慕情/新見啓一郎の事件簿より

麻生 凪

慕情

神奈川県警察本部

神奈川県を管轄区域とした54の警察署を有する大規模警察本部であり、警察官、一般職員合わせ1万7千人を統括する。本部所在地は横浜市中区海岸通。庁舎は20階建て91.8mの高層ビルである。


「凄い眺めね。横浜港、みなとみらい、……富士山迄一望出来るのね」

県警本部20階地上83m。ガラス張りの展望ロビーからの眺望に、麻生あそう 真由理まゆりは息を呑んだ。

「素敵な職場じゃない、新見くん」


「景観を楽しんでいる余裕は無いよ、毎日が緊張の連続さ」


「通称、神奈川県警。本部長の階級は警視監。要職の階級にあっては警務部長が警視長。各署長の階級は、大規模署のうち12署が警視正、それら以外の各署は警視の者が就く。東京警視庁に次ぐ、警察及び公安のかなめね、無理ないか」


「やけに詳しいな、推理小説でも書いているのかい」


「ううん、違うわ。わたしが描きたいのは純文学だもの」

真由理は新見から目を逸らし、山下公園に視線を落とすと、

「異人さんに連れられて行っちゃった……か」

ぽそっと呟いた。

「新見くんは、ここから上を目指すのね」


「どうしても、行くのか」


「うん。……今夜でお別れ、かな」


「フランス語は大丈夫なのか」

(くだらないことを聞いてしまった……)


「ふふっ、専攻はフランス文学だったからね~、パリは憧れだったもの」

新見の心中を察し、真由理は明るく返した。


「ニューグランドだ、19時にディナーの予約も取ってある」


「えっ、そんな高級なところ」


「最後の夜だ」


「うん、わかった。時間まで元町でも散策してる……」



・・・・・


一ヶ月前……

静岡県警察 三島警察署刑事課


「署長室に呼ばれたって、主任は何をやらかしたんだ、神奈川に異動とは」


「いや、出向だよ。とは言えど、栄転のようなものだ。神奈川県警には居ても2年間くらいだろう」


「地方公務員が他県に、聞いたことがない」


「昇任試験に受かったようだ、ノンキャリア組では最短での警部補だ。警察庁も高く買っている」


「そこのふたり、驚く程のことではない。優秀な人材が全国に飛ぶのはよくある話だ。ふふっ、新見にいみ 啓一郎けいいちろう……。成るべくして成った、それだけのことさ」

川村 修は、あふれんばかりの笑みをたたえ、目を細めながら窓の外を眺めた。


・・・・・



ホテル・ニューグランド

開業昭和2年、横浜山下公園前に建つ、日本のホテル史と共に歩んできた由緒あるホテルである。


「美味しかったわ。あっそうだ、これ、さっき元町を歩いてたら見つけたの。新見くんに似合うと思うんだけど、サイズはいつもと一緒だから大丈夫。遅くなったけど栄転祝いということで、えへっ」

真由理は照れ隠しの舌を出しながら、紺色の紙袋を新見に手渡した。


「ミシンのロゴ、これは信濃屋じゃないか。ありがとう」


「FRAY社のシャツをモディファイドした白の長袖よ。イタリア好きだものね。ふふっ、ドルチェビータとか」


「万年筆、オーロ。覚えていたのかい」


「うん、忘れないよ」

(出逢い。初めて男の人にときめいたもの)

「あっそうだ、このあと山下公園を散歩しよ、水の守護神像を見てみたいのよ。噴水がライトアップされてるわ」


「あぁ、そうしよう」


真由理との出逢いは運命だったのかも知れない。思考の中に、常に彼女の存在がある、彼女の思念に導かれている。それは、もう一人の自分と言っても過言ではない。

 

