第48話 決着

 隼人は唇を広げて笑う。

 口の中が血だらけになっていた。

 全ての人間の視線が、隼人に集まる。

 それは、そうだろう。

 銃撃され、額まで撃ち抜かれた人間が、平然と立っているのだから。

 隆元も車椅子から立ち上がり、この現実離れした状況に唖然となる。

 隼人は足元にあったコルスターゲットリボルバーを左手で拾い上げる。

 弾倉を確認して、もう一発だけ残っているのを確認した。

 それから隼人は銃口を自分の、左側頭部に当てる。

 その行為が何を意味するのか澄香は理解し、恐怖に見舞われた。

「よせ、隼人……」

 澄香の願いが聞こえないのか、隼人は引き金トリガーをゆっくりと絞り、撃鉄ハンマーも起き上がっていく。

 澄香は悲鳴を上げる。

「止めて!」

 彼女の願いも虚しく、次の瞬間、銃声が鳴り響いた。

 隼人の頭部が叩かれたように急激に右へと動く。側頭部から弾丸と共に、血が飛び散った。

 澄香は、隼人が自殺したと思い、悲鳴を上げる。

 しかし、隼人は立っていた。

 銃口から硝煙が、ゆっくり立ち上っている。

 彼のその行為に、誰一人として動くこともできない。息を詰まらせ、息を震わせている。

 澄香、源郎斎、隆元、修司、その他の生き残った門人。

 全員の注目を集める中、隼人は首のコリをほぐすように、ゆっくり大きく首を動かす。

 隼人は拳銃を捨てる。

 肺に溜まった、空気をゆっくり息を吐く。

 深く。

「ん~。いいねえ。一発目を受けた時に解けなかった因数分解の解き方が思い浮かんだ。数学のテストの最中によお、公式が思い出せなくて必死になって頭を叩いたことがあったんだが、こいつは一発で思い出させてくれるぜ。脳みそが破損しているのに何でだろうな? 今度からテスト中にやるか」

 血まみれの隼人が楽しそうに笑って、銃創を撫でる。

 澄香は、隼人が何を言っているのか分からず、ただ口を抑え震えていた。

 しかし、すぐに我に返ると呼びかける。

「……は、隼人。……お前、平気なのか?」

 隼人は振り返ると、不思議そうな顔をする。

 首を傾げた。

 そして、一言だけ答える。

 澄香は、その言葉に戦慄を覚えた。

 それは、とても人間の言葉とは思えなかったからだ。

「――ああ、何ともな。銃で撃たれるのは《鎧》の数胴にトカレフで撃たれて以来か。中々に痛かったぜ」

 隼人は言った。その答えを聞いた時、澄香は背筋が凍りつくのを感じた。

 そう思ったのは、自分だけでは無かったようだ。

 源郎斎が興奮したように、その場で立ち尽くしていた。

「……《なにがし》を銃では倒せんと聞いてはいたが、やはり事実だったな。чудовище(チュドーヴィシチェ・怪物)という異名は、真実か」

 隼人は、源郎斎の言ったことの意味を理解していた。

「ロシアには怪物と呼ばれた人物がいたな。怪僧・ラスプーチン」

 隼人の言葉に源郎斎は汗を滲ませ、小さく首肯する。


 【怪僧・ラスプーチン】

 革命直前の帝政ロシアを舞台に、「神人」とも「怪物」とも称された超能力者がいた。名前はグレゴリー・エフィモヴィッチ・ラスプーチン。

 ラスプーチンは、重病や難病で苦しむ人を次々と治療し、「奇跡の治癒者」と呼ばれるようになる。こうして名声を高めたラスプーチンは、1905年11月1日、皇帝ニコライ2世に謁見。

