第23話 二年生、マリエラの受難はなくならない(8)

「マリエラ様後ろっ! ――〝炎よ、業炎よ、燃やし尽くせ!〟」


 ソフィーが傍に駆け寄ってくれ、クラスメイトを片側から支えつつ援護してくれる。ソフィーの火魔法がクラーケンの足の一本を焼いた。焼いたところからは再生できないようだが、クラーケンの足は無数にあり、本体はどんどん浅瀬に近づいてくる。


「マリエラ様っ、クラゲが!」


 追い打ちをかけるように、波打ち際に巨大なクラゲが押し寄せ、砂浜を埋め尽くそうとしている。クラゲの直径は一メートル程、透明の体にそれぞれ単色で星の模様が描かれている魔物だ。ずりずり近づいてきた一体から細長い触手が伸びてきてマリエラの足首に巻き付いた。注射を打たれたような衝撃の後、ビリリとした痛みが走る。


「ぐっ……! そ、ソフィーさん、ごめんねあとは頼んだ」

「マリエラ様!?」


 全身が痺れて力が入らない。毒だ。

(やばい!)

マリエラの体はべちゃりと砂浜に倒れた。ずるずると這い寄るクラゲの大群が眼下に迫り、クラーケンの白い足が体に巻き付く。拘束された体はぐいんと持ち上げられ、おぞましいクラーケンの目前に掲げられている。白と灰色の入り交じった体表はぬめぬめと光り、黒く濁ったクラーケンの瞳がマリエラを嬲るように見ていた。無数の白い足が海の中でとぐろを巻き、渦を作っている。

 時の流れが酷く遅く感じるなか、マリエラは悟った。

――死ぬ。


「〝黒い扉を抜けて、十三の階段をおりよう。七つの日を渡り、十二の月を越え、初めての新月が巡る――〟」


 死を目前にして、何故か頭は冴えていった。

 扱えるなかで最大の火力である、渾身の自爆魔法をしてやろう。痺れた舌で詠唱する。

(私は、シュベルト公爵家に連なる者)


「〝遠い向こうで火が燃えている。黒く焼き尽くす炎。対価に何を差しだそう――〟」


 クラーケンはさらに新たな足をマリエラに伸ばしてきた。

しかしそれは突然スパンと斬られた。マリエラを掴んでいた足もバラバラに崩壊する。

突然解放されたマリエラは高いところから落ちていく。

海に叩きつけられると覚悟したとき、誰かにふわりと抱き留められた。


「きみ、ほんとにさぁ……」


 ヴァンである。彼は空中に浮いていた。チッと小さく舌打ちして、クラーケンを見据える。

「なんでこんな天災級と遭遇すんのかね……。〝滅びよ〟」

 突如、クラーケンの体が燃え上がった。海の中にも関わらず、黒と青の炎で灼かれていく。

ヴァンはたった一言で天災級の魔物を屠っていた。

「す、ご……」


 クラーケンが断末魔の叫びを上げながら燃えていく。

 浜辺にはようやく教師も到着したようだ。クラゲの大群を退治、採取している。

 クラーケンはまもなく沈黙した。滅しきることはやめたようで、ヴァンは炎を引っ込めた。ぷかり、とクラーケンの体が海に浮かぶ。


「ありがとう。ほんとに、死ぬと、思っ」


 脅威が去り、マリエラの体はようやく時を取り戻したように震えた。目からぼろぼろと涙が零れ出てくる。もう止められなかった。


「……。はぁ」

 とぐろを巻く昏い炎のような瞳をしていたのに、ヴァンは急に脱力して溜め息をついた。

 ゆるゆると地上に降りて、マリエラを砂浜に立たせる。自分が羽織っていたパーカーをマリエラにかぶせ、「動ける?」と聞いてきた。

 マリエラは動こうとしたが、頭のてっぺんから足の先まで痺れて無理だった。


「む、むりみたい」

「そう」と返事したヴァンに横抱きに抱えられ、運ばれる。教師の横を通り、ヴァンが「救護室に連れていくから」と言った。

 ソフィーが涙ながら駆け寄ってきて、マリエラの手を握る。


「マリエラ様あああ」

「私は大丈夫。ソフィーさんは?」

「大丈夫ですううう」

 ソフィーの手も震えている。彼女も怖かったであろう。浜辺からクラーケンに攻撃魔法を打っていたのも、捕らわれていたところから見えていたのだ。マリエラを救おうと果敢に戦ってくれていた。


