第49話 暗殺剣

 手狭な廊下を黒いセーラー服の少女が歩いていた。

 手にはバスケットを抱え、神妙な顔つきをしている。

 少女の名前は、風花澄香といった。

 澄香は今、ある病室の前に着く。

 ノックをしようとするが、手が上手く動かない。

 深呼吸をする。

 意を決して、ノックする。

 すると、女の声がした。

 澄香は、扉を開くと瑠奈の姿があった。

「あ。澄香」

 瑠奈は椅子から立ち上がると、軽く手を振って出迎えた。

 澄香は、部屋に入ると瑠奈に近づく。

 その顔は、どこか不安げだ。

 瑠奈は、そんな澄香の様子を見ると、クスッと笑う。

「様子は。どう?」

 澄香は瑠奈に訊く。

 すると、瑠奈は肩をすくめる。

 その顔は、困っているような笑みを浮かべた。

「相変わらずよ。会ってみる?」

 瑠奈は澄香を病室の奥へと案内する。

 澄香は、ベッドの上にいる人物を見る。

 その人物は、ベッドを起こし上半身を起こして窓から見える風景を見ている。シーツを袈裟懸けにして右半身を覆っている。

 風に揺れる緑の木々。

 遠くに見える山々。

 きれいな景色がある。

 人物・隼人は、澄香を見ると、気だるそうな表情で呼びかける。

「よう」

 隼人は、澄香に左手を上げて挨拶をする。

 だが、その目は何処か虚ろで、その声にも力がない。

 澄香は、無言で隼人を見る。

 その目からは、涙が溢れていた。

 隼人は不思議そうに首を傾げる。

「どうした?」

 澄香は、泣きながら言葉が出なかった。

 涙を拭うと、ようやく言葉を絞り出す。

「思ったより。……元気そうね」

 澄香の目は、まだ潤んでいる。

 その目を見て、隼人は微笑む。

 まるで、何もかもを許してくれるように。

「澄香。ちょっと私、洗濯物で出てくるね」

 瑠奈は洗濯物が入ったカゴを手に病室を出ようとする。

 ふと思い出したように振り返ると、険しい口調で澄香に言った。

「あ。気をつけよ。あの年増の口入屋が来ても、隼人と二人っきりにしちゃダメよ。あの年増、昨日、隼人のベットに潜り込もうとしてたのよ。人肌で温めてあげようとか言ってたけど、ほんと信じられない。もう二度と、あんな奴この部屋に入れないんだから」