 皇太子アレクセイを遠隔ヒーリングで治療し、ニコライ2世からの信頼は揺るぎないものになった。

 だが予言と治療を連発するラスプーチンを、重鎮たちは快く思わない。かくして、ラスプーチン暗殺計画が実行されることになった。

 1916年12月29日。

 大富豪ユスポフ侯爵の宮殿で行われたパーティに参加したラスプーチンは、致死量の10倍以上の青酸性毒物が入れられたワインとケーキを口にする。

 だが、いっこうに苦しみもしないラスプーチンに、ユスポスらは銃を発砲。それでもラスプーチンは絶命しない。

 計3発の銃弾で弱らせると、さらに鉄の棒で頭部をめったうちにしたうえで、凍結したネヴァ川の氷を割って、水中に沈めたのだ。

 遺体は1917年1月1日に、凍結状態で発見された。

 当時の死体検案書には「溺死」と記されている。

 つまり、毒物も効かず、3発の銃弾を受け、頭部を鉄の棒でめった打ちにされても、ラスプーチンは絶命していなかったのだ。

 この事から、不死身の怪僧とも呼ばれる。


「一つ言っておく。чудовище(チュドーヴィシチェ・怪物)と呼ばれる俺だが、銃が効かない訳じゃない。対戦車ライフルを喰らえば身体は千切れ、戦車の徹甲弾(AP)を喰らえば木端微塵になる。そうなりゃ、流石に俺も死ぬさ。

 銃が効かねえのは、傷が小さく出血が少ないからだ。

 この現代。なぜ俺がこんな刀なんていう武器を使っているか理解できるか? 《なにがし》という剣を受け継いでいるから。というのも理由の一つだが、俺は俺自身を殺せない武器を信用していないだけだ。俺に最も効果的な攻撃は、大量の出血をもたらす斬撃と切断だ。

 そして、それが行える武器が刀。という訳だ」

 隼人は淡々と語る。

 それは、まるで自分自身に言い聞かせているようであった。

 澄香は、目の前にいる少年が怖かった。

 額を撃ち抜かれたはずなのに、平然と立っている。

 しかも、銃を撃たれたのに平然としている。

(私は、最古の剣術という歴史ある剣だけでなく、あんな怪物を相手にしようとしていたの……)

 澄香は、自分の認識の甘さを痛感した。

 目の前の怪物は、そんな生易しい存在ではない。

 もっと恐ろしい何かだと。

 澄香は、震えるその恐怖を振り払うように自らの肩を抱いた。それは、自分の恐怖心を誤魔化すためでもあった。

 隼人は、澄香の方へ視線を向ける。

 澄香は、ビクッとして身を震わせた。

 しかし、隼人は何も言わなかった。

 ただ、悲しげな目で澄香から目を逸らすと、源郎斎を睨みつける。

 その目は、冷徹で鋭いものだった。

 源郎斎は、その目に射貫かれても笑っていた。

 嬉しくて。

 声は低く、威圧するような口調で言った。

「嬉しいぞ。魔物より伝授された魔伝剣術・魔傅流の源流を現代に伝える。それに加え、魔物の血を受け継ぐ不死身の魔人。お前のような強者と出会えたことに、心から感謝する」

