第29話

 諸々の下準備が全部終わった。しっかし天気予報はずっと晴れマークだったけど、今日の夜辺りには雨が降るかもしれないな。普段なら絶対に手伝わないミツキが、今日は慣れないながらも料理を手伝ってくれたのだ。あのミツキが、いつも人が家事をしている前で煎餅を喰いながら文句を垂れるだけのミツキが、コミュ障でわがままで食い意地が張ってて引きこもり気質で……もうここらへんでやめておこう。


「ミツキ、晩飯までおやつを食べちゃ駄目だぞ」


 顔をタオルで覆ったままお腹を出しっぱなしで床に寝転んでいるミツキが手をひらひらさせている。起き上がる気力がない程疲れているようだ。毎日家事をこなす僕の苦労を少しでも分かってくれただろうか。


「まったくだらしねえなあ。今から来るのは良家のお嬢様だぞ」


 良家のお嬢様という言葉を口にした瞬間、目の前の手料理が急にみすぼらしく見えてきた。溝口によれば、鳳凰の寮生たちには夜食に八百善ばりのお茶漬けが振舞われるらしい。安さだけが取り柄のスーパー「ロヂアール」の材料で作った貧乏くさい小倉家の料理がお嬢様の口に合うのだろうか。口にした瞬間顔をしかめられた日には立ち直れそうにない。

 鬱々とそんなことばかり考えていたらチャイムが鳴った。僕が反応する間もなくミツキが顔に覆ったタオルをはぎ取り、立ち上があるや玄関まで忍者のように一瞬で移動し、警戒するように恐る恐るドアを開け、半分顔を出した。僕もエプロン姿で慌てて玄関まで駆けて行った。


「かずち!」


 ミツキはそう言うなり勢いよくドアを開けると、目の前には白のカットソーにデニムのロングスカートというシンプルな出で立ちの和沙が立っていた。彼女は両手を体の前で重ね、深々とお辞儀をした。


「みっちゃん、ヒナタ君。今日は宜しくお願い致します」


 その楚々とした立ち振る舞いに口を半開きにするミツキ。やはり北高のじゃりんこ共とは全然違う……。僕も和沙の礼儀正しさに襟が正されてしまった。よし、ここはひとつ不束者ふつつかものの姉に手本を見せてやろう。


「こちらこそ、大したおもてなしもできませんがごゆっくりどうぞ」

「かずち!かずち!早く上がりなよ!」


 45度に体を傾けたままの僕を無視し、ミツキは目を爛々と輝かせながら和沙の右手を握った。ミツキのバカ。当の和沙は顎に左手を当てながらミツキの全身を嘗め回すようにじろじろと見始めた。ミツキは怯えているかのような照れているかのようなよく分からない表情で俯いてしまった。


「な、なに?」

「やっぱりだ、