第23話 イザベラ・バード

 昼休みの日の下を、隼人は林に向かって歩いていた。

 隼人は、林の入り口に立った。

 木々の隙間から漏れる光が、木の葉の間から地面を照らしている。

 隼人は、その光に誘われるように奥へ進んだ。

 木々の匂いと、土と草木の香りが鼻腔を刺激し、肺いっぱいに満たされる。

隼人は、目を閉じた。

 そして、大きく息を吸い込む。

 新鮮な空気が、身体に染み渡っていく。

 身体の中の淀んだものが洗い流されていくような気がする。

 まるで、林の中で浄化されているようだ。

 そんなことを思いながら、小川へと出る。

 その場で佇んでいた。

 すると、背後から声をかけられた。

 振り返ると、そこには、一人の女子生徒が立っていた。

 早紀だった。

「隼人くん」

 と名前を呼ぶ。

 隼人は、早紀を見て驚いた。気まずそうに早紀から離れ小川の縁を歩く。早紀は、その後を追った。

 隼人は、小石を拾うとそれを投げ入れた。

 石は水面を跳ね、水の飛沫が上がる。

 その飛沫を眺め、目を細めた。

 隼人は、この前の一件を気にしていた。澄香は隼人との勝負に応じなかった為に、親交のあった早紀を拉致したのだ。

 そして、隼人は早紀を助けるために澄香の果たし状を受け取った。

 結果として、隼人は右肩に一太刀を受けた。

 それは良い。

 だが、その為に何も知らないクラスメイトを、巻き込んでしまった。隼人は、そのことに負い目を感じていた。

 しかし、謝ることもできないでいる。

 命の危機に晒したという、ことの重大さに。

 だから、クラスメイトの前で話し謝ることができず、昼休みになると逃げるように教室を離れたのである。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、早紀は話しかけてきた。

 その口調は、普段と変わらないものだった。

 隼人は、それが逆に恐ろしかった。自分が巻き込んだことは、許されるものではない。

 そう思っているからだ。

 だが、そんな隼人に対し、早紀は文句一つ何も言わない。

 いつもと変わらずに接してくる。

 隼人は、その態度に自分への苛立ちを覚えた。

 何故、責め立てないのか?  怒りをぶつけてこないのか?

 疑問に思った。

 隼人が視線を逸らすと、早紀は、口を開いた。

 その言葉を聞いて、隼人は驚くことになる。

「隼人くん、お弁当」

 早紀は小さな包を差し出す。その瞬間、隼人の思考が止まった。

 隼人は、唖然としている。

「……すまない。早紀を、俺に私用に巻き込んじまった」

 隼人は、思わず口に出した。

 それは、自分の本心だ。

 自分が巻き込まれたせいで、早紀を巻き込んだ。その罪悪感が、ずっと心の中にあった。

 その一言は、早紀を傷つけることになるかも知れない。それでも、伝えずにはいられなかった。

 だが、早紀は微笑むと、包みを隼人に差し出し言った。

「あの日こと? 別に何も無かったよ。澄香さんにどうしても早退して欲しいって、頼まれて、澄香さんの友達の夏菜子さんって人と少しショッピングにでただけだから」

 隼人は、その言葉を聞いて驚く。

 澄香は、早紀を拉致してはいたが、危害を加えようとしてはいなかったのだ。カタギの人間を人質に取ったことは事実だが、隼人は拉致された恐怖に晒されているのではと思ったのだ。

 澄香は理由もなく人を傷つけ、殺すことはないのを隼人は知った。

「……そうか。でも、俺の私用で巻き込んだのは確かだ」

 隼人は川のほとりにある、四本の棒に赤い布を張った所に着く。すると、隼人は石の上に置いておいた柄杓を手にし、川の水をすくい上げた。

 そして、水を布にかけた。

 濡れた布から水滴が、ポタポタと滴り落ちる。

 布全体が濡れるよう、隼人は水をかける。

 その様子を、早紀は分からなくて首を傾げる。

「それって。やっぱり隼人くんが作ったんだ。この前、澄香さんが水をかけていたけど、やっぱりそういうことだったんだ」

 早紀の言葉を聞き、隼人は驚いた。

「どういう意味だ?」

 訊かれて、早紀は答える。

「この前、初めて澄香さんと初めてここに来た時に、これが目に入ったの。私達、これが何か分からなかったけど、澄香さんは布が濡れていることから、たぶん柄杓で水をかけているんじゃないかって、水をかけていたの」