 源郎斎の言葉に、隼人は眉をひそめる。

 源郎斎は続ける。

「ならば、も真実という訳だ……」

 隼人を見る源郎斎の眼に、獣のような光が宿る。

 それは、戦いを楽しむ戦士の目だった。

「なんのことかな?」

 隼人は、とぼけてみせる。わざとらしく。

「決まっているだろ。金を天まで積んでも手に入らないもの……」

 源郎斎の口元に笑みが広がる。

 その言葉に、隼人は一瞬だけ動揺したような表情を見せた。すぐに納得したように諦めた表情になる。

「《なにがし》を知っている奴は、大抵は聞いていることだが、やはりお前も知っていたか……」

 隼人は溜息をつく。

 それから、源郎斎を見据えると、興奮に震え語り始めた。

「あまたの権力者が求めた。始皇帝、ディアーヌ・ド・ポワチエ、ファラオ、徳川家康。だが、誰も手に入れることはできなかった《力》……」

 源郎斎は瞳孔が開く。

 その顔は、長年探し続けていた山のような財宝を発見した財宝発掘屋トレジャーハンターのように輝いていた。

「お前を喰えば、手に入るのだな……」

 澄香は、源郎斎が言っていることが理解できなかった。

 否。正確には、脳が受け入れようとしなかったのだ。

 今、目の前で起こっていることは現実なのかと疑う。

 だが、これは紛れもない事実なのだと悟る。

 たいしたことでもなさそうに、隼人は鼻で笑う。

「らしいな……」

 隼人は半ば認めたような口調。

 その反応に、源郎斎は狂喜に満ちた笑顔を浮かべる。

「永遠の命……」

 源郎斎が口にした瞬間、隆元は目を丼ぶりのように広げ、口をあんぐりと開ける。

 そして、震える声で叫んだ。

 それは、今まで聞いたことの無いほど大きな叫び声だった。

 だが、それも無理はない。

 永遠という言葉に、誰もが憧れるだろう。

 どんな人間でも、死を恐れない者はいない。

 それは、この場にいる全員が同じ気持ちだった。

 だから、源郎斎が発した言葉に、誰もが耳を疑い、歓喜したのだ。

 それは、澄香も同様であった。

「永遠の命。金を天まで積んでも手に入らない力。霧生さんが言っていたのは、このこと……」

 澄香は呟く。

 本当にそうなのかは分からない。

 だが、それを信じるに値する《力》を隼人は持っている。体に銃弾を受けても、頭を銃で撃ち抜いても死なない。その不死身さを、澄香は間近で見ていた。

 源郎斎は、まるで自分が神にでもなったかのように高らかに笑う。

 その瞳には、狂気の炎が燃えていた。

 だが、その目を見た時、澄香は背筋が凍りつくのを感じた。

 それは、本能的な恐怖であった。

「ならば、俺は全てを手に入れてみせる。《なにがし》を倒したという名誉と、お前を喰い、永遠の命を!」

 源郎斎は、叫ぶように言うと、刀を上段に構える。

 武人の気迫が立ちのぼる。

 刀を上段に構えたまま、源郎斎はじりっと間合いを詰めていく。

 隼人は察する。

 小手先の攻防ではなく、源郎斎は一撃にかける行動に移ったのだと。

「やってみろよ。ただし、俺に勝てたらだけどな!」

 隼人は刃を拭うと、刀を鞘へと納めた。

 そして、左手で鞘口を持ち、臍の上真正面に刀を持って行った。

 隼人が刀を納めた理由を、源郎斎も澄香も理解した。

 戦闘を放棄したのではない。

 それは、抜刀術による必殺の一刀を放つための準備に入ったことに。


 【抜刀術・居合術】

 納刀している状態。

 すなわち刀身が鞘に納まっていてまだ抜かれていない状況で、自身に向けられた不意の斬撃・刺突に応じる。

 もしくは、相手の機先を制して鞘離れの一刀を放つ、術技・技法を根幹とした武術だ。

 戦国時代。

 動乱の世では、わずかな術技・技法の進歩が生死に大きく影響する。刀を抜いて戦うだけでなく、抜きながら攻撃を加えるという工夫が凝らされ始めた。

 そこから抜きながら斬るという抜刀術という編み出されたのは、ごく自然な流れだった。

 その形は、抜刀術の性質から、大きく二つに大別することができる。

 一つは、相手の動きに対する「応じ技」、もう一つは不意に襲い先制攻撃を仕掛ける「不意打ち技」だ。抜刀術は、主にこの二様の技で構成されている。

 「応じ技」は護身的な意味合いが強く、武道の本質にも合致しているが、もう一方の「不意打ち技」は、完全な暗殺術であり、見方によっては非常に卑怯とも取れる術技・技法だ。

