第2話 森の惨劇

 スリニマ大聖堂。


 女神ローザ様へ、神官ジュストが賛美歌を歌わせていただきます。


 僕は女神ローザ様のことを愛しているからこそ、神官の職に就きました。


 賛美歌は、優しく歌います。ローザ様の世界は、とても静かな世界なんです。




  木立に人影を見る。恐れることなかれ。人か獣か。


  女神の降り立つときにこそ。薔薇の花びら舞い落ちる。輝く黄金の髪をなびかせて。


  御足元には芽が二つ。男と女の二つの種子。


  やがて木々に果実が実るとき。木の実より人の子生まれ落ちん。


  女神は黄金の椅子に鎮座して。紅蓮の瞳で厄災のみ見つめ。


  異形の扉を封じ続ける。




 女神ローザ様は気さくな女神様であると感じますね。信じたい人は信じなさい。信じたくない人は信じなくてもけっこう。というようなおちゃめな女神様です。


 僕は博士号も取るほどの女神ローザ様ファンですけども、女神ローザ様のことを調べるほどに、僕は確信しているのです。


 女神ローザ様は、ツンデレであると。


 いや、失礼しました。


 えっと、賛美歌の次は僕が説教をするのが集会の習わしですけども、今日の話は熱が入りますよ。


 女神ローザ様のパンツの色を想像してしまって。


 では、いつも通り説法でも話しましょうか。はい、注目して下さいね。


 早い話が、ローザ教は、「いずれ訪れる厄災を女神ローザ様が黄金の椅子に座って見つめている限りは、防ぐことができているんですよ!」という、教えを守る会です。


 厄災とは異界の扉が開かれ、怪物がやってくること。


 魔界が閉じられて数百年。ビバ平和。


 しかし、女神ローザ様、ただお一人が未だに戦いを続けておられる。まるで人柱ではありませんか。


 大聖堂の木製の扉のきしむ音で、思考が破られました。


「に、逃げて下さい! 避難を!」神父の一人が閉めきった扉から駆け込んできました。


「そんなに慌ててどうしたのです?」


 彼は青い顔色で言います。


「聖女リア様が野犬に襲われております」


 聖女リア様は、生き神で女神ローザの妹。


 九歳で祈りの力を使えます。そう簡単に犬に噛みつかれたりはしません。


「リア様の身になにかあったら、僕はローザ様に祈るときに、どのような顔をすればいいのでしょう」


「ジュスト様お早く! 大の大人三人がかりでも手に負えない事態ですぞ」


 ですが、最悪の事態が脳裏をよぎりました。


 この目で確かめなければ。


 魔物がついに、この町にやってきてしまったのか。


 僕を呼んだ神父とともに大聖堂を出ます。


 泥道に血の跡が続いているのを見てしまいました。うわあ、失神しそうです。


 血ですよ? これはもう既に誰かが亡くなっているのかもしれない量です。


 僕は逃げ腰になるのを必死にこらえて、足を動かし続けました。 


 昼過ぎだというのに、獣道は夕闇のような薄暗さです。平和な森が、今日ばかりは口を開けて僕らを手招きしているように思えます。


「ジュスト様いました!」


 神父が木立の影で絹をさらしている人影を指差しました。


「リア様!」


 聖女リア様の長い銀髪に血が滲んでいます。青い瞳は木々の隙間から空を探しています。


 リア様が苦し気に息を吐くたびに、鮮血が首から噴き出します。え、いや、いやああ。血、血いいいいい!


