第25話 化粧(けわい)

 デパートの一階フロアにあるフードサービスエリア。

 広々としたスペースに、いくつものテーブルや椅子が並べられており、買い物客の憩いの場所となっている。

 昼のランチタイムは多くの人々で賑わうこの場所も、19時を回った今では人の姿はほとんど見られない。

 その数少ない利用客の一人。

 少女が二人テーブル席に座っていた。

 ブレザー姿の少女。

 装飾も邪心もない心を宿した瞳。

 セミロングに切り揃えられた黒髪。

 髪を留める赤いリボンは未だに、少女心を表しているようでもある。

 身体は華奢だが、それでもどこか芯が入ったような印象があった。

 テーブルには居合刀ケースを立てかけてあった。

 名前を紅羽くれは瑠奈るなと言った。

 瑠奈はスマホを片手に持ちながら、時間を潰していた。

 時折アイスコーヒーを飲みながら、ストローで氷を突く。

 その動きはどこかぎこちなく、落ち着かない様子だった。すると、ふっと息を吐き、瑠奈は顔を上げる。

「遅いわね」

 その一言には苛立ちが含まれていた。

 だが、それは当然のこと。

 なぜなら、待ち合わせの時間より20分近く遅れているのだ。

 約束を破ることはしない性格だと知っているだけに、余計に心配になる。連絡がないのが、さらに不安を掻き立てる。

 すると突然、背後から声を掛けられた。

 学生服を着た一人の少年が立っていた。左肩に黒布の包を担いでいた。

 彼は困ったように笑い、軽く頭を下げる。

 そして、遅れたことを謝る。

「やっと来たわね。隼人」

 瑠奈は、少年・隼人に罪悪を負わせたくて、わざとらしく頬杖をつくと呆れた声を出す。

「瑠奈。待たせたな」

 隼人の声を聞き、瑠奈は安堵のため息を漏らした。

 待ち人来たりである。

 安心すると同時に、瑠奈の中に怒りも湧いた。

 その感情を隠すことなく、不機嫌そうな声色で応えた。

「おーそーい。遅れるなら一言連絡してよ」

 瑠奈に、そんな態度を取られ、隼人は済まなそうに答える。

「悪い。近道のつもりで入った道で迷った」

「迷った? そんなの地図検索すれば……」

 そこまで言って、瑠奈はあることを思い出す。

「……隼人。もしかして、まだスマホに切り替えてないとか?」

 その言葉を聞いて、隼人は目を逸らす。

 図星であった。

 隼人は機械類に疎い。

 SMS(ショートメール)は良いが、Eメールを送るには一苦労して以来、諦めている。

 だが、それを口にすることはしなかった。

 隼人にとって、それは恥ずべきことであり、男として情けないことだと思っているからだ。

 だから、瑠奈の言葉を肯定することも否定することもなく、ただ黙って流していた。

「普段から口数が少ないから違和感を感じなかったけど、どうりで、私がLINE交換をしようとしてもはぐらかすし、隼人からのSMSが短いと思ったわよ。ガラケーは70文字しか送れないんだから。今度会う時は、スマホにするって言ってたのに、まだ機種変してないなんて」