 抜刀術は、帯刀状態を常とする。そうした通常の状態から瞬時に攻撃を放つことができるのが、抜刀術の特質となっている。

 こうした特質は、相手に害悪を悟られることのない状態で近寄り、瞬時に斬撃を送ることに通じる。不意の襲撃や暗殺の手段として、まさにうってつけの特質なのだ。

 刀が武器であることからも、抜刀術が暗殺術と結びつき「不意打ち技」を備えるようになったのは、ある意味当然といえた。

 なお、納刀している状態からの斬り付けには、様々な名がある。居合術、抜刀術、抜合、抜剣、鞘の内。

 名称の違いだけで、全て同義語とみてよいが、あえて術技を分けるとすれば、抜刀術とはこちらから斬る技。

 居合術は居して合いする意味。つまり、普段の何気ない状態(歩いていたり座っていたりなど)時に、突然襲われた時の対処法。つまり迎撃の技とする。

 また抜刀術を立って行う技。

 居合術を座っておこなう技とする考えもある。


 源郎斎も澄香も知っている。

 隼人の剣速は、常人では捉えることすらできないということを。

 それに抜刀術の理合が加わる。

 その威力は計り知れない。

 抜刀術の速度は、速く見える速く感じるなどのファンタジーではなく、現実として速い。

 林崎夢想流では、納刀された刃長三尺三寸(約100cm)の長刀を使い、目の前に存在する九寸五分(約28.8cm)の小刀が襲ってくることを想定。

 近い間合いでは相手の九寸五分(約28.8cm)の小刀が圧倒的優勢だ。

 だが、この絶対不利な密接状況から、刃長三尺三寸(約100cm)の長刀を抜き、九寸五分(約28.8cm)の小刀を制することが実際に可能となっている。

 抜刀術の速度は、人間の反射を、かいくぐる。

 だが、源郎斎は笑う。

 その笑みは、不敵なものであった。

「一刀必殺にかけるか。それで、俺のこの技・《鬼影》を破ることはできん。勝負あったな」

 源郎斎は、挑発するように問いかける。

 だが、隼人は笑みを浮かべる。その表情には余裕があった。

 隼人の反応を見て、源郎斎はさらに笑った。

 《鬼影》

 それは鬼哭館の剣技というより、源郎斎だけの剣技であった。

 源郎斎が、独自に編み出した技である。

 源郎斎は、《鬼影》についてこう説明していた。

 それは、自身の肉体と刀を一体化させ、身体を一つの巨大な刀とする技だと。

 刀は振って斬る武器だ。

 だが、源郎斎は刀を振るのではなく自身が刀になって振るのだ。

 それは、剣術というよりも、体術に近い。源郎斎は、全身の筋肉と神経を極限まで鍛え上げている。

 それは、並大抵の努力でできるものではない。

 だが、源郎斎はやり遂げた。

 そして、その執念にも近い修練が生み出したものは、凄まじかった。

 まず第一に、源郎斎は、己の動きに一切の無駄を省いた。

 次に、刀を持つ手の力を最小限に抑え、刀の重さすら感じさせない。

 これが刀との一体化だ。

 成人男性の平均的な腕の重さは片腕だけでも3〜4kgもある。これは「野球バット4本分の重さ」と言い換えることができるが、人間はその重さを感じることはない。それを支えている背筋や腰に、それだけの筋力があるからだ。

 源郎斎は、鍛錬と理合でそれを可能とした。

 最後に、源郎斎は、全ての動作を連動させた。

 つまり、動くと同時に斬撃を繰り出す。その一連の流れを、まるで呼吸をするかのように意識することなく行う。

 人間は1分間に12~20回呼吸しており、1日分に換算すると最大約2万9000回。 もちろん体を動かすと呼吸の回数は増え、運動時は普段の5倍、1分間に80回になるが意識的に行わない。