 ソフィーは教師たちと浜辺に残り、ヴァンはざくざくと砂を踏みしめて歩いた。重たい無言が続く。

宿舎の前には生徒たちが集まり、恐怖や安堵、不安といった表情をはりつけて海の方を見ていた。ぐったりした様子で運ばれているマリエラに気付き、痛ましいもののように見られる。呆然と立ち尽くす生徒に対し、ヴァンは「邪魔」とだけ言った。さっと道が開ける。


 救護室に着くと、マリエラは丸い診察椅子に座らされた。ヴァンが薬品棚を開けて薬を探してくれている。マリエラの脚は小さな裂傷が多々あった。

 かちゃかちゃと瓶と瓶が当たる音だけが室内に響く。ヴァンの静かな怒りが足下で凍っているようだった。クラーケンとは違う不安が渦巻き、かつ、クラゲの毒の影響か、マリエラの頭はふらふらとしていた。


「マリエラ、傷見せて……って、あ――。あのさ、言いにくいんだけど、水着の紐がほどけてると思う」


 ヴァンがそっと視線を逸らした。視線を下にやると、確かに上の水着がおかしいことになっている。背中側の紐が解け、布地が胸の膨らみに乗っかっているだけだった。紐は固結びしたはずなので、先ほどの戦闘で紐が切れたのだろう。


「ごっ、ごめん、今パーカーを――」


 マリエラはパーカーのファスナーを閉めようとした。両手を持ち上げる動作のはずが、体が立ち上がる。「あれっ?」続いて手指を動かそうとしたら、体が左側へと倒れていく。「うそ」と小さく呟くことしかできないマリエラを、ヴァンがぎょっとしながらこちらに手を伸ばした。一連の流れがスローモーションに見える。


 ダンッと床に体を打ち付ける音がした。くると思っていた痛みはなく、固い弾力のあるものを体の下に敷いていた。ヴァンがなんとか抱き留めてくれ、そのまま床に倒れたらしい。彼の首筋に額を埋めている。


「ごめん、ありがとう」

「なんでこうなるわけ?」

「私も分かんない……ごめん、すぐ退くから」


 両腕に力を入れて頭を持ち上げようとすると上半身を起こすことになり、ヴァンを襲っているような体勢になった。おかしいなと思いつつ、そのまま横にずれて立ち上がろうとすると体が前方に傾いでべちゃりとうつ伏せになる。

 胸をヴァンの顔に押し付けていた。


「……」

「ヒッ! ご、ごめん、なんで? 私、起き上がろうとしたのに!」


 マリエラはじたばたしながら起き上がろうと思うのに、体は上半身を左右に振り揺らすばかりである。


「……誘ってるわけじゃないよな?」

「何に誘うのよ!? 違う、体が思い通りに動いてくれない!」

「……分かった。さっきのクラゲの毒、脳の命令器官の神経をやられる毒なんだ。マリエラ、もう動くな――あむっ?」

「ひい!」

 ヴァンの口の中にマリエラの何かが入った。胸の先端あたりの何か。

「うあ、あ、あ……」


 ヴァンは動けず、マリエラもどうしたらいいのか分からず、お互い固まったまま数秒の沈黙が流れた。先に意識を取り戻したヴァンが、トントンと慎重にマリエラの腕を叩く。はっとしたマリエラは試行錯誤してどうにか自分の体を動かし、ヴァンの口の中から何かをずらすことに成功した。未だヴァンを下敷きにしているままではある。


「……もう俺が体を起こすよ」

 ヴァンがマリエラの体を片手で抱きしめ、腹筋を使って上半身を起こした。マリエラはヴァンの太腿の上を跨いで正面から抱きしめられている格好となる。

「巻き込まれ体質なのは知ってるけどさぁ、俺以外にもこういうことしてないだろーね!?」

「ししししてないしてないしてないです!」


 下手に自分が動かない方がいいとは分かっていたのに、羞恥に羞恥が重なってヴァンから離れようとした。なのに、逆にヴァンへと体はひっついた。


「ちっ違! 離れようとしたのに、なんで――――!?」

「俺が聞きたいわ! わざとやってないよね!? もうマジで勝手に動くな」

「ごごごごめんなさい!」


 ヴァンに両肩を掴まれ、密着していた上半身を離される。ヴァンは苦虫を噛み千切るような顔をして、右の人差し指を下から上へヒュンッと動かし、マリエラのパーカーのファスナーを魔法で閉めた。

 両脇に手を差し込まれ、立たせてくれる。そして横抱きに持ち上げられ、ベッドの上に下ろされる。ヴァンはマリエラに背を向けてベッドの縁に座った。


「はぁぁぁぁ……」

 心底疲れ切った声でヴァンに溜め息をつかれた。

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