 呆れた顔を瑠奈はする。

「壊れたら考えるさ」

「古いものを大事にするのは、刀だけにしておきなさいよ」

「……」

 瑠奈の指摘に、隼人は話題を変えるかのように、瑠奈の前に腰掛けた。

 瑠奈は話を切り出す。

 あれこれ言っても仕方がないからだ。瑠奈は、こざっぱりした性格だった。

「……それで、買い物に付き合って欲しいって、ことだけど? 珍しいわね。その程度で、隼人が私に頼むなんて」

 瑠奈は、なぜ自分が呼ばれたのか理解していなかった。

 だが、頼まれれば断ることはない。

 それが瑠奈の性格だった。

 隼人にとって、自分の全てをさらせる女性となれば、中学時代からの付き合いのある瑠奈しかいなかった。

 二人の出会いは些細なものだ。

 夜が明けきらぬ内から、剣の素振りを行う隼人に対し、同じく早朝からジョギングをしていた瑠奈が隼人に興味を持ったことが始まりだった。

 隼人は古流剣術を心得、瑠奈は居合道を心得ていた。

 剣という本来切るべき物で、剣という共通認識が結んだ縁であった。二人の付き合いは、そこから始まっているが、仲としては剣での友人、剣友だ。

 隼人のことを知る女性だからこそ、隼人は瑠奈に頼んだのだ。

 すると、隼人は視線を反らせたまま答える。

「実はな……」

 隼人の口から出た言葉に瑠奈は耳を疑った。それは、信じられないことだった。

 まさか、そんなことが……。

 だが、聞き間違いではなかった。

 隼人は確かに言った。

 自分の口から発せられた言葉に、思わず舌打ちをしたくなる衝動に駆られる。

 それをぐっと堪え、努めて冷静に答えた。

「……それで、私に頼んだ訳」

 その問いに対し、隼人は今度は真っ直ぐに見つめ返しながら告げる。そこには迷いはなく、覚悟を決めた強い意志があった。

 だが、それでも瑠奈は、その言葉を信じることができなかった。

 いや、信じたくなかったのだ。

 何だか腹が立つ。少なくとも目の前に、いい女が居るのに、それを通り越しているような気がしたからだ。

 隼人が口にした言葉を。訊き直す。

 だが、現実は変わらない。

「いやいや。隼人、それマジ?」

「俺は、本気だ」

 瑠奈の表情が曇る。

 だが、隼人の真剣な眼差しを見て、瑠奈は冗談や浮ついた気持ちではないことを理解した。

 瑠奈は大きく息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出す。

「……分かったわ。確かに男一人じゃ行きにくいでしょうから。私が付き合ってあげるわ」

 その言葉に、隼人は安堵する。

 これで、あの店に行くことができる。

 席を立った二人が向かったのは、化粧品売場であった。

 色鮮やかなリップスティックや、ファンデーション、化粧水、マネキュア、マスカラ、香水などが並べられている。

 その売り場には女性の姿が多く見られた。

 隼人は呆然とする。

 何が何だか分からないからだ。

「女ってのは凄いな。これだけの数の中から、どれが自分に合うものか分かるんだからな」

 隼人が感心したように言うと、瑠奈を見て訊く。

「瑠奈は、どんな感じでメイクしてるんだ?」

「派手なことはしてないわよ。ナチュラルメイクっていうか、ベースだけかな。肌荒れしないように保湿したりとか、眉毛整えたり、アイライン引いたりするくらいね。後は、あるかないか分からないくらいにチーク入れたりとかかしら」

 隼人は瑠奈の話を聞き、なるほどと思った。

「それで瑠奈はキレイなんだな」

 瑠奈は隼人の、その言葉にドキッとする。

 顔が熱くなった。

 そんなストレートな言い方されると困る。

 しかも、相手が中学時代からの友人だけに、余計に照れ臭さを感じる。

 だが、ここで狼にでもなってしまえば、それこそ隼人に幻滅されてしまうだろう。

 それだけは避けたかった。

 だから、瑠奈は平静さを装う。

「ま、まあね。学校じゃ、男子から居合小町って呼ばれてるんだから」

 瑠奈は胸に手を当て、ちょっとだけ得意にする。

「口紅はどうしてるんだ?」

 隼人がそう訊いてきたので、瑠奈はそのことを忘れていたのを思い出す。

「私が使っているのは、唇を保護する色付きリップクリームよ」

 隼人は思案顔をする。

「……唇本来の色に、リップの色を乗せてるのか。それで自然な発色になっているんだな。――だが、血色を活かすのはダメだな」

 隼人は納得したような顔をして呟いた。

 それからリップスティックのコーナーに行くと、隼人は手に取って眺め始めた。

 瑠奈はその様子を後ろで見ていた。

 どうやら、どの色がいいか悩んでいるようだ。

 そして、ある一本を手に取る。

 それは、少し赤みが強いリップだった。

 瑠奈は思わず顔をしかめた。

「なあ。試供品の色を確かめたいんだが、どうすればいい?」

「手の甲に塗って確かめるのよ」

 瑠奈のアドバイスに従い、隼人は手の甲に少し塗る。

 肌に乗せることで、色合いを確認すると隼人は満足そうな笑みを浮かべた。

 その様子に、瑠奈は不安を覚えた。

 もしかして、隼人はこれが気に入ったのだろうか。

 もしそうだとしたら、今更ながら言わなければならないと思ったからだ。

「ねえ、隼人。どんな女にコスメのプレゼントを考えているのか知らないけど、相手は高校生でしょ?