 瑠奈は少し怒りながら、病室を出る。

 澄香は隼人と二人きりになった。

 お互いが沈黙したまま見つめ合う。

 澄香は、何か言いたいことがあった。

 だが、その何かが分からない。

 自分の気持ちすら、はっきりと分からなくなっている。

「あ……。腕は、どうなんだ?」

 先に話したのは、澄香だった。

 隼人は右腕をシーツの中から引っ張り出す。

 右腕があった。

 みせると、右手を握って開いてを繰り返した。

「動くようになったが、血流が悪いのか少し寒くてな、大丈夫だ」

 その答えに、澄香は驚きと安堵が入り交じる。

 だが、その表情は暗いままである。

「あれから2日しか経っていないのに、もう動くのか……」

 澄香の言葉はそこで途切れた。

 隼人は、苦笑いしながら言う。

 それは、いつもの笑顔であった。

 澄香の好きな、隼人の笑顔だ。

「スゲエだろ。志遠の奴が、畳針をひん曲げて無理矢理、縫合してくれたんだぜ」

 隼人は言う。

 それはどっちが凄いのかと澄香は思う。

 あの日、隼人が倒れ目を覚まさなかった時に、志遠が駆けつけてくれた。志遠は隼人の傷口を縛り上げると、澄香に切断された隼人の腕を持たせて鬼哭館を脱出。

 それから志遠の道場に移動すると、畳針とタコ糸を使って無理やり腕を縫合したのだ。

 骨を接合し、筋肉、健、神経、血管といったものを完全に無視した荒業であったが、隼人の驚異的な回復力で、たった二日後には、右腕は動かせるようになっていた。

 志遠も確証があっての処置ではなかった。全ては隼人の生命力に賭けたものであったが、想像を絶する回復力に志遠のみならず、隼人も驚いていた。

 だが、さすがに、すぐに元通りという訳にはいかない。

 隼人は、右腕の感覚を確かめたくて、澄香に訊いた。

「俺の刀と脇差を知らないか?」

 澄香は訊かれて、ラクロスケースから隼人の二刀を取り出す。

「これでしょ」

 澄香の手にある刀を目にすると、隼人の顔色が変わる。

 自分の刀を見て安心してしまう。

 隼人は、つくづく剣士であることを痛感せざるを得なかった。

「隼人。食事を作ってきたの。食べて欲しい。それに、これを持ってきた」

 澄香はバスケットを開けると、中にはサンドイッチが入っていた。

 そして、もう一つは水筒だ。

 澄香はバスケットをベッドの上に置くと、水筒からコップに中身を移し、隼人に手渡す。

 隼人は、渡された飲み物を口に含む。

 ホットミルクだ。

 澄香はバスケットを広げ、サンドイッチを差し出す。

 だが、隼人は手にしようとしない。

「すまない。今は食事断ち中だ」

 すると澄香は怒った。

「バカ! 何を言ってるの。隼人が食べなくても平気なのは知ってるわ。でも状況を考えてよ。今は体力を回復させないとダメでしょ!」

 澄香の言葉に、隼人は反論できなかった。

 確かに、今の状態では、まともに動けない。

 身体を動かせば激痛に襲われるだろう。

 食事をしなくても死なない隼人だが。食事をしたから死ぬ訳ではない。食べれば消化吸収され、肉体に取り込まれる。

 隼人は、作ってもらった手前、サンドイッチを手に取る。

 それを口に運ぶと咀しゃくする。

 美味しいと思った。

「うまいな。澄香が作ったのか?」

 澄香は、恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「ま、まあね。これでも料理は得意なの。血を作れるようローストビーフを多めにしてみたの。牛乳も血を作るのよ」

 その様子に、隼人は微笑んだ。

 隼人は、ゆっくりと噛みしめるように食べる。

 その様子を見た澄香はホッとした表情を浮かべた。

 澄香は、隼人が寝ているベッドの隣で椅子に座っている。

 澄香は窓から見える景色を眺めていた。

 その顔は穏やかで、どこか嬉しそうだ。

 隼人は、そんな澄香を横目で見る。

 澄香は、隼人の視線に気づいて、隼人の方へ向くとニコッと笑う。

 その笑顔を見て、隼人は顔を背ける。

 ゆっくり時間をかけて澄香の作ってくれたサンドイッチを完食する。

「美味かった。ありがとう」

 隼人のさりげない言葉が、澄香は嬉しかった。

「早く良くなって」

 澄香は言う。

 その声は優しく、心がこもっていた。

 隼人は、話題が無くなってしまった。

 居たたまれなくなったのか、隼人はベッドから降りようとしていた。

「どうしたの?」

 訊かれて、隼人は答える。

「いや。ちょっと外の空気を吸いたくなった。すぐに戻るよ」

 隼人は、ベッドから脚を下ろす。

 だが、急にバランスが崩れたのか体勢を大きく崩した。

 澄香は慌てて、隼人の体を支える。

 それを見ていた澄香は、心配そうな声で言った。

「隼人!」

 その声は悲鳴にも近いものだった。

 澄香は隼人を抱きかかえる。

 その腕に、力がこもっていた。

 隼人は、澄香に抱き抱えられると、苦笑いをする。

「……すまん」

「無理をしない方が良いわ。傷は塞がって腕は動くようになっても、あれだけの出血をしたのよ。血を作るには、栄養だけでなく休息が必要なんだから」

 澄香は、優しく諭すように言う。

「いや。大丈夫だ。そこのロフストランドクラッチと、ジャケットを取ってくれ。少し外を歩きたい」

 その言葉に、澄香は折れる。

 ジャケットを隼人にかけると、澄香は隼人の右側に立ち歩行の補助として肩を貸すことにした。

 澄香は感じた。隼人の身体が冷たく。


 ◆


 外の暖かな空気を肌で感じながら歩く。

 澄香は、隼人の横顔を見る。

 そこには、いつもと変わらない隼人がいた。

 いつものように、凛々しく、男らしく、頼れる存在。

 だが、その姿は弱々しい。

 澄香は思う。

 この人は、本当に、こんな状態になっても、いつもと同じなのかと。

 見ればジャケットで隠しているが、脇差を帯刀している。

「こんな時まで、帯刀しなくてもよくない?」

 澄香の言葉に、隼人は笑って返す。

「この方が、腰が寂しくなくて良いんだ。頼れる存在が、そこにあるというだけで、安心する」

 それは、いつもの優しい笑顔だった。

 澄香は思う。

 あの時のことを。

 だから訊かなければいけないと思った。

「隼人。訊きたいことがあるの。お前が源郎斎と最後に斬り合った時、《闇之太刀》を使ったわね」

 隼人は答えない。

 澄香の問いに、何も言わなかった。

 だが、それは肯定の意味だと澄香は理解していた。

「自分が何をしたのか理解しているの? 《闇之太刀》の使い方として、適正だったとは思えないわ。隼人の傷を考えれば、あの時の技として、お前の方が先に決まっていたのは明白よ。なぜ《闇之太刀》を使ったの?」

