は気持ちいい。

 今日は陽射しがやけに強く、炎天下で町を歩いていた俺たちはさっぱりした。


「じゃ、今回は階段を上ろうね」

「お願いします……」


 俺に従い、さくらは階段を上り始めた。三階まで上ると、俺たちは事務所に着いた。


「どうだった? 疲れた?」


 と、息を吐いているさくらに俺は問いかけた。


「ちょっとだけ。でもエレベーターよりマシだから、これからは階段を使おうと思ってる。もちろん、森澤もりざわさんはエレベーターを使っても構わない」


 俺は軽く頷いて、会議室の方に向かった。


♡  ♥  ♡  ♥  ♡


 全員が会議室に揃っていた。

 皆の目が合うように、席はサークルの形に配置された。

 俺はさくらの隣に座ることにした。


「さて、今日の会議を開始します」


 そう言ったのは矢那華やなか部長。

 彼女は学級担任のように黒板の前に立っていて、チョークを鷲掴みにしている。

 静まり返った会議室を見回しながら、矢那華やなか部長は俺に冷たい視線を送った。


森澤もりざわ零士れいじですね。新入りの案内をしましたか?」


 言って、彼女はジト目で俺をにらみつけた。

 

 ーー今日の矢那華やなか部長は機嫌が悪そうだな……。

 

「はい、案内いたしました」

 

 さくらはその丁寧な話し方に驚いたのか、突然俺に視線を向けた。

 しかし、今は会議中だからできるだけ彼女を無視しようとした。社内恋愛オフィスラブと勘違いされたら、俺たちはきっとクビになるんだ。


「では、谷川たにがわさん」

「は、はい!」


 と、さくらはぎこちなく立ち上がって言った。


「この企画は谷川たにがわさんと森澤もりさわさんが担当してるので、聞いてください」


 ーーやばい。俺とさくらが担当してるって? その言葉を聞くだけで、連日の残業が目に浮かんでしまう。


「秋葉原からアプリの開発を依頼されました。そのアプリは店の客足をデータベースに保存して、わかりやすく表示することができます。それに、アプリのユーザインタフェースをできるだけ可愛くしてください、と話しました。〆切しめきりはあと三日なので、この会議が終わったら早速始めたほうがいいです」

「わかりました」


 ーー正直、そんなに難しそうにない。運が良ければ、休憩を取る余裕もあるかもしれない。

 

 矢那華やなか部長が他の企画を説明したあと、会議がやっと終わった。皆が解散して、それぞれの職場に戻っていく。

 俺とさくらは事務所で席につき、パソコンの電源ボタンを押した。

 さくらは眼鏡をかけて、キーボードに繊細な指を走らせた。

 画面の光が彼女の横顔を照らす。


「さて、始めようか」


 溜息を吐いて、さくらは俺に目をやった。

 俺は頷いて、パソコンをつける。統合開発環境IDE(コードを書いたりする用のアプリ)を起動してから、俺たちは計画を立てようとする。


「じゃ、俺にはメイド喫茶の知識がいっぱいあるから、アプリを可愛くするのは簡単なことだ。さくーー谷川たにがわさんの特技は?」

「特にないと思うけど……。強いて言えば、コードの推敲かな」

「すごい! 推敲を上手くできる人は大事だよ」


 俺が言うと、さくらは頬を染める。


「私は……大事?」


 言って、彼女は少し顔を背ける。

 髪を耳にかけ、恥ずかしそうな表情を浮かべた。


「開発的な意味、だよ」


 俺は頭を手に埋め、そう言った。

 さくらは笑って、視線を画面に戻す。


「ったく、遊ぶ暇がないぞ」

「す、すみません」


 と、さくらは頭を下げて言った。


「じゃ、開発を始めようか。俺がコードを書いて、谷川たにがわさんが推敲してくれる。どうだ?」

「はい、そうしよう!」


♡  ♥  ♡  ♥  ♡


 二時間くらいコードを書いたり推敲したりしたあと、開発はようやく一段落した。

 さくらは立ち上がろうとすると、脚が痺れたことに気がついた。


「へー、脚が!」


 そうわめいたのはさくら

 新人だからそういう反応をするのは当然だろうけど、俺は笑わずにはいられなかった。


「ちゃんと休憩を取ればよかったのにな。でも、開発はかなり進んだんで頑張った甲斐があったよ」

「本当にありがとう、森澤もりざわさん。私、一人じゃ何もできなかったよね……」

「いや、新人にしては意外と上手い。やるじゃないか、才能があるね」

「……本当? この会社が最高だわ!」


 その言葉に、俺は目を見開いた。

 

 ーー入社したころの俺もこんな感じだったっけ? いや、そんなわけないだろう。


「残業したらその意見はきっと変わる。矢那華やなかが新人に手加減したのか、今日は例外だった。会議室ではなぜか怒っているようだったけど……」


 言って、俺は苦笑した。

 しかし、さくらの喜びに水を差したくないから、話題を振ることにした。


「じゃ、俺は散策しようと思う」

「そうか。私も休憩を取るかな」


 本来ならば、俺は秋葉原に行くはずだった。しかし、俺は名案を考え出した。

 それは、依頼者が誰なのかを矢那華やなかに直接訊くということだ。「ユーザーインターフェースをできるだけ可愛くしてください」って部分は特に気になっていた。しかも、客足のアプリか……。

 客足を増やしたがっていて秋葉原にある店を一つしか知らない。


 ーー依頼者がゆめゐ喫茶ではないだろうか?

 

 仮にその店だったら、俺は出張という名目で秋葉原に行くことができる。仕事から電話は来ないだろうし、クビにならないはず。つまり、最高のチャンスだ。

 それに、出かけている間、開発をさくらに任せたら……。「問題があれば連絡して」と言ったら、残業する必要はないだろう。

 

 ーー我ながら、完璧な計画だ!

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