第48話

「二人とも、ほら見て。海だよ!」


 和沙が指さす先には、日光を宝石のように反射させる大海原、太平洋が広がっていた。その煌めきを大きな目一杯にキラキラと反射させたミツキは、バスの窓を全開にして小ぶりの頭を出し、太陽の輝きで漆を塗ったような光沢を放っている髪を思う存分風にはためかせた。


「うわぁ!海!綺麗ででっかくてあっおーいうっみー!」

「うるせえなあ、アホかお前」


僕は窓の先にある大海原を一緒に眺めるふりをしながら、バスの窓から差す日の光に照らされた和沙の顔をミツキにばれないようチラチラと見て……いかんいかん。僕は照れ隠しにミツキの小学生並みの語彙力を窘めた。


「ミツキ。お前、もう少し表現力を身につけたらどうなんだよ。最近の若者はボキャブラリーの貧困化が叫ばれて……」

「うるさいなー、ヒナタおっさんみたい」


 和沙は両手を口に当てながらふくれっ面のミツキをクスクス笑っている。


不思議な気分だ。僕は今まで味わったことのない、なんて形容すればいいのか分からないけれどいつまでも浸っていたい妙な感覚に浸っていた。


 ミツキのはしゃぎっぷりに、後ろの席に座っていた80代くらいの女性二人組が「元気ねえ」と言いながらクスクスと笑い合っていた。それは嫌味な嘲笑ではなく、娘や孫の可愛さに目を細めるような好意的な感情のように見えた。僕は心の中で深く安堵のため息をついた。


(どうやら迷惑じゃないみたいだな……年寄りばかりで助かった)


 歳不相応な無邪気さを見せる……いや、はっきり言って子供っぽいミツキなのだが、彼女は実は僕なんかよりも遥かに優秀な脳みその持ち主である。

僕は太平洋の潮風を胸いっぱい吸い込んでいる不肖・姉を横目でちらりと見た。


(碌に学校の授業を復習しないのに、中間・期末の順位だけは俺より僅かに下ってだけなのがなー)。


 なにせ彼女は中学時代、何に突き動かされたのか、ある日突然参考書を冊数限度いっぱい図書館で借りてきたかと思うと、寝食はしっかり取りながらも(ミツキが三度の飯と8時間の睡眠をすっぽかすことはあり得ない)それ以外の日常生活を忘れて読み耽り、数か月後にはネット経由で金属、金融、環境などあらゆるジャンルの翻訳をオンラインで請け負い始めた程なのだ(ただし、英会話はからきしできない)。


 おかげで小倉家は毎月5万程度の副収入を得ている。まあ、僕の家事を賃金に換算したら5万じゃきかないけど、ミツキもただの穀潰しじゃないってことは認めてやるか。


 訳文は的確だし、超特急で仕上げるためクライアントからの評判は上々だ。元々英語がそれなりに得意だった僕も手伝ってはいるものの、ミツキの集中力、英文の意図を正確に捉えた文章作成能力、日本語に対する鋭い感覚はまるで叶いそうにない。日常会話だとあれだけ舌足らずなのに、ほんっとーに不思議だ。


(それにしても、感情表現が下手クソだったあのミツキがこんなにはしゃぐとはね。それもこれも和沙のおかげだな)


 当の和沙は興奮を隠せないようで、ミツキと一緒に大はしゃぎをしていた。


「こんなに天気のいい日にバスから海を眺めるのって最高だよね。クラスメートが話しているインスタ映えってこういう絵かな」

「インスタ?インスタってなに?」

「えーっと、ほら。スマホのこのアイコンを押すと……」


(これが正しい高校生の青春ってやつだよな)


 いつもは大人びて見える和沙と子供っぽいミツキ、このコンビがじゃれ合っている姿は年齢相応の女子高生にないから不思議だ。平和な光景は常に安心と眠気をもたらすものである。


(あれ……バスの中が優しい光で満たされて……頭が落ちちまいそうだ……)


 僕はうつらうつらと、いつのまにか泥のようなまどろみに足を取られていたようだ。


◆◆◆

 またメカクシとセイザをさせられている。ハナにくすぐったいこのカオリもおんなじだ。きっとマエとおなじばしょなんだ。


「ヒナタくん、左腕に何か感じた?」


 オンナのヒトがボクにそうたずねた。ナマエはなんていったっけ?やさしいコエのオネエさん、でもカオもナマエもおもいだせない。


「ううん、なにもカンじないよ。ねえ、いつまでつづくの?もうアシがしびれてきちゃったよ」

「もう少しだけよ。ほら、じっとしていないと駄目じゃない。この前みたいに腕中が火傷みたいになってもいいの?」

「こんな幼い子に……正気ですか?」


 こんどはオトコのヒトのこえ。オンナのヒトにおこっているみたいだ。でも、オンナのヒトもオトコにおこりかえした。


「甘ったれないで。これは……抑止……だからあの…………あのまま閉じ込めて…………!…………」


 ひだりうでがじんじん。オンナのヒトのこえがきこえたり、きこえなかったり。このまえみたいにまたアタマがぼんやりしてきた。こんなにいいカオリなのに、なんでこんなにカナシいしフアンな、ヘンなキブンになるんだろう。そして、あたまのなかがマックラヤミでいっぱいになって、そのあとのことはなんにもおぼえていないんだ。


◇◇◇

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