 《鬼影》もそのレベルで行う為に、源郎斎の意識で斬れるのだ。

 《力》《動》《刀》。

 この三つの要素が合わさることで、《鬼影》は完成する。

 この《鬼影》には弱点がある。

 それは、《鬼影》には隙がないことだ。

 隙がないことが弱点とは、妙な言い方だが、剣術は隙をみせることで、相手を動かす「後の先」の理合がある。

 三流剣士ならば、先に斬ろう動こうとするが、隙がない故に達人が相手になると膠着状態になる。

 それは、《鬼影》を完璧に極めれば、相手がどんなに早く動こうが、どのような体勢だろうが関係なく、確実に斬撃を浴びせることが出来るからだ。

 また、その動きは人間離れしており、目に映る前に斬撃を放っているのだ。

 源郎斎は、上段からの地球の重力に従う振り下ろしが最も速いと考える。鞘に納まった刀は構えられた刀にすれば、0どころかマイナスの位置だと。

 だから、たとえ隼人の抜刀術であっても、《鬼影》の前では無力なのだ。

 そう源郎斎は考えていた。

 それは、自信に満ち溢れていた。

 源郎斎は、隼人に語りかける。

 それは、相手を油断させるための作戦なのか。

 否。源郎斎は本気であった。

 それは、源郎斎にとって、隼人が最大の強敵に見えたからであろう。

「一つ教えてやろう。隼人、貴様と初めて会った時に上段の構えから俺が繰り出した技。あれは《鬼影》の二歩手前の威力だ。今回放つのが完璧な姿となる。覚悟しろ」

 源郎斎は言うと、口元を緩める。

 その顔は、完全に勝利を確信したものだった。

 だが、隼人は違った。

 隼人は、その言葉を待っていたかのような顔をする。

 その目からは、闘志が消えていなかった。

 そして、隼人は呟くように言った。

 源郎斎の顔色が変わる。

 その声は小さく、周りの喧騒にかき消されそうなほどであった。

 だが、源郎斎の耳には届いていた。

 隼人の言葉は、決して大きな声ではなかったが、その言葉には、確かに怒りの感情が含まれていた。

 放たれた隼人の言葉の意味。

 それによって、澄香は反応する。

「――澄香。かたきを討つぞ」

 隼人の瞳の奥に燃える炎を見た時、源郎斎はゾクリとした感覚に襲われた。

 それは、源郎斎が初めて感じるものであった。

 源郎斎の額に汗が流れる。全身の毛穴から冷や汗が流れ出る。

 それは、恐怖からくるものであった。

 今まで、源郎斎が味わったことのないもの。

 それは、自分が敗北するという未来であった。

 源郎斎は、その直感を信じた。隼人が放った技は、自分を殺す技だと。

 その技が放たれたら最後、自分は死ぬと。

 しかし、源郎斎は冷静だった。

 なぜなら、源郎斎は自分の技を信じていたから。

 《鬼影》を極めし者、それが源郎斎であった。

 技に絶対の自信を持っていた。

 その技は、あらゆるものを斬り裂いてきた。人であろうと獣であろうと、岩や鉄といった物質だろうと。

 だが、今目の前にいる少年は、その技をもってしても倒せないかもしれない存在となっていた。

 それでも、源郎斎は信じた。自分の最強の剣技が敗れるはずがないと。

 源郎斎は、ゆっくりと息を吐いた。

 隼人は右手を、自然体に下げたままだった。

 抜刀術は初めから柄に手をかけない。初めから柄に手をかけて相手に接近しては、相手に抜き打ちを予告しているのも同じで奇襲にはならないからだ。

 柄頭は相手に向ける。刀は鯉口の向いている方向に抜く。だから、臍の上真正面に刀を持って行く。

 脚も開かない。

 初めから脚を広げていては、鞘引きが出来ない。更に腰の力も使えない。身体の姿勢変化をすべて使って抜くのが抜刀術の妙理。手は添えて引っ掛けてるだけで抜かれる。

 隼人は、ただ静かに立つ。

 その姿は、とても静かであった。

 そこから風がそよぐように、歩を進めた。

 隼人と源郎斎の距離が縮まる。

 源郎斎の身体に緊張が走る。

 だが、源郎斎は、平常心を保ったまま自らも歩を進める。

 二人の距離が近づく。

 雪が日差しを受け、ゆっくりと解けていくような速度だ。

 源郎斎と隼人の距離は、残り一間一尺(約212cm)程となった。

 そこで、隼人は足を止めた。

 源郎斎も足を止める。

 二人の間に沈黙が流れた。

 恐ろしいまでの静けさ。その空間だけが、時間の流れを止めているようでもあった。

 拍動する心臓が血液を送り出す音が聞こえるほどだ。

 二人は互いを睨み合いながら、相手の出方を伺う。

 瞳の動き、指先の震え、筋肉の動き、呼吸のリズム、足先の動き、瞬きの回数、膝にかかる体重、重心の位置、筋肉の張り具合、腰の落とし方、手に持つ刀の長さ、足の開き加減、刀を握る力、刀を持つ手の角度、刀を持つ手の力の入り具合……。