「ジュストお兄ちゃん。わ、私、こ、怖い」


「あまり話さないで下さい」


 幼い聖女リア様でなかったら側頭していたかもしれません。僕は血が、血が、血があああ。苦手なんですよ。でも、お守りせねば。


 僕は自身の黒のローブを破きました。これで、リア様の首を止血します。


 リア様のすぐそばに、農夫が倒れています。彼らがぴくりとも動いていないことで、死を悟りました。


 木々のさざめきが、人の死を嘲笑っているかのようです。


 怖いです。僕も死にそうです。ですが、血を見ただけで死ぬわけにはいきません。


 僕がリア様を抱えると、神父が物おじした様子で言います。


「い、遺体の回収は諦めましょう。まだ、近くに奴がいるかもしれません」


 ほんとうに野犬なのでしょうか。傷口が大きすぎます。


「ぐあああああ」


 僕の真後ろで後輩の神父の声が跳ね上がりました。振り返ると、そこに神父の胴を食らいついた灰色の獣がいました。


 狼のような前かがみの姿勢。全身を覆う剛毛。体格は熊ほどもあります。


 神父の吐息が大きく吐き出され、胴が上下に裂けました。


 大腸が大きなミミズのごとく飛び出します。


 だめですだめです。怖い怖い怖い。一瞬、意識が飛びかけました。


 怪物の唸り声が、次の獲物は僕たちであることを告げています。


 足を動かすことだけを考え、走ります。


「ジュストお兄ちゃん、後ろ!」


 リア様の小さな悲鳴。


 背中に走った激痛は耐えがたいものでした。背中を裂かれました。


 血が出ました。肉がえぐれました。


 僕は情けなく悲鳴を上げてリア様を抱えたまま転倒しました。


 前に、前に進んで逃げなければ。だけれど、僕の意識は遠のいていきます。


「いやああああああ」


 リア様の悲痛な叫び声。僕が倒れたばっかりに! 


 僕は、這ってでもリア様の元へ向かいます。けれど、怪物はリア様の首に深々と噛みついています。さきほどの傷口の上からです。


 リア様の足が痙攣しているのが見てとれました。こときれる寸前、リア様は曇天を見上げます。リア様が空に祈っています。僕ではなく女神ローザ様に助けを求めています。


「リ、リア様」


 僕はなんで、幼い少女一人も救えないんだ! リア様の首は無残に裂けました。繊維質に伸び切った肉と、勢いよく飛び出した血。痛みなど測り知れません。


 目の前のけだものが僕を振り返って大きな足の背を踏みつけました。


「ぎああああ」


 情けない悲鳴です。僕は弱い人間でした。


 怪物が喉を鳴らします。


 僕はとんでもない罪人です。リア様をお救いすることができませんでした。だのに、僕は自分が殺されることを恐れました。


 死にたくない――。


 僕が四肢を縮こまらせていると、森の木々が風に揺れました。曇天から、かっと、射るような光が僕と怪物を差しました。


 これ以上、何が起きても恐れることはないはずです。だけれど、僕の心臓は早鐘を打ちつづけます。


 怪物が突然、どうっと身体を横たえて苦しみ悶え始めました。僕は得体のしれない恐怖に心臓をわしづかみにされます。


 光の中に裸足の女性が舞い降りたのです。


 腰まである長い金髪と、燃えるような赤い瞳。その瞳はぬれています。今しがた泣きはらしたかのような厚ぼったいまぶた。怪物は突然しゃべりました。


「お、おのれ女神め」


 怪物は立ち上がるなり跳ねるように走って森へ消えました。


 一瞬のできごとです。困惑する僕をしり目に女神と呼ばれた金髪の女性は、聖女リア様の傍らに座り込みます。後頭部をかき抱いて、眠りにつけずにいる彼女の目を指で閉じさせます。


「リア。ごめんなさい」


 リア様の銀髪の髪の上に女性の金髪が重なります。口づけでもしているように見える最後の別れは、とても荘厳に見えました。


「あ、あの。申し訳ございません」


 僕は羞恥心と、自己嫌悪で自身の顔を埋めたくなります。


「それ以上言わないで」


 ぴしゃりと跳ねのけられました。僕は、彼女を失望させてしまいました。


 僕は、やがて意識を失いました。おそらくこの方は女神。女神ローザ様を目にしたとたんに、気が緩んでしまいました。彼女の前で僕は醜態をさらしたのです。僕は、神官失格です……。

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