第27話 やなか部長はしつこい

 矢那華やなか部長の冷房の効いた個人事務所。

 俺は何回も行ったことがあるのに、来るたびに恐る恐るドアをノックする。

 今日、彼女は特に機嫌が悪そうなので、俺はいっそう緊張している。


「どうぞ、入ってください」


 ドアの向こう側から矢那華やなかの声がかすかに聞こえる。俺は徐々にドアを開けると、矢那華やなかの姿が目に入った。

 彼女は背中を向けたままオフィスチェアに座っている。

 個人事務所に入ると、矢那華やなかは肩をすくめ、溜息を吐いた。

 俺がドアを閉めると、彼女は振り向き、俺に冷たい視線を送った。


「なんのようだ?」


 その言い方だと、怒っているに違いない。だが、なぜなのか?

 一応訊いてみたかったけど、「大丈夫ですか」と訊いたらクビになるかもしれない。 

 だから、これからは言葉を慎重に選ばなければいけない。


「俺とさくらが開発しているアプリのことなんですが、依頼者がゆめゐ喫茶かなと訊きたかったんです」


 俺の言葉に、矢那華やなかは再び溜息を吐いた。


「あんたはこの会社で何年も働いてるのに、まだそんな質問を訊いてるのか? ったく、もう何回も言ったでしょ? 依頼者の名前を教えてはいけないんだって」


 確かにそういうことは何回も言った。しかし説得したら、教えてくれるかもしれない……。

 この会話を続けたら、俺はクビになる可能性が高い。なのに、続けるしかない。自分に誓ったから。


『クビになっても』と。


 だから、俺は訊いてみた。


「……矢那華やなか部長」

「はい?」

「……大丈夫ですか? なにか、気になってるようですけど」


 矢那華やなかは躊躇しているように黙り込んだ。

 彼女は床と天井を交互に見て、視線をさまよわせる。しばらく考え込んだあと、矢那華やなかは再び口を開いた。


「ゆめゐ喫茶に行ったことがある。だけど、あのメイド……。あのツインテールのメイド。彼女は私の願い事を断りやがって!」


 ーーツインテールのメイドというのは、数年前に俺にチラシをくれたのぞみというメイドのことかな。


「彼女に願い事を言ったら、下心があると言われた。結局、私は何も変わらないまま家に帰って、一人で泣いた。お酒のおかげで、朝が来たら気を取り直したけど、ずっと気になってたんだ」


 ーー矢那華やなか部長が素直に答えるとは!!


 俺は言葉を失った。こんな返事は予測もつけなかった。だが、矢那華やなかの機嫌が悪い理由が少しだけわかってきた気がする。

 嫌な思い出が蘇ったのか、彼女は深々と泣き始めた。涙が頬を伝って、雨粒のように靴に振った。


「も、申し訳ございません矢那華やなか部長!!」


 クビにならないように、俺は必死に謝ろうとしていた。しかし彼女の顔を見ると、怒りは微塵もなかったことに気づいた。むしろ、嬉しそうだった。


「謝らなくてもいいよ……。ありがとう、聞いてくれて」

「ところで………依頼者はゆめゐ喫茶ですよね?」


 俺が言うと、矢那華やなかの表情が突然切り替わった。

 口を尖らせて、ジト目で俺をにらみつける。


「もう、今すぐここを出ないとクビにしてやるよ!」


 ーーああ、普通の矢那華やなかがやっと戻ってきたな。


 このやりとりのおかげで、俺は証拠を見つけた。依頼者はゆめゐ喫茶のはずなんだ。というわけで、いよいよ次の段階に進むべき。

 出る前に、俺は矢那華やなかにもう一度振り向いた。

 彼女は席の背もたれにかけた黒いブレザーを手に取って、羽織る。後ろ髪を引っ張り出してから、矢那華やなかは俺と一緒に出ていった。


♡  ♥  ♡  ♥  ♡


 俺が矢那華やなかとやりとりをしている間、さくらはコードを推敲してくれていたらしい。

 事務所に戻ると、彼女は俺に視線を向け、「見て見て!」と言わんばかりに笑顔を見せた。

 心地よいオフィスチェアに座ってから、俺はさくらの画面に目をやった。


「見てください! 全部のバグを直した!」


 言って、さくらは証拠としてアプリを起動してみる。彼女の言う通り、そつなく起動した。問題児になると思っていたけど、彼女は逆に思ったより役に立っている。

 俺は感心するしかできない。


「では、次は何をすればいい? 部長に見せる?」

「あの、ちょっと後回しにしたほうがいいと思う。矢那華やなかが……」

「まだ怒っているの?」


 さっきほどのやりとりを頭に繰り返し、俺は矢那華やなかの冷たい視線をふと思い出した。そんなに早く表情を切り替えられる女性の気持ちはわかりにくい。語彙力の高い俺でさえも適切な言葉が思いつかない。

 頭を掻きながら、俺はこう答えた。


「正直、彼女の気持ちはさっぱりわからない。嬉しそうだと思った途端、突然冷たくなった」

 

 俺のつたない答えにさくらはクスクスと笑い出した。


「まったく、女心がわからないタイプだよね」

「え? 俺、女心がわからないのか?」

「本人も言ったでしょ?『正直、彼女の気持ちはさっぱりわからない』って」

「いや、そんな意味じゃなかったよ! ただ表情はいつも変ってるし、顔を何回見ても気持ちが読み切れないんだ」


 俺が言うと、さくらは名案を思いついたようにいきなり立ち上がった。


「なら、私が矢那華やなかを見せたらいいんじゃない? 新入りだし、怒らないでしょ」


 ーーそうか。だが、彼女が一人で行ったら、俺は出張に行けないことになるかもしれない。

 

 それでも、無難な選択だろう。だから、俺はさくらの話に乗った。


「見せたいなら早速行ったほうがいい。矢那華やなかは珍しく個人事務所を出たんで、休憩を取るところかもしれん」

「わかりました!」


 言って、さくらはドアを開けて走り出した。

 彼女の遠ざかっていく姿を見ながら、俺は舌打ちした。


「おい、社内で走るな!」


 と、俺は彼女を諭すように叫んだ。


 ーーやっぱり問題児だな……。

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