 早紀は、その時のことを思い出したのか笑みを浮かべる。

 隼人は、それを見ていた。

「そうか。あいつ、これに水をかけてくれたのか……。何も知らずとは言えな。恩義ができてしまったな」

 隼人は、苦笑いをする。

 早紀は、その表情を見て思う。隼人がなぜ、こんなことをしているのか分からないが、きっと隼人には意味があるんだと思った。

 そして、早紀は訊く。

「隼人くん。これって、何なの?」

 隼人は、早紀の顔を見た。そこには、優しい笑顔があった。

 その顔を見て、心を打たれるような気がした。

「イギリスの女性旅行家、イザベラ・バードを知っているか?」

 早紀は、その名前を聞いたことがあるような気がしたが、思い出せない。

 そんな早紀の様子を見ながら、隼人は続けた。

 早紀は、隼人の話を聞くことにした。


 【イザベラ・バード】

 イギリスの19世紀の女性旅行家。偏見の少ない観察眼で東洋各地の旅行記を残し、貴重な民俗資料ともなっている。

 1831年10月31日、英国ヨークシャーのバラブリッジに生まれる。父エドワード、母ドーラ。

 23歳(1854年)の時に、医師の薦めで、アメリカ、カナダを訪れる。これを契機に、72歳(1904年)まで、通算30年に亙る世界各地への旅行を行う。

 女史が旅行した地は、ロッキー山脈、サンドウィッチ島、日本、マレー諸島、カミュールとチベット、ペルシャ、朝鮮 、清等。

 明治11年の6月から9月にかけて、47歳(1878年)の時に、東京から始まり、日光・新潟を経由して、東北、北海道を旅行し、この時の記録を1880年10月に『日本奥地紀行』(原題『日本の未踏の土地』)(2巻)として出版する。

 世界各地の辺地旅行記の出版などの功績が認められ、62歳(1893年)の時に、英国地理学会(ROYALGEOGRPHICAL SOCIETY)の特別会員に選ばれる。


 隼人の話を要約するとこうだ。

 イギリス人の女性イザベラ・バードは、日本を旅した紀行文を残した人物で、彼女の書いたものは貴重な民俗学的資料となっているということだった。

 彼女は、旅の中で様々な物や人と出会い、その出会いを記していった。

「その中に、日本の風習も記されているんだが、これはそれさ」

 そして、隼人は理由を話した。

 それを聞いた早紀は、これがそんな意味があることを初めて知った。隼人の身の上を知っているだけに、深く気持ちが分かった。

 早紀は申し出る。

「隼人くん。私にも、水をかけさせてくれない?」

 隼人は、驚いた。

 それは、予想していなかったからだ。

 だが、隼人は承諾することにした。

 隼人は、早紀に柄杓を渡す。

 早紀はそれを受け取ると、川の水をすくい上げ、布にかけた。

 隼人は、布に水が染み込んでいく様子を眺めていた。

 しばらくして、早紀は口を開く。

「これで、いいんだよね」

 早紀は、隼人の方へ振り向く。

 そこには、微笑む彼女がいた。

「ありがとう」

 隼人は礼を述べた。

 布に視線を向ける。

 布は、水を吸い込み、すっかり濡れている。

「早紀。昼の弁当だが。今日は食わせてもらう。だが、もう作らなくていい。詳しい訳を話してやれないが、分かってくれ」

 早紀は言葉がなかった。

 おそらく、何か事情があるのだ。

 だから、これ以上聞くつもりはなかった。

 隼人は、澄香との一件について強い覚悟と決意を決めていた。

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