 あ! それとも、あの年増の口入屋とか?」

 瑠奈は口入屋・月宮七海を思い出して、不機嫌そうに言う。まだ20代だろうが、江戸時代は20歳前後を年増と言っていたので、瑠奈は七海のことを、内心で、そう呼ぶ。

 瑠奈は七海のことが好きではなかった。年増のクセに高校生の隼人に色目を使っているのを見たことがあったからだ。

「ケンカを売るな」

 隼人はなだめる。

「肩を持つじゃない。まさか本当なの?」

「違う」

 瑠奈は詰め寄られると、隼人は自然体で否定する。

 隼人の落ち着き払った姿に、瑠奈は胸を撫で下ろす。

「なんだ。良かった」

 隼人は首を傾げる。

 何を言っているのかという表情だ。

「あ――。いや。だから、色物のメーキャップは、使う人の顔色や好みがはっきりするものなの。隼人が良い色だと思っても、相手に合わない可能性が高いってことよ」

 瑠奈の忠告を理解すると、隼人は瑠奈の質問に答える。

 それは瑠奈にとって、とても信じられないことだった。

 隼人の言葉に、瑠奈は思わず耳を疑った。

 そして、聞き間違いではないかと思った。

「心配ない。使うのは俺だからな」

 隼人のその言葉に、瑠奈は絶句した。

 そして、隼人はなぜ化粧品を求めたのか理由を話した。

 二人が化粧品売り場を出た時、隼人は瑠奈が買ってきた紙袋を受け取ると、それを大事そうに抱える。

 隼人は購入したのは、口紅と花の香りがする香水だ。

「ありがとう。今日は手間をかけたな。釣りはとっといてくれ」

 そう言われた瑠奈だが、釣り銭を隼人に押し付ける。

「バカにしないで。もし、私にお礼がしたいなら、今度は私に付き合ってよ。美味しいケーキの店があるの」

 その言葉を聞いた隼人は、申し訳なさそうな表情を見せる。

「……終わったらな」

 その言葉に瑠奈は反応する。少し怒った口調。

「何が終わったらなの?」

 隼人は、その問いに対して答えなかった。

 瑠奈は神妙な面持ちになる。

 一体、何が終わるというのだろう。

 隼人の言う終わったは、最悪の事態も含まれるのだ。

 だが、隼人はそれ以上何も話そうとしなかった。

 二人は、デパートを出ると駅に向かって歩き出す。

 隼人は瑠奈と二人で肩を並べて歩く。

 こうして歩いていると、まるでデートしているみたいだと瑠奈は思った。

 いや、待ち合わせているという意味では、実際しているのだが、隼人に、その気は無いのは分かっている。

 瑠奈は隣を歩く、隼人を盗み見る。

(完璧な心って。嫌ね)