 それら全てが、相手への次の攻撃に繋がる。

 剣術は誘いの隙を見せ、相手から打たせ、技を仕掛けてきた相手の、防御への体勢が整わない瞬間を狙う「後の先」を狙うのが有利とされる。

 二人の考えは、それであった。

 全てが情報となり、次の動作を読み取るための道具となる。

 そして、ほんの僅かな動きの違いが勝敗を分けることになる。

 一瞬で、様々な状況を読み取る。

 わずかな変化を見逃さないために、神経を集中させる。

 隼人は掌にじっとりとした汗を感じていた。

 それは、極度の緊張感によるものだ。

 それは源郎斎とて同じであった。

 源郎斎は、全身の神経を研ぎ澄ませ、隼人の一挙手一投足を観察していた。

 だが、源郎斎は隼人の僅かな筋肉の動きを見て取った。

 それは、ほんの針先のような小さな動きであったが、それは隼人が抜刀術を放つ前の予備動作に他ならなかった。

 その瞬間、源郎斎の脳裏には、抜刀術が放たれる映像が浮かぶ。

 その一撃は、確実に源郎斎の命を奪うだろう。

 源郎斎は、その未来を斬り裂くことにした。

 それは、抜刀術が放たれた後に、自身の《鬼影》を繰り出すことだ。

 その《鬼影》は、抜刀術よりも速く相手を斬ることが出来る。

 源郎斎は、そう考えていた。

 動いた。

 澄香からすれば、どちらも同時に動いたようにしか見えない。

 だが、寸毫すんごうの意識の差で隼人の方が先。

 源郎斎の刀が動く。

 その刹那、隼人も動いた。

 隼人は柄を下から手を添える。

 左脚を後ろへと引く。

 抜刀術には左手で鞘を前へと送り出す「鞘送り」という技法もあるが、隼人は行わない。左手で送り出した故に、刀を抜いていき抜き付けるには、その左手で鞘をより引かなければならない。左手への意識が強くなるからだ。

 鯉口を握る左手を引き左肩を引く。

 体と腰を使って刀を抜くので、右手を使って刀を抜いている訳ではない。

 その為、抜刀術は柄頭を壁に押し当てた状態でも刀身を抜ける。刀を腕で抜くのではなく、身体を使って鞘を引き抜くのだ。

 丹田に力を込め、切先を鯉口から放ち抜きつける。この切先が鯉口から放たれる瞬間を「鞘離れ」という。

 抜き付けの時、刀を握る右腕が伸びていては術にはならない。

 刀を抜くのは、横抜き、縦抜きの二つがあるが、いかなる時も肘が曲がっていることが肝要。左肩を引くことにより、右手と引く肩が張るかたちになる。それによって、体が張るのだ。

