第24話 二年生、マリエラの受難はなくならない(9)
マリエラは恥ずかしさで視界に涙が滲んでいた。少し前までは魔物と対峙したときの恐怖で震えていたのに、今はもうヴァンの口の中の熱さとか、抱きしめられた感覚とか、そういうもので塗りつぶされている。
どうしてこうなった。
「俺ねぇ、結構怒ってたんだけど。そりゃ、マリエラは悪くないよ? 誰かを助けるためにさっと動けることはすごいし、盾になることもさ……特に今回は、あんなのが出ちゃどうしようもない。公爵家に生まれた責務感とかもあったんだろ。でもさ、ほんとに……死ぬとこだったんだよ、きみ」
「……」
「今回は本当に肝が冷えた。説教しようと思ってた。なのにさぁ、これなに? マリエラってエロの神さまにでも愛されてるの? こんなんもうこっちの出鼻くじかれるじゃん」
「えろのかみさま」
「相手が俺じゃなかったら、今頃どうなってんのか知らねーからな!」
「えっ……それをいま言うの」
「だいたいマリエラ、もっとギャアギャア喚いて拒絶しなよ危機感なさすぎじゃね? なんなのその涙目、煽ってんの? 羊みたいに震えてるとパクッと喰われて終わりですけど? いつもの女王様節だして睨みなよ」
「あ、相手がヴァンだからじゃん!」
マリエラが言い返すと、ヴァンがぎゅるんと振り向いた。獣のような目で睨まれる。怖い。ストレスをぶつけられるように怒られて、マリエラの何かがぶつんと決壊した。
「何でそんなに怒られなきゃいけないの!? し、死ぬかと思って、ほんとに怖かった。ヴァンがあのタイミングで助けに来てくれなかったら死んでた。ありがとう。そりゃさっきは恥ずかしいことになっちゃったけど、ヴァンには苦痛だったかもしれないけど、毒のせいだし、あ、温かくて、ヴァンがいるって、ちゃんと安心できるところにいるんだって……そう思ったのに」
「……」
「そりゃ……迷惑かもしんないけど」
ぼたぼたぼた、と水滴が落ちる。涙がとどめなく溢れてくる。
そのまま黙っていると、ヴァンが両手で顔を覆い、「あー」とか「うー」とか小さく唸った。
「ちがう。ごめん。別に、迷惑とかじゃない。迷惑だと思ったことは、ない」
「うん。……助けてくれて、ありがと」
「ちょっと、抱きしめてもいい?」
「うん」
マリエラはヴァンに引き寄せられ、ぎゅっと抱きしめられた。あたたかい。マリエラは体の力を抜いて身を預けた。ようやく安息地に辿り着いたようだった。
ヴァンもマリエラも、教師がくるまでずっとそうしていた。
でないとまだ、生きていると実感できなかった。
たぶんヴァンも。
○
クラゲの毒は三、四時間ほどで自然に抜けるだろうとの診断だった。マリエラはその間ベッドでぼんやり寝そべり、いつしか眠っていた。
目覚めたときには橙色の光が天井を反射しており、夕暮れ時になっていた。仕切られたカーテンの向こうから数名の声が聞こえる。シャッと開けると、ソフィー、ヴァン、フィリップと、ダニエルの四人がいた。
「マリエラ様! お加減はいかがですか?」
ソフィーがベッドにダイブする勢いで寄って来て、ひしと抱きしめられる。大丈夫よとソフィーの背を擦った。体はマリエラの指令通りに動いている、毒は抜けたようだ。
四人はマリエラの目覚めを待ってくれていたらしい。あれからどうなったかについても説明してくれた。
魔法実習はなくなり、生徒たちは体育館で球技大会をすることになったらしい。その間、引率の教師、超特急でやって来た王宮の魔法士たち、そしてヴァンで、海の調査に繰り出したようだ。
「結果はね、原因不明。単体の突然変異、およびその変異種のクラーケンによる群れ化した魔物クラゲ。なんかさぁ思い出すよね。一年のときに遭遇した毒妖花のこと」
毒妖花のあれはゲームのイベントだった。今回は? クラーケンなど出現したか?
(あ! クラゲの大群はあった)
ゲームでも今回と同じ臨海研修で、二日目の夕方に浜辺で遊んでいたら、巨大クラゲの大群が浅瀬にやってきて騒動が起こるのだ。一番好感度の高い相手と逃げた先の洞窟で、親密度アップのイベントがある。
(でもクラーケンなんて出なかった。……どうして)
マリエラがシナリオに介入していることへのエラーなのか? それとも、ゲームシナリオ軸とは違う未来線にきているのだろうか。
「クラーケンの体は王宮の魔法士たちが持ち帰って研究することになったよ。海はもう平素通りだった。海辺への立ち入り禁止は解除されたけど、まぁ、誰も行く気にはならないよね」
「そうなの。海はもう安全なのね」
頭がぐるぐるする。ゲーム本来のイベントはなくなっている。どうしてこうなったのかが分からない。
(そもそも、これはあのゲームの世界線ではない? 前世の記憶そのものが私の妄想だったりする?)
