第49話
場面が切り替わる。見覚えのある校門の前に僕は立っていた。あたり一面に舞う桜吹雪。僕が着ているのは、真新しくまだ体に馴染んでいない学ランだった。
(ここは加賀谷第二中?そして、この日は確か……)
周りを見渡すも人の気配は一切ないようだ……いや、一人だけいた。木の陰に隠れて気付かなかったが、僕の数メートル先で三つ編みの女の子が後ろ向きに立っていた。こちらを向いてほしくない……不吉な予感が靄のように彼女の背中に漂っていた。
「君は……」
女の子は答える代わりにクスクスと笑い、手を後ろに組みながらくるりとこちらを向いた。クモの糸のように絡みつく彼女の視線がこちらに向けられた。悪い予感は当たってしまった。
「飯山、なんでお前がここに?」
「なんでって……今日は入学式だよ?私たち、今日から中学生になるんじゃない」
やっぱり3年前か。確かこの日、ミツキは通学路で拾った漫画に夢中になって置いていったんだっけ。いや、でも……。
「でもその時俺たち初対面だったんだから、顔見知りみたいに話すのはおかしいだろ」
「それもそうだね」
飯山は実に楽しそうに笑った。図書室で見せてくれたのと同じ、彼女が他の同級生には決して見せないであろう表情。舞い落ちる桃色の花びら、薄い雲がちらほら浮かぶばかりの青空は、古風な三つ編みをした制服少女の背景としてよく馴染んでいた。当然ながら目の前の飯山は今よりもずっと幼く、無理に制服を着せられた小学生のようにしか見えない。その幼さと古風な佇まいは、大正時代の少女を被写体にした古写真を思い出させた。
「ヒナタ君。この日あなたがしてくれたこと、覚えている?」
「入学式で?俺がお前に?」
そういえば図書室の時もそんなことを言っていたような。申し訳ないが、全く記憶にないぞ。
「やっぱり思い出せないかな……」
「ごめん」
飯山は一瞬寂しそうな表情を浮かべ下を向いたかと思うと、おもむろに校門向かいの民家の下あたりを指差した。その人差し指は、どうやら民家の敷地内にあるイチョウの木のてっぺんあたりに、お弁当より小さいサイズのプラスチックの箱が引っ掛かっていたのだ。ああ、思い出した。確か白クマの可愛らしいイラストの動物が描かれていたな。
「あの筆箱さ、同級生たちに投げられたの。小学校で私をいじめていた女の子たちの仕業。あれ、お母さんからプレゼントされた大切なものなんだ」
「そうだったのか……」
「あいつら、それを知っていながらあんなことをしたんだよ」
飯山は下唇を噛みしめ体を震わせた。彼女が中学時代にいじめられていたなんて知らなかった。
「あいつら、筆箱を投げたあとなんて言ったと思う?中学になっても虐め続けてやるからなって。それでね、中2の時なんて……」
飯山は恐怖と不安がないまぜになった表情で俯き、沈黙していた。数十秒、彼女は大きく深呼吸をして僕ににっこりとほほ笑んだ。
「ううん、そんなことどうでもいいの。皆が見て見ぬふりをするか、クスクス笑ってバカにする中、君だけが周りを気にせずに味方になってくれたんだよ」
そうだ。晴れ舞台だというのに、たった一人、今にもべそをかきそうにイチョウのてっぺんを見つめていた女の子がいたから、助けてあげようと思ったんだっけ。
「君だけだったんだよ、ヒナタ君。私を助けてくれたのは」
僕は民家の敷地に勝手に入り込んで、急いで木に登って筆箱を取りに行ったな。そして、俯きっぱなしの丸眼鏡をかけた女の子にその筆箱を渡してにっこりとほほ笑んだんだっけ。きっと嬉しそうな表情を返してくれると思ったら、飯山は不安げにこちらを見返すばかりで一言も言葉を発しなかったな。あの時はばつが悪かったな。
「あれが中学時代の唯一の素敵な思い出だったの」
「あれが?」
当事者の僕ですらなかなか思い出せなかった、あんな些末な出来事が?僕は次に発するべき言葉を思いつけず、黙り込むしかなかった。
「だから、どうしてもお礼が言いたかったの。あの時は黙り込んでしまってごめんなさい。あとね……」
そういって彼女は制服の袖を少まくった。僕は彼女の左手を凝視せざるを得なかった。その真っ白くて細い腕には、どす黒い怨念の塊のような気配が湯気のように漂っていた。
「飯山……その左手は……」
「私、さっきの夢も見ていたんだよ。あれは君が幼稚園の頃?あの甘い香り、私もさっき嗅いだんだよ。これでまた一つお揃いだね」
ぞっとした。彼女は僕の過去の記憶まで覗き見しているのか?
「なんでお前が俺の夢まで知っているんだ?」
彼女はまたくすくすと笑った。
「私はあなたのことを何でも知っていたいの。ミツキさんも近くにいるでしょう」
「それがどうした?ミツキが俺と一緒にいたら何かおかしいか?」
「おかしいよ。自分の弟に恋をしている女なんて」
「……………………え?」
◆◆◆
目が覚めた時、まず目に映すだされた光景がよりにもよってミツキの寝顔だった。さらさらな前髪が無造作に彼女の顔にかかっており、不覚にも数十秒間その寝顔に見とれてしまった。我に返った僕は気まずくなり、慌てて彼女から視線をそらした。
◇◇◇
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