 この体捌きこそが、「引き手を利かす」ことの目的であり、「鞘離れを効かす」ために不可欠な要素である。

 抜刀術特有の鋭い抜き付けは、腰に密着させた鞘と、腰の体幹力。左右の動きがもたらす「張り」という体捌きによって現出させている。

 これだけの複雑な動きを隼人はコンマ単位の時間で行う。

 だが、源郎斎も《鬼影》を繰り出していた。

 右脚を大きく踏み出す。

 それと同時に、右肘が曲がり、右肩が下がり、胸が開く。

 その開いた胸に左腕が引かれ、左手が伸びる。

 その伸びた左手が柄を握り締めた。

 源郎斎は、抜刀術が繰り出される前に刀を振り下ろす。

 その速度は、隼人が抜き終わる速度と変わらなかった。

 しかし、隼人の抜刀術は、既に完成されていた。

 隼人の抜刀は、すでに抜き終わっている。

 鞘離れした刀は、光となって空を寸断。

 源郎斎は刀と一体となり、刀に吸い込まれるような感覚になる。

 源郎斎の《鬼影》と、隼人の抜刀術による抜き打ちの一刀は、ほぼ同時に繰り出された。

 その時、二人は世界の中心となった。

 周囲の時間は止まり、二人の時間だけが流れる。

 源郎斎の視界の中で、隼人の刀身が迫る。

 それは、まるで時間が伸びているかのようだった。

 隼人の抜刀は、もはや剣技と呼べるものではなかった。

 それは、神速の抜刀術であった。

 神が設計した図式のように、美しく、完璧な流麗な動き。この世で最高の美を体現するかのような――。

 それは隼人の剣。

 だが、源郎斎の《鬼影》とて劣るものではない。

 源郎斎の刀は、雷光の如く風を斬り裂く。二度と空が復元することのない刃は、まさに最強の名に相応しい。

 二つの刃が交錯する。

 そして、時という風が吹き荒れた。

 剣が嵐を巻き起こした。

 二つの影が、斬撃の終了と共に間合いを取って静止する。

 疾風が渦巻き、土埃が霧のように晴れていく。

 二人は動かない。

 否、動けなかった。

 筋肉内のグリコーゲンを一瞬に分解することで、完全に枯渇してしまったからだ。短時間に強い力を発揮する運動を無酸素運動と言う。

 筋を収縮させるためのエネルギーを、酸素を使わずに作り出すことからこのように呼ばれ、高強度の無酸素運動を持続できる時間は1~3分程度で、さらに運動を続ける場合には十分な酸素が必要となる。