「マリエラ様? やっぱりどこか不調があるのでは?」
いつの間にかしかめ面をしていたようだ。ソフィーが心配してこちらを覗き込んでいる。
「少しふらついただけ。大丈夫よソフィーさん。……皆、無事で良かった」
(でも……そもそもゲームと私たちの人生は関係ない。私は私で、ソフィーたちと生きているのが今ある現実で、本物で、かけがえのない毎日なんだもの。だから絶対に、守りたい、だけ)
「無事で済まなかったのマリエラ様だけですからね!?」
「ソフィーさんも怒っているのね……」
「怒るとか心配とか色々なんです! マリエラ様はしっかりしているようで、案外危なっかしい!」
「もっと言ってやってよソフィーさん。俺が言っても聞かないもんこの人」
ヴァンがちくちくと刺してくる。フィリップとダニエルはニコニコと微笑み、こちらを見ているだけだ。
「だいたい日頃からマリエラ様は寛容すぎるところがあります!」などなど、マリエラはしばらくソフィーから説教された。
マリエラは大事をとって、夕食時も救護室で過ごした。変な時間から合流するのも面倒だと思ったからもある。
とうに陽は落ちて、今ごろは体育館でレクリエーションをしているはずだ。マリエラは救護室を抜けだし、海辺へ向かった。
夜はひどく雰囲気が違う。足下から飲み込まれそうなほど暗く静かな海は、怖くて、しかし引き寄せられる引力のような魅力がある。さざ波の向こうは気軽に踏み入れてよい領域でないと肌で分かる。あわいの境界に立たされているようだった。
幸いここは、近くに灯台もあれば浜辺沿いに魔法灯もあって明るく、そんなに怖くはない。
マリエラは裸足の足の甲で砂を掬い、さらさら落とす遊びをした。夜になると仄かに発光しているようにも見える、美しい白い砂である。
「病み上がりが何してんの」
「ヴァン、やっぱり来た」
足音も立てず、後ろにいたのはヴァンである。おおかた浮遊魔法で接近したのだろう。クラーケンのときもそうだったが、飛行魔法具もなく飛ぶというのは本来常人がなせる技ではない。
「一人でこんなとこ来るなんて、説教足りなかった?」
「もう安全なんでしょ?」
それに多分、もう魔物はやって来ない。
「ねぇヴァン。このチョーカーにさあ、何か仕込んでない?」
マリエラは肌身離さずつけている、ヴァンから貰ったチョーカーを引っ張った。今日、ヴァンが助けにきてくれたタイミングはあまりにも早かった。
「仕込んでる」
「やっぱり。どんなやつ?」
「マリエラが危機に直面したとき、俺に知らせるようにしてる。方角もなんとなく分かる。毒妖花に襲われたあと、こっそり付け足しといた」
やっぱりか、とマリエラは頷いた。一歩、二歩、と砂浜をゆっくり歩く。ヴァンは距離をあけ、同じペースで後ろをついてくる。
「……外さないでよ、それ」
「外さないよ。心配してくれてるんでしょ。ありがと」
「きみが素直だと調子狂うんだけど」
ぶすっとした、どこか物足りなさそうな声音にマリエラは笑った。
くるりと振り返り、ヴァンを待つ。腕一つぶんのところで立ち止まった彼の胸の中心に、トスッと握りこぶしを当てた。
「ヴァンになら、これくらい束縛されてもいいって言ってんの」
ヴァンはきょとんとした顔をして首を傾げた。
「なに。マリエラって俺に恋してんの?」
「……。ふふ。あはははははは!」
「……ふっ、くくっ、あははは!」
まずマリエラが耐えきれなくなって笑い、続いてヴァンも笑った。
「恋。恋かー。私がヴァンに恋。ねぇ、殿下ってやっぱりソフィーさんのことが好きなのかな?」
「さてね。まぁでも、たぶん、そうだろうね」
しばらくヴァンと二人で海岸沿いを散歩した。話し声の他には、ザザン……と寄せて返す波の音しか聞こえない。夜の海にゆらゆら包み込まれている心地がして、昏くて恐ろしかった海は、ほんの少し優しいものに変わった。
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