「そうでもねえ。結果は相打ちだ。源郎斎の《鬼影》は、それ程までに強力で速かった。俺の《闇之太刀》は……手が滑った」

 隼人の答えを澄香は信じない。

「嘘を言わないで。隼人程の剣士が使い所を間違えるハズがない。あれは意図的にしたんでしょ」

 隼人は返答に詰まる。

「……まさか。私に源郎斎を討たせるチャンスを作ったの?」

 その言葉で、隼人は観念して、小さく息を吐いた。

 澄香の耳に入ってきたのは、意外な内容であった。

 その話の内容に驚く。

「まあ。そういうことだ。俺は《闇之太刀》で澄香が、五歩以内に近づくと斬撃が発動するように斬った。澄香が近づいた時に、源郎斎の胴が裂けたのはそういうことだ」

 隼人は、澄香にだけ聞こえる小さな声で話す。

 それを訊いて澄香は怒ってしまった。

「自分が何をしたのか分かっているの? 私にかたきを討たせる為に、自分の命を危険にさらしたのよ」

「死ななかったろ。まさか、腕が切断されるとは思わなかったけどな」

 隼人は笑っている。

 澄香はその態度に腹を立てた。

 そして、隼人を睨みつける。

 だが、隼人は涼しい顔をしていた。

 澄香の怒りなど、どこ吹く風といった様子だ。

 隼人が、どれだけ危ないことをしたかを。

 澄香は、怒りが収まらない。

「私が優しくしてあげられるのは、今のうちよ」

 その声音は、普段の澄香からは想像できないほど冷たくて、怖かった。

 隼人は、その声を聞いて苦笑する。

「……そうだったな。俺達の果たし合いはいつにする?」

 澄香は訊かれて現実を知る。

 そう。

 隼人と澄香は、果たしすることを金打きんちょうで約束したのだ。

 そう思ったら澄香は急に涙が出てきた。

 その涙を見て、隼人はギョッとする。

「どうした? 母親のかたきを討てたんだ、今度は父親のかたきを取ろうぜ」

 その言葉に、澄香は涙を拭う。

「……隼人。分かっているの。それは、お前が死ぬってことよ」

 隼人は、そんな澄香を見て笑う。

 まるで、それがどうしたという表情だった。

 そんな二人が歩く病院の敷地道に一台のロールスロイスが近づいてきた。

 見覚えのある車だ。

 隼人は澄香の肩に預けていた、右腕を返してもらった。

「澄香。少し離れてくれ」

 脇差の鞘口を掴む。

 隼人は警戒する。

 それは、澄香も同様だった。

 その車は、二人の前で止まる。リアウインドが降りる。

 窓から見える人物。

 車の後部座席に居たのは印藤隆元だった。

「久しぶりじゃな《なにがし》の隼人」

 隼人も、その言葉に反応する。

「何しにきやがった。ろくでなしのジジイが」

 隼人の言葉に、隆元は含み笑う。

 当の本人は気にしていないようだ。むしろ、楽しそうな笑顔を浮かべている。

 そして隆元の視線は、隼人の右腕に集まる。

「あの傷で腕がくっついたのか。凄まじいのう《なにがし》は」

 隆元は感嘆の声を出し、続ける。

「病室にはおらんと聞いたでの。今日は話し合いに来たんじゃ、隼人」

「テメエと話すことはねえ」

 はっきりと拒絶する隼人を、隆元はなだめる。

「まあ、そう言うな。悪い話ではない。お前に源郎斎の後釜になって欲しい。それと、入院費治療費も出そう。それと転院も勧める。儂の主治医がいる病院に転院すれば、ここよりも設備が良い。美人の世話人もつける」

