第26話 食事断ち
客足がまばらな牛丼屋があった。
午後8時を過ぎ、店内にいるのは数人だけだった。
ピークが過ぎたことで、大学生のアルバイト店員はカウンター内で休憩していた。
店内の客は、5人。
仕事帰りのサラリーマン2人に、一組のカップル。
そして、少年が一人だ。
少年は4人掛けの席に座り、黒布の包を左に置いている。
そのバイト店員は、スマホを取り出すと、SNSアプリでメッセージを確認しつつ、店内を気にしていた。
サラリーマンとカップルの注文は終わり、配膳も終わっていたが、少年は水だけ口にして未だに注文をしないからだ。
少年は酒でも口にするかのように、ちびりちびりと口にする。
「冷やかしじゃねえだろうな……」
店員が独り言を言うと、店のドアが開いた。
店員は、反射的に入り口を見る。
入ってきたのは、年齢は20代の男性だった。
左手には、鞘袋を手にしていた。
ネイビージャケットにカジュアルなストレッチスラックス、清潔感のある丸首カットソーで、靴も革製のオシャレたデザインだ。
凛々しく、見る者に清廉な印象を与える。
肩まで伸びた黒髪は、後頭部のところで結われていた。
志遠が店内に入ると、店員が声をかけ席に案内しようとした。
だが、志遠案内を断る。
「いえ。おかまいなく」
志遠の視線は、奥の方に座っている隼人に向けられている。その表情は険しく、まるで獲物を見つけたような目つきだった。
そして、隼人もまた、志遠に気づいた。
志遠は隼人に近づく。
志遠は、隼人の座るテーブル側に立つと訊いた。
「ここは空いていますか?」
隼人は、ちらっと志遠を見た。
隼人の前にあるのは空の席と、水のコップだけだ。
つまり、この場は誰もいない。
隼人の答えは決まっていた。
「見て分からねえか? 空席だよ」
志遠へ、隼人は素っ気無く答える。
普通なら、喧嘩を売ってると取られても仕方ない。
しかし、隼人の態度は自然体であり、決して悪びれた様子はなかった。むしろ、相手にしていないと言わんばかりに、堂々としている。
志遠は表情を緩めると、鞘袋を自分の右側に置き、隼人の向かい側に座った。
隼人は目の前にあるコップを掴むと、口をつける。
その様子を、志遠はじっと見つめる。
隼人が水を半分ほど飲むと、志遠は店員を呼んだ。
「僕は牛丼をレディースで。君は?」
志遠の、その口調は丁寧だった。それは相手を敬う気持ちが込められていた。
「俺は、いらねえ」
隼人の言葉に、店員は、やっぱりかと思ったが、あえて言葉にはしなかった。
隼人はコップを置いた。
「……いや。気が変わった。大盛一つ頼む」
その言葉に、店員は驚くが、すぐに返事をする。
店員は注文を繰り返し、厨房に戻るのを確認すると、隼人は口を開いた。
「顔も女みたいなら、胃袋も女みてえだな。男だったら、特盛りだろ」
隼人は、挑発するように言った。
その言葉に、志遠は眉をひそめた。皮肉に、志遠は苦笑いを浮かべた。
「昔から、腹が減っては戦はできぬ。とはいうが、実際は、満腹よりも空腹の方が戦いに適しているんだよ」
志遠は水の入ったコップを手に取ると、一口飲んだ。
その動作は洗練されており、上品さがあった。
【稽古と食事】
種目を問わず、スポーツの前の食事量をセーブすることが肝心だ。できるだけ少なめに抑えつつ、途中で空腹になって力が抜けることのないように工夫しなければならない。
剣術の場合は、稽古や試合前には『おにぎり一個』が最適と言われる。
最近は売店やコンビニでパック入りプロテインを購入することができるが、米飯の燃費の良さは大したもので、パック食品では耐えきれない長丁場を乗り切れるという。
志遠は、それを考慮してのレディースサイズを注文した。
「武術家だな」
隼人は、興味深そうに言った。
その言葉に、志遠は笑みをこぼすと、小さく首を横に振った。その仕草は、まるで少女のようだった。
だが、隼人は見逃さなかった。その笑顔は、ただの作り物だと。
すると店員が2つの牛丼を持ってやってきた。
店員は志遠の前にレディースサイズ牛丼を置き、隼人に大盛を置いて去って行った。
志遠は箸を手にし、いただきますと言って食べ始めた。
隼人は、その様子をじっと見つめていた。
志遠は黙々と食べる。
だが、隼人は頼んだ牛丼を前に箸も手にしようとしなかった。志遠は隼人の視線を感じながらも、箸を進める。
「どうした? 注文したのに食べないのか?」
志遠は訊いた。