 瑠奈は隼人が《なにがし》の剣士であることも、人を斬ることを生業としたアウトローの世界に生きていることも知っている。

 隼人は冷徹な人間だと思う。

 けれど、決して残忍ではない。

 塚原卜伝は212人を斬った。

 柳生十兵衛は300人を斬った。

 小野次郎右衛門は450人を斬った。

 宮本武蔵は13歳で新当流の有馬喜兵衛を撲殺し、生涯で500人を斬ったという。

 けれど、人々は決してかの剣士達を人殺しと呼ばず、英雄とし剣豪、剣聖と称えた。

 なぜか。

 それは彼等が、危険な時代において人を斬りながらも剣の道に邁進し、己の信じる義の為に戦い抜いたから。

 それが彼等の生き方だったのだ。

 瑠奈も、隼人の生き方に、それと似たものを感じ取っていた。それは決して、今の時代が許さないとしてもだ。

 時代に流されることなく、自分の道を貫いている。

 自分が口出しできることではないと思う。

 自分と隼人の関係は友人であり、それ以上の関係ではないのだ。

 だから瑠奈は、そんな隼人に惹かれたのかもしれない。

「瑠奈。俺は、今日はこっちだから」

 隼人は、別の通りに眼を向ける。

「……そうなんだ」

 瑠奈は落胆したように言う。

 瑠奈は隼人の背中を見送りながら、胸に溜まったものを吐き出す。

「隼人!」

 その声に隼人は振り返る。瑠奈の顔を見ると不思議そうにする。

 瑠奈は俯く。

 そして、顔を上げると意を決したような表情で隼人を見つめる。

 その瞳には、覚悟を決めたような強い意志があった。

 瑠奈は深呼吸すると、隼人の目を見て話す。

手伝いなんて、させないでよね」

 隼人は、瑠奈の言葉の意味を理解した。

 瑠奈は隼人が、これからやろうとしていることを知っている。

 そして、その決意を変えるつもりがないのも分かっていた。

 だからこそ、言いたかった。

 隼人は苦笑いを浮かべる。

「剣士やってりゃ、いつ死んだっておかしくねえ。死ぬ覚悟は持っていても、死ぬつもりはない。

 は、恥をかかないためだ」

 瑠奈が心配してくれているのは分かった。

 だが、隼人にも譲れないものがある。

 瑠奈は背を向けられるまえに、自分から隼人に背を向けた。見送るのが嫌だったから。

 背中越しに、瑠奈は言う。

「またね」

「ああ」

 隼人は、その後ろ姿に声をかける。

 それは別れの言葉ではなく、再会を約束する言葉だった。


 ◆


 日の落ちた道場の片隅で、霧生志遠は瞑想していた。

 精神を集中して、ただひたすらに心を無に近づけていく。

 それは、剣術を極めようとする者にとって、最も重要な修行の一つだった。

 剣禅一如という言葉がある。

 これは、剣の道の究極の境地は、禅の無念無想の境地と同一であるという意。

 《剣》とは、人を斬る道具であり、剣の使い方を極めるのが剣術だ。

 そしてそれは、人を殺す手段であり、修行は生死にかかわるギリギリの状態で行われる。

 剣術の身体的な修行を積むことで、精神的にも《無念無想》の域に達することができる。

 悟りの境地に至るために、まずは心の在り方を変えることから始める。

 そして、その心の在り方とは、心の中に仏の心を持ち、外面と内面の調和を保つことである。

 その境地に辿り着く為には、心の中だけで考えるのではなく、現実と向き合いつつ、思考を働かせなければならない。

 しかし、この世の中には、常に正しいことばかりが起きるとは限らない。

 人は過ちを犯してしまうものだ。

 それでも、その心の中で、仏の慈悲を持つことができるかどうかが、大切なのである。

 その行いは、他者の為だけでなく、自己犠牲を伴うこともあるだろう。

 それを実践することができるかどうかは、その人間の器量次第なのだ。

 その心に仏性を持てば、やがては仏になることができる。

 それは人の身でありながら、仏になる道を歩むということである。

 だが、それは容易いものではない。

 なぜなら、その理想は遥か遠くにあるからだ。

 剣の道に終わりは無い。

 故に、その歩みは果てしなく続く。

 その歩みを止めぬ限り、いずれは至れるだろう。

 それは、まだ先の話だ。

 志遠は目を開けると、誰もいない道場を眺める。

 そこには静寂があるだけだった。

 それから、志遠は風呂で稽古の汗を流すと、部屋に戻り着替えを済ませる。

 ストレッチスラックスに、ネイビージャケットという出で立ちだ。道着という和装から一転して、洋風へと姿を変えるが、その身に纏う雰囲気は変わらない。

 端正な顔立ちに、スラリとした体型。

 そして、何よりも目立つのが、その長い黒髪である。

 艶のある真っ直ぐな髪が肩まで伸びており、まるで漆黒の絹糸のように美しかった。

 志遠は、その髪を首元で結わえる。

 鏡の前で髪型を整えると、刀と脇差を入れた鞘袋を持った。

 自室を出る。

 向かう先は玄関。

「さて。出かけるとするか」

 そう呟くと、靴を履いて外に出た。

 《なにがし》の少年に、会いに行くために。

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