 隼人は鼻で笑う。

 それは、バカにしたような笑いだった。

「テメエの病院で、俺をモルモットにするつもりか」

「そんなつもりはないわい。丁重に扱わせて頂く。《なにがし》の価値を考えれば、当たり前のことだろう」

 隆元は、本気のようであった。

「お前の体を解析すれば、儂は病気を治すどころか永遠の命が手に入る。そうなれば、黒瀧だけではない。この国全体が豊かにすることも夢じゃない。

 手っ取り早く100億円だそう。お前の体の代金として」

 その言葉に、隼人は黙り込む。

 しばらく沈黙が続いた後で、口を開いた。

「……随分と高く買ってくれるじゃねえか」

 隼人は笑む。

 内に生じた感情。その感情を悟られないように答える。

 しかし、隆元には分かっていた。

 隼人が、その話に興味を持っていることが。

 だから、話を続ける。

 それは、隼人の興味を引くためだ。

「いやいや。これでも安いじゃろう。不死身の体。人類が夢見た不老不死が、そこにあることを考えればな」

 その言葉に、隼人はニヤリと笑う。

 だが、それは一瞬のことだった。

 すぐに真顔に戻る。

 隼人は、隆元を睨みつける。

 その眼光は鋭く、並の人間なら萎縮してしまう程の迫力があった。

 だが、隆元は平然としている。

 むしろ、隼人の態度を楽しんでいるように見える。

 隼人は思う。

 こいつは、どこまで知っているのか。

 俺のことを調べ上げているのは間違いない。

 そして、《闇之太刀》についても、かなり理解していることも分かる。

 もし、ここで断っても、おそらくは違う方法で接触してくるだろう。

「面白い。あんたの話しに乗ろう」

 隼人の言葉に澄香は愕然とする。

 隆元は、女を道具にし、子供から骨髄を搾り取ろうとしている男だ。それを許せるハズがなかった。

 隆元の非道に一番怒りを見せていたのは、隼人ではなかったのか。母親を失った過去があるだけに、女性の尊厳を踏みにじる行為に隼人は誰よりも怒りを感じていたはずだ。

 それなのに、なぜ。

 澄香は信じられなかった。

 だが、金の魅力は絶大だ。

 100億円。

 桁が多すぎて、それがどんな金額なのか、澄香には想像できない。

 生涯にかかる金額である1億1700万円という。

 「1ヶ月当たりの消費支出:15万円」に「余裕を持って暮らせる金額:50万円」を追加した金額で一生遊んで暮らせるとすると、約5億円が必要となる。

 100億もあれば、一生遊んで暮らせるどころではない。ほぼ、自分が臨む限りのことを行うことが可能だ。

 人の心、気持ちさえも自由にすることができる。

 血の繋がった家族を見捨てる。

 愛する夫や妻、子供や孫さえ裏切る。

 恩義や友情を踏みにじる。

 札束で殴られて耐えたら、その札束を貰えるとなれば顔面が変形しようと、殴打されることも喜ぶだろう。

 金とは、それだけの力を持っている。

 澄香は、その話を黙って聞いていることしかできなかった。

 隼人は、その話に満足した。

「隆元。俺は、あんたの計画のみならず鬼哭館の者を殺し損失を与えた。逆に俺と澄香は命を狙われ、危うく死ぬところまで行った。それを無しにできるか?」

 その言葉に、隆元は即答する。

「すまなかった。謝罪しよう」

 澄香も、その言葉を聞いて驚く。

 こんなにもあっさり、隆元が隼人の提案を受け入れると思っていなかったからだ。

「隼人……」

 澄香は、隼人に呼びかける。

 それは、本当にいいことなのか。

「俺は隆元、印藤会長の命を取ることを考えていた。ドナーと、その女に対する救済措置を講じることを条件に和解に応じるが、どうだ?」

 その言葉に、隆元はうなずく。

「そうじゃな。《なにがし》が手に入るなら、儂の病も治る。すべての女の望むように手段を講じることを約束する」

 すると隆元は隣に座る男性秘書に、手短に言うと秘書はスマホを取り出し連絡を始めた。

「どうじゃ?」

 隆元は訊き返す。

 隼人は、何か言いたげではあったが、それを飲み込む。

「分かった。では最後に和解の印として、お互いに頭を下げて礼にしよう。どちらが最初かをしない。今から俺はロフストランドクラッチを倒す。その音を合図に皆一斉に礼を取ろう。一秒で良い。澄香もいいな?」