もうこれで、終わりなのか……



♢ ♢ ♢ ♢


麻生 真由理……

文学部出身で、三島市立図書館の受付をしながら小説家を志していた彼女の洞察と聡明さに、憧れ以上の感情を抱いていた。

あの日から新見は、彼女の思念と照らし合わせることで、事件の「不条理な闇」ともいえる刹那を、平明に捉えることが出来るようになる。


大学卒業後警察学校を経て、派出所での勤務を1年勤めた新見は、2年目から静岡県警三島署の巡査長刑事として配属された。ノンキャリア組としては2年目で巡査長は異例である。巡査から巡査長への昇進は、大卒なら最短で巡査歴2年を経て指導力を有する者に対し、高卒なら10年目で自動的に与えられる。新見のそれは、派出所時代の功労が大きく影響していた。


沼津駅前派出所に勤務して半年後、駅近くの仲見世商店街の居酒屋で事件が起こった。

酒に酔った中年男性客が隣席の若いカップルとトラブルを起こし、持っていた登山ナイフでカップルの男性を威嚇した。110番を受けた派出所から急行すると、止めに入った店員の大腿部を刺し、出血を見て動転した男がナイフを他の客に向けている。

新見は瞬間的に「いかんっ!」と声を張り上げ中年男と客の間に入り、自らの左上腕を切りつけられながらも、ナイフを持った腕を掴み背負いで投げ倒した。倒れた男の片手に素早く手錠をかけ後ろ手にしてから、もう片方の手首にも手錠をし、男が身動き出来ないのを確認した後、刺された店員を仰向けにして大腿傷の状態を目視し、三和土にあった座布団を二つ折りにすると、止血の為、店員の膝の下に当てた。

一瞬の出来事に、客達は身動みじろぎ出来ず、呆然と立ち尽くしている。

「店員さんタオルとビニール袋を速く!」との呼び掛けに、ようやく周りが我に返った。

新見は中年男に睨みを利かせながら、負傷した店員の股下足のつけね部分をタオルできつく縛り、傷口に三つ折りにしたフェイスタオルを二枚重ねた後、感染防止の為、ビニール袋で自身の手を覆うと、タオルの上から傷口を押さえ、出血具合を確認しながら近くに居た客に座布団を要求し、足を更に高く上げた。他の客は不安な目で見守っている。

暫くして、救急車と所轄の刑事が現場に到着し、負傷者は処置後直ちに病院に搬送され、犯人は逮捕された。

自身の上腕の傷にタオルを当てながら肩口で頬の汗を拭った瞬間、客達は新見の背中に向かい一斉に拍手を贈った。

振り返り、その状況に唖然とする新見であったが、直ぐ様背筋を伸ばすと腰を折り、頭を深く下げた。

拍手は暫く鳴りやまなかった。

翌日の各社朝刊には事件の記事が一斉に載り、地元のメディアで大きく取り上げられ報道されると、新見は一躍『時の人』となった。


三島署入署後間もなく、市立図書館に来館し真由理と出逢った。話し掛けたのは彼女からだ。

捜査に関わる資料を何冊か選別しカウンターに行くと、「あなた新見さんでしょ、お巡りさんの」と、貸出し担当の女性から声を掛けられた。

眼鏡をかけた賢そうな顔立ちだが、表情は無く冷たい感じを受けた。歳は新見よりも上か。まばたきをせず、口角が微かに動くような話し方が印象的である。

「知っていますよ、ご活躍はネットニュースで読みました。沼津には立派な図書館があるのにここで借りるんですか」

新見がまだ一言も発していないのに話し続ける。

「あぁお住まいがこちらなの、今日は非番ですか。でも、スーツを着て……そうか、刑事さんになられたのね。三島署ですか」


「ぷっ……」

思わず吹き出してしまった。

「いや失礼。あなたこそ刑事のようだ」


新見の反応に満足したかのように真由理の表情から初めて笑みが零れた。そのギャップに、

な笑顔だ……」

つい口を滑らすと、

「写真だと堅い印象を受けたけど結構チャラいのか。ごめんなさい一方的に、麻生と言います」

真由理は嫌みの無い笑顔を向けた。


「あらまぁ真由理ちゃん、笑うのね。仕事中に笑うの初めて見た。お知り合いなの」

隣で事務をしていた中年女性が、目を丸くしてこちらを見つめている。


「あそう まゆりさん……と、仰るんですね」

笑いながら新見は、胸ポケットから万年筆を取り出すと、メモをとるジェスチャーをした。


「ドルチェビータですね。限定品のオーロですか、な色だ」


イタリア製のお気に入りのオレンジを褒められ、真由理の笑顔にくぎ付けになった。


♢ ♢ ♢ ♢



「水の守護神。朝も昼も、そして夜も……ずっと海を見つめているのね」


山下公園は1930年に関東大震災の復興事業として、震災の瓦礫などを使って海を埋め立てて開園したもので、日本で初めての臨海公園と言われる。噴水の中央に佇む像は、横浜の姉妹都市であるアメリカ、サンディエゴ市から寄贈された。