「これは。俺の分じゃねえよ。お前の分だよ、志遠」
隼人は志遠の名を口にすると、丼ぶりを志遠の方へ勧めた。志遠の表情は驚きに変わった。
志遠は、2つの牛丼を見る。
「2つ合わせて特盛という訳か。やってくれるね隼人」
志遠は、口元に微笑を浮かべた。
「
「相変わらず食べないんだな、隼人は。最後に食事をしたのは、いつなんだ?」
志遠は、自分の前に置かれた2つの牛丼を見ながら言った。
「5日前だったか。クラスメイトが弁当を作ってくれてな。それで食べたのが最後だったかな」
隼人の言葉に、志遠は目を丸くして驚いた。
【食事断ち】
戦国時代。
合戦に明け暮れていた時代には、もし切腹することになったり、斬られた腹から食べ物が出てきたりすれば、武士の恥とされた。
その為、食事断ちは武将の
しかし、天下分け目の関ケ原の合戦後、大阪の陣の頃ともなると合戦もほとんどなくなり、そういった伝統も忘れ去られていった。
空腹というのは、戦う上でメリットがある。
ライオンは空腹を感じた時にしか狩りをしない。満腹の時に獲物となる動物が通りかかっても襲うことはない。
つまり「腹が減っては戦はできぬ」どころか、「腹が減らなければ戦はしない」のだ。
人間も空腹時の方が戦う能力は上がる。
飢餓の時には生存本能が働き集中力や緊張感が増し、体の機能をフルに活動させる覚醒状態になる。
また血糖値を上げるためにアドレナリンというホルモンも分泌される。アドレナリンは、腹が空いたときにイライラする原因の一つでもあるが、精神的な興奮をもたらすので戦闘にはもってこいだ。
一方、胃が食事で満たされると、消化管は活発に活動を始める。消化管の活動は主に副交感神経の活性化により亢進する。副交感神経が優位ということは、体全体がリラックスモードになるということだ。
これでは戦えない。
また、脳を覚醒状態にするオレキシンという物質があり、これが増えると食事摂取量が上がるが、食後はバランスをとるためにこのオレキシンが減る。
当然、脳の覚醒状態は下がる。食後に眠くなったり気怠くなったりするのは、これらが原因と言う。
このように、人の身体は明らかに空腹時の方が戦には向いているのだ。
「……食事断ちって。本来は、合戦の数日前に行うと聞いたけど。常にしておくものじゃないだろ」
「必要なんだよ。今の俺には」
志遠の呆れに、隼人は決意を持っていた。
隼人は続ける。
「別に驚くこともないだろう。人間は水を一滴も取らなければ、せいぜい4〜5日で死ぬが、食べ物なしの場合は最大で2ヶ月持つ。大したことねえ」
隼人は表情を変えず、口を開く。
その口調は、どこか他人事のように無関心だった。
隼人の言葉に、志遠は驚きを隠せなかった。
「……隼人。それは君だからできることだ。他の人間にはできないことだよ」
志遠は、もし自分が逆の立場ならどうだろうかと考える。目の前の2つの牛丼を見る。器から湯気が立っているのを見て、思わず喉を鳴らし、獣のように口から唾液を零してしまったに違いないが、隼人にその様子はない。
登山用語に、シャリバテ(ハンガーノック)という言葉がある。
登山では長時間にわたって体を動かし続けるため、日常生活に比べて比較にならないほどのカロリーを消費する。
きちんとした食べ物をとらないで激しいエネルギー消費を行うと、血糖値が下がり、急にひどい空腹感に襲われて全身に力が入らなくなり、動けなくなってしまうのだ。
その為、登山中は最低でも 2 時間に 1 回は食べ物を補給する。腹が空かない内に前倒しで食べれば疲れない体を保つことができる。
隼人の言う、食事を取らないで生きている期間というのは、生きているだけで健康な日常生活ができるという意味ではない。
常人であれば空腹で、今にも倒れそうなはずなのに、彼は平然としている。それは志遠にとって知っていても衝撃的だった。
「ところで俺を呼び出したのは、何の用だ志遠?」
隼人は、志遠を見た。
その言葉に、志遠は我に帰ったように顔を上げた。その目は真剣そのものだった。
志遠は箸を置くと、ゆっくりと口を開いた。
「依頼を受けた。……隼人。君を斬る、助太刀の依頼だ」
その言葉は重かった。
その重さが隼人に伝わる。
隼人は眉一つ動かさず、志遠を見据える。
(……そうきたか)
と心の中で呟いた。
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