 澄香は訊かれ、同意しかねたが渋々うなずいた。

「分かったわ……」

 そして、隼人は隆元と互いに向き合う。

「倒すぞ」

 隼人は左手のロフストランドクラッチから手を離した。ゆっくりと倒れ、金属音が響いた瞬間、隼人、澄香、隆元は礼を行う。

 一秒。

 それが経つと、皆一斉に頭を上げる。

 和解の完了であった。

「なら、明日迎えに来よう。準備をしておいてくれ」

「ああ。分かった」

 そう隼人が言うと、隆元の乗ったロールスロイスは静かに走り去っていった。

 隼人は澄香を見る。

 澄香の表情を見て苦笑した。

 まるで、般若のような表情だったからだ。

「どうした澄香。キレイな顔が台無しだぜ」

 隼人は、右手を伸ばすと澄香は睨む。

 その手を振り払い、澄香は声を荒げた。

「見損なったわ」

 その口調が、普段の澄香からは考えられないほど激しいものだった。

 澄香は視線を背けていると、地に血が滴り落ちるのを見た。

 見れば、隼人の右手から血が滴り落ちていた。

 接合面には血が滲み、患者衣が血で染まっていく。

 隼人の額には汗が滲み、足元が揺らぐ。

 そして、隼人は痛みに顔を歪めていた。

 その姿を見て、澄香はハッとする。

 自分がやったことに気付いたのだ。

「ご、ごめん。私、そんな強くしたつもりはなかったの」

 慌てる澄香に対し、隼人は微笑む。

 そして、その場に膝をつく。

 地面に手をつき、息を整えようとする。

 その姿は、あまりにも痛々しかった。

「違う。澄香のせいじゃねえ。こんな右腕で、無茶をした」

 隼人は、自分の右腕を眺める。

 そこには、血管が浮き出ており、小刻みに震えている。

 澄香は、そんな隼人を優しく抱きしめる。

 その体は冷たくなっていた。

「いったいどうして?」

 尋ねる澄香に、隼人は答える。

暇乞いとまごいを使った。あのジジイにな」

 その言葉に、澄香は驚く。


 【暇乞】

 古流剣術の技の一つ。

 上意討ちを命じられ狙った敵を訪問。挨拶の最中に機先を制し、抜き打ちに斬り倒す暗殺剣。

 作法として、挨拶は互いの呼吸を見計らいながら行うのが常だ。相手が頭を下げていれば自分も合わせる。

 敵の反応を見抜き、一早く抜刀して斬り下げる。その瞬間に至るまで、あくまで殺気を抑えて振る舞う。

 なお、前屈みにしたままで刀を抜くには工夫を要する。

 右腕を大きく前に出しながら、横一文字に抜き出すのだ。この体勢では充分な鞘引きを行うのが難しい。

 そこで伸ばした腕の長さを活用して斬る。

 殺気を隠して騙し討ち。これが暗殺剣の真髄だ。


「ということは、隼人はアイツが頭を下げた瞬間に脇差で斬っていたの」

「《闇之太刀》にしてな。アイツの車のサイドドアと服を傷つけずに、ぶった斬ってやったよ」

 隼人の言葉を聞いて、澄香は言葉を失う。

 凄まじい技量であった。

 澄香は隼人を疑い軽蔑したことを改めて後悔していた。それと同時に、志遠の言った、隼人の完璧な心というものを知った気がした。

 100億円という金額を提示されても、隼人は迷うことなく、その条件を蹴り飛ばしていたのだ。それは、100億円よりも価値のあるものが、隼人にはあるからだ。

 いや、隼人にとっては100億円はただの数字でしかない。

 それは、女性を守れる力であり、その力で悪を討つことができるからだ。

 それは、決してお金では買えないものなのだ。

 だからこそ、澄香は隼人を信じることができた。

 隼人は、澄香の体を離す。

「鬼哭館を倒し、黒幕の隆元の始末も終わった。もう、俺達の邪魔をする者はいなくなった。これで晴れて敵同士だ」

 隼人の言葉に、澄香はハッとする。

 その表情は悲しげだった。

 隼人は澄香を冷徹な目で睨みつける。

「澄香。父親の無念を思い出せ。かたきを討つんだろ」

 隼人の言葉に、澄香は父が死んでいく姿を思い出した。


「はや、と。《なにがし》……。怨めしい……ぞ」


 それが父の最後の言葉だった。

 涙を流す。

 澄香にとって、父親は誇りであり剣の師匠であり家族だった。

 その父親が死んだことは、澄香の心に深い傷を残した。

 その悲しみと怒りを忘れたことはなかった。

 その思いは、今もある。

 だから、その気持ちに嘘はない。

 澄香は、涙を流しながらも力強く答えた。

 その瞳には強い意志が宿っている。

「そうだったわね。お父さんの無念を私は晴らす。隼人、果たし状を送る。それまで首を洗って待っていろ」

 その言葉を隼人は満足そうに聞いていた。

 澄香の覚悟が決まったのを見て安心したのだろう。

 そして、隼人は立ち上がる。

 澄香も立つ。

 二人は背を向けて、別々の方向へと歩いて行った。


 ◆


 翌日、全国ニュースで黒瀧コンツェルン会長・印藤隆元が自宅で死亡しているのが報道された。

 腹部が裂かれるという凄惨な姿であったが、犯人はいまだに不明だという。

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