「なんだか、別世界に迷い込んだみたいね」

埠頭からの夜景に真由理は感嘆した。

9月下旬の夜風は心なしか肌寒く感じられたが、透き通った空気は、湾岸沿いに散りばめられた宝石をより一層輝かせた。


「三本のマッチ、一本ずつ擦る、夜のなかで。はじめのはきみの顔をくまなく見るため、つぎのはきみの目を見るため、最後のはきみのくちびるを見るため……。ふふっ、もらってきちゃった」


「それは、ニューグランドのブックマッチじゃないか」


「このフェニックスのロゴが可愛くて」

真由理はマッチを握りしめると胸に置き、

「残りのくらやみは今のすべてを想い出すため、きみを抱きしめながら」

と、ジャック・プレヴェールの続きの詩を詠い、新見に体をあずけた。


 Des milliers et des milliers d’années

 Ne sauraient suffire

 Pour dire

 La petite seconde d’éternité

 Où tu m’as embrassé

 Où je t’ai embrassée

 Un matin dans la lumière de l’hiver

 Au parc Montsouris à Paris

 À Paris

 Sur la terre

 La terre qui est un astre.


 『 Le Jardin (庭)』

  ジャック・プレヴェール……


「ん、フランス語は苦手なんだ。なんて意味だい」


「何千年でも、何万年でも、足りやしないだろう、あのほんの一瞬の永遠を語るためには。きみが僕にキスをして、僕がきみにキスをした、あの時 冬の光あふれる朝、パリのモンスーリ公園で。パリで、この地球上で。この地球、それは宇宙の一つの星……。この詩もプレヴェールの作品よ」


「ジャック・プレヴェールか、『枯葉』くらいしか知らないが。そうだ、元町のスリーマティーニにでも行くかい、雰囲気がいい。ここのドライマティーニは格別だ、洒落たジャズを聴きながらカクテルでも……」


真由理は新見を見つめ、そっと両頬りょうほほてのひらを添えると、言葉を遮るかのように、情熱的にキスをした。



「……ホテルに、戻りたいな」



「あぁ、そうしよう」



―‐‐



囁き

声にならない聲

喉の奥で生まれる甘い呻き


……夜の夢こそまこと……



 夜明け……


カーテンから差し込む、優しげな朝陽に照らし出されるウェーブがかったつややかな髪。指を絡ませ、真由理の安らかな寝顔を見つめながら、新見は時の儚さを憂いだ。


真由理は静かに目覚める。


「すまない、行かなければならない」


「…………」





「事件だ」




――――‐‐‐‐‐


賭け


「パリに行くわ……芸術の都で本を書いてみたいの。新見くんも居なくなっちゃうし」


「なにを、出向異動と言っても神奈川だ」


「ううん、もう決めたの。向こうに大学時代の友人が居るから、彼女を頼るつもり」


「……決めたのか」


「ごめんね、強くないのよ。会えなくて辛い日々を過ごすくらいならいっそ、空しさを諦められるくらい、遠い方がいい」


「行かないでくれ、と言ったら」


「だめよ。新見くんはもっと上を目指さなきゃ、それが出来る人だから。それに、わたしにも夢がある。お互いにとって良いタイミングね」


絹のガウンを肩に羽織るとベッドから降り、ソファーにゆっくりと腰を落とした。

ガウンのはためきがパヒュームを巻き込みながら、ひんやりと乾いた風を彼の胸もとに送り込む。


「行かないでくれ」


背中に、彼の声が切なく響いた。




最後の朝


「すまない、事件だ」


「…………」


「行かなくてはならない」


「えっ」

思わずシーツを掴んだ。


彼は、泣きそうな顔をしていた。


「うん、わかった……」

なんとか、笑顔で見送ることが出来た。


彼の背中は、ずっとふるえていた。



~麻生真由理 回想より~


――――‐‐‐‐‐




一週間後


「新見警部補さんですよね、ご苦労様です」

その日の業務を終え警察公社に着くと、常駐の管理職員に呼び止められた。

「今しがたEMS、エアメール速達が届きました。フランスのパリからです」


「パリから、ありがとうございます」

真由理からの手紙であった。

(速達とは、何かあったか)

新見はハサミを借りると、その場で封を開けた。


『EMSなんてと、驚いている顔が目に浮かぶわ。ふふっ、ごめんなさいね』


(おいっ……)


『あの日、ちゃんとお別れの言葉が言えなかったものだから……パリに着いて3日目、早速モンスーリ公園を訪れています。先ずはここに来たかったんだ。ジャック・プレヴェールが詩を詠んだ場所、覚えてる? ここで手紙を書いています。衝動買いしたウォーターマンでね』


(あぁ、覚えているとも)


『ここは、多様な種類の草木であふれ、様々な鳥たちが生息するとても豊かな公園です。今は午前10時、日光浴をする人々や散歩をする人であふれてる。湖や、昔使われていたというトンネル跡があったり、思わず都心にいることを忘れてしまう空間、空気も澄んでいて、ほんとうに気持がいいです。昨晩はパリの町をひとりで歩いてみたんだ。ルームメイトは、女性ひとりでは危ないよなんて止めたけど、歩いてみたかったの。素敵だったな、定番のシャンゼリゼ通りから凱旋門。直線に沿って並ぶ200本もの街路樹に、ほんのりイルミネーションが灯っていて、とても幻想的な雰囲気を作り上げていた。眺めながら歩いていると、時間が経つのを忘れてしまった……パリは想像以上に素晴らしいところです。思いきって来た甲斐がある、良いものが描けそうな気がします。ごめんなさい、ちょっと浮かれているかも(笑)』


(そうか、行って良かったか)


『新見くんも、新しい環境で頑張って下さいね。あなたならきっと素晴らしい警察官になれる筈。わたしにはわかります。そしてまた、何処かでお会い出来る日が来たら、その時は笑顔でお話ししましょ。沢山の思い出をありがとう。どうかお元気...』


(彼女は夢に向かい前進を始めた。お互いの為には、これが最善だったか)


「んっ……?」


新見はふと妙に、手紙の最後の文字に丸く滲む、薄いインクの跡が気になった。


「これは……」


咄嗟に公社の外に出ると、夕闇に包まれゆく空を仰いだ。


「真由理っ…………」




‐‐‐‐‐―――


なぜだろう

あの日からずっと

この歌が頭の中を流れてる


小学生のころ大好きだったアイドルの


そう

よく歌ってたな

詞の意味もわからずに




「難破船」作詞 加藤登紀子


 たかが恋なんて 忘れればいい

 泣きたいだけ 泣いたら

 目の前に違う愛が

 見えてくるかも知れないと

 そんな強がりを 言ってみせるのは

 あなたを忘れるため

 さびしすぎて 壊れそうなの

 わたしは愛の難破船


 折れた翼 広げたまま

 あなたの上に 落ちてゆきたい

 海の底へ 沈んだなら

 泣きたいだけ抱いてほしい


 あなたに会えない この町を

 今夜ひとり歩いた

 誰もかれも しらんぷりで

 無口なまま 通り過ぎる

 たかが恋人を 無くしただけで

 何もかもが消えたわ


 ひとりぼっち 誰もいない

 わたしは愛の難破船



~麻生真由理 手記より

 「パリ モンスーリ公園にて」~


―――‐‐‐‐‐



「…………まゆり」


西には、紺青の高い空を流れる鱗雲の狭間はざまから、ぼんやりとした光を放つ金星が顔を覗かせていた。




……了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

慕情/新見啓一郎の事件簿より 麻生 凪 @2951

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