 源郎斎の《鬼影》は、隼人の身体を袈裟斬りにした。

 隼人の抜刀術は、源郎斎の胴を両断していた。

 だが、二人とも生きていた。

 そして、二人は見た。

 自分の命を奪った相手の姿を。

 空振りは無い。

 その手に伝わる肉を斬る感触が、その斬った相手の生命を絶つ手応えが、二人に、そのことを告げている。

 だが、それでも、二人は生きている。

 澄香は、何が起こったのか分からなかった。

「勝負は……。どうなったの……」

 澄香は呟くように言った。

 それは、誰もが感じていることであった。

 源郎斎と隼人は、互いに相手を斬っていた。

 だが、その二人が、まだ立っている。

 源郎斎は額に脂汗を浮かべ、隼人は身体を震わせる。寒風にさらされたように揺らす。

「勝った!」

 源郎斎は叫ぶ。

 その言葉は、澄香の耳に届いた。

 隼人は自ら膝を折る。

 次の瞬間、隼人の右肩から血しぶきが上がった。

 右腕が肩が動く。

 そから斜めに右肩がズレると、隼人の腕が肩ごと地に転がり落ちた。

 隼人の右腕は、右肩から右脇下にかけてはすに切断されたのだ。

 切断面から肉と骨がむき出しになる。

 次の瞬間、恐ろしいほどの出血が爆発した。

 隼人は斬られた痛みに顔を歪めながら、苦痛をかみ殺す。

「隼人!」

 澄香は声帯が破けんばかりに声を上げた。

 隼人の右腕は、肩から先が完全に無くなっている。

 源郎斎が放った《鬼影》によって、斬られたのだ。

 隼人は、死に等しい苦痛の中、身を震わせ、ゆっくりと顔を上げる。

 視線の先。

 そこには、勝利を確信した源郎斎の笑みがあった。

「見事じゃ源郎斎! その小僧の首を落とせ。儂に《なにがし》を喰わせい!」

 隆元は、源郎斎の勝利を疑っていなかった。

 だから、源郎斎に命じた。

 だが、その命令が実行されることはなかった。

 なぜなら、隼人が立ち上がったからだ。

 しかも、腕が斬り落とされているというのに。

 隼人は苦痛の中、笑い始める。源郎斎も驚きを隠せないでいた。

 まさか、立ち上がるとは思わなかったからだ。

「おい。源郎斎、これで勝ったと思っているのかよ。だったら、お前は馬鹿だぜ」

 隼人は血で濡れた顔で叫び、勝利を確信していた。

 源郎斎は理解ができなかった。

「何を言っている。そんな体で、まだ戦えるというのか」

「……お前は、大事なことを忘れているな」

 隼人は、左手で右肩の肉を掴み出血を押さえる。

「この戦いは、俺は乱入者ということだ」

 そう言って、隼人は澄香を見る。

 その目は、澄香を射抜くような目であった。

 その視線を感じた時、澄香は自分が誰で何のために、ここに居るのかを思い出す。

 澄香は刀を手に立ち上がる。

 隼人が叫んだ。

「行け、澄香! 母親のかたきを討て!!」

 澄香は、源郎斎へと向き直り、刀を八相に構える。右肩から激痛と出血が起こるが無視をする。気遣っている暇はない。

 殺気に満ちた眼差しを源郎斎に向ける。

 走り出す。

 もはや間合いの読みや、反撃は考えない。

 間合いに入った瞬間に、袈裟斬りを放つ。

 それだけだ。

 その澄香を見て、源郎斎は笑う。

 源郎斎は、刀を上段に構えた。

「そうだったな風花澄香。だが、《なにがし》に勝った俺の相手になると思うてか!」 

 源郎斎は、刀を振り下ろす。

 澄香は構うこと無く突っ込む。

「覚悟しろ源郎斎!」

 その刹那、源郎斎の胴が捩れる。

 澄香が裂帛の気合とともに繰り出したのは、袈裟斬りによる一刀。

 これ以上はない程、見事な太刀筋。

 それが源郎斎の肉体に入り、刃が走り抜けた。

「なんだ、と」

 源郎斎は自分が斬られたことに驚く。

 彼は袈裟懸けに血を吹く。

 だが、その驚愕はすぐに消える。

 何故なら、自分の身体が意思とは無関係に崩れ始めたからだ。

 源郎斎は信じられない面持ちのまま、倒れた。

 血が広がり水たまりとなっていく。

 鬼哭館館長・源郎斎は、絶命した。

 戸田流高柳派・風花澄香の手によって倒されたのだ。

 澄香は、返り血を浴びながらも立っていた。

 その目には涙を浮かべていた。

 だが、それは悲しくて流しているのではない。

 母を殺した男を斬った。

 それは、母の仇を打てたということなのだ。

「私が、勝った……」

 澄香は、その場にへたり込んだ。

 そして、自分の手にある刀を見つめた。

 それは、紛れもなく自分の刀。

 父の刀。

 自分の身体の一部のように馴染んでいた刀。

 この刀がなければ、自分は死んでいただろう。

 そして、この刀は、隼人が研いでくれたものでもあった。

 澄香は気がつく、共に戦った少年が居ることを。

「隼人……」

 振り返ると、隼人は疲れたような表情で、こちらを見ていた。

 そして、隼人は笑みを見せる。

 それは、いつもの笑顔であった。

 隼人は言う。

 澄香には聞こえなかったが、口の動き。

 いや、心を通して分かった。

 

 よかったな


 と。

 そして、隼人は、ゆっくりと目を閉じて地に伏す。

「隼人!」

 澄香は、隼人の傍に駆け寄った。

 切断された右肩から大量の血が流れ出していた。

 血溜まりの中に横たわる隼人の姿を見た時、澄香の心の中で何かが崩れる音がする。

「死ぬな隼人。起きろ、目を覚ませ。私と金打きんちょうをしたのを忘れたか! 約束しただろうが……」

 涙声で叫ぶも返事はない。

 隼人の身体を揺するも反応はなかった。

 だが、その顔には穏やかな笑みを浮かべている。満足しきった表情は未練がないように思えた。

「私を一人にするのか……。澄香を、一人にしないで」

 澄香の声が震える。

 隼人の顔を見ながら澄香は、子供のように泣き崩れていた。

 澄香の目から、大粒の涙が流れる。

 だが、隼人は応えてくれなかった。

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