第22話 落涙
月明かりが差し込む道場で、澄香は正座をしていた。
道着に着替え、脇差を差し左横には刀を置いてある。
隼人との果し合いから、3日が経っていた。
左脇腹の傷、上腕に受けた傷ともに、さほど深い傷ではなかった。
縫合を行ってもらい傷跡は残らないと医者に言われた。
しかし、傷口から雑菌が入ったせいか、軽い熱が出て1日の間、寝込んでいた。
だが、もう完治している。
今は、身体を動かしたい気分であった。
それにしても、あの少年は何者なのか?
澄香は考える。
間違いなく、ただの高校生ではない。
あの身のこなしは尋常ではなく、また、刀を扱う技術も卓越していた。現代において、刀で人を斬るなどあり得ないことだ。
刀が人を斬るために存在するなら、人が刀を振って殺すことは当然だ。
そして、あの隼人という少年は、それを実践できる人間だ。
20人という人間を一度に斬るのがどれほど難しいことなのか、想像に難くない。
それに加え、刀をすり抜ける刀術を使う。
剣術に《影抜き》という技がある。
刀同士を打ち合わせると見せて、目にも留まらぬ早業で手首を返し相手の手首を斬る技だ。
その技が行われた時、人間の動体視力を凌駕し、まるで刀をすり抜けているように感じ見えるのだ。
だが、隼人の刀法は、それとは全く違う。
刀をすり抜けているのではなく、刀を透過させている。
刀の刃の部分だけを通すことで、相手を斬ることができる。
そのような芸当ができる人間は、まずいない。いるとすれば、過去に居た《剣聖》と呼ばれた人物くらいであろう。
それに加えて、雁金斬りの凄まじさを思い出しただけでも、澄香は身震いがする。
澄香の腕を以ってしても、六寸(約18.2cm)しか斬り下げることしかできない。それに対し、隼人は一尺五寸(約45.5cm)を斬り下げていたのだ。
異様な斬撃力である。
だが、過去には隼人と同じく凄まじい斬人剣を振るった剣士が居た。
人斬り以蔵の名で呼ばれた、岡田以蔵だ。
幕末。
幕臣である勝海舟が大阪に来た時、坂本龍馬は以蔵に海舟の護衛を頼んだ。海舟が幕臣であることを知っていたが、龍馬に友人として頼まれ引き受ける。
そして、三人の勤王志士が海舟を襲い、その一人を雁金斬りにしている。
海舟の『氷川清話』によると、
”肩から切り下げて、腰骨で刃が止まった”
という切り方で即死させている。
切られた志士は、”肩から半身”はぺろんと外側に垂れ下がったという。
以蔵が人を斬ったことに対し海舟は、
「良士は人を斬ってはいかん」
と以蔵を咎めた。
「あしが斬らなければ、先生は斬られていたぜよ」
と返され、海舟は返す言葉がなかった。
歴史教科書に名を残す人物が、いかにも人道的な言葉を発するものの、凶刃を前にいかに無力なのかを示している。
力に対しては、力で対抗するしかないのだ。
澄香は、そのエピソードを思い出す。
隼人の斬り方は、まさにそれと同等のものであった。
《なにがし》の剣は、澄香にとって驚愕と恐怖の対象だった。
澄香は道場の壁にかけた物を見た。
そこには、澄香が着ていた黒いセーラー服があった。スカーフの一辺が無い。それは、《鎧》の数胴一味が乱入して来た際に、それに納得できない澄香に対し、隼人が刀を振るった際に斬られたものだ。
澄香は刀を手にして立ち上がる。
刀を帯に差し、鯉口を切った。
右手を運び柄を下から迎えてやり、刀を抜く。
澄香は、柄を両手で握り、刃を上にして下段に構えを取った。
間合いを測って近づく。
そして、ゆっくりと刀を上げ切先が、スカーフに当たるように振り上げる。切先にスカーフが乗り、そのまま上へ動かすと、刀とスカーフが擦れ合い、衣擦れの音を立てた。
虫が鳴くような小ささで。
間合いは確認できた。
澄香は目を閉じ、息を整えた。
精神統一を行う。
精神を集中させ、身体の中を流れる血流を感じる。
その流れは、心臓から動脈を通り、指先まで流れる。
血液の流れは速く、熱く感じる。
身体の中に溜まった熱を吐き出すように、澄香は大きく深呼吸をした。
目を開くと、澄香は、刀を先程なぞった軌跡通りに動かした。
刀が、空を切る音が道場に響く。
刀を振り終えた時、澄香は壁にかけられたセーラー服を見た。
スカーフは、風にそよぐように、ゆっくりと垂れ下がった。
澄香の顔が悔しさで歪む。
斬れなかった。
ある程度は、予測はしていたが、改めて現実を目の当たりにする。
一枚の布がぶら下げられているとしよう。
刀を真直に斬り下げた場合、刃先が布地に食い込めば、斬ることができる。
だが、真下から斬り上げた場合はどうなるか。
布は刃先に乗ると、その形にシワが寄って斬ることができないのだ。
もし、斬ることができるとすれば、布にシワができるよりも速く斬り上げることだ。
あの時を思い出す。
澄香は自分のスカーフが下から上へと斬られた時に、隼人の剣の凄まじさを理解していた。理解していながら甘んじて、そのことを追求しなかったが、改めて自分で行うことで、隼人の剣がどれほどのものだったのかを思い知ったのだ。
澄香は両手で刀を握った速度で斬ることができなかった。
それに対し、隼人は右腕一本の片腕で斬っていた。
澄香は、自分の腕が未熟であることは分かっていた。
・下段からのスカーフ斬り。
・20人斬り。
・一尺五寸の雁金斬り。
澄香は、その3つのどれも成し遂げる自信も、実践することもできなかった。
澄香は、膝の力が抜け、その場に座り込んだ。
刀が甲高い音を立てて、床を転がる。
20人斬りを終えた隼人は、首が血で汚れたことを理由に勝負の水入りを求めた。
澄香は、それを許さなかった。
だが、それは本当に本心だったのだろうか。
澄香は、隼人の実力に恐れを抱き、勝負を中断したかったのではないか。
そう考えてしまう。
見逃したのではない、見逃してもらったのは澄香の方だ。
自分が情けなく感じた。
実力差があろうとも、最後まで戦い抜くことが剣士としての誇りではなかったのだろうか。
そんなことを考えていた。
澄香には分からなかった。
なぜ、隼人が水入りの申し出をしたのか。
なぜ、自分を殺さずに立ち去ったのか。
分からない。
分からな過ぎて怖くなる。
「勝ちたい。私は、勝ちたい……」
澄香の目尻に涙が浮かぶ。
その涙の意味は、自分に対する不甲斐なさなのか、それとも隼人への恐怖なのか。
澄香自身にも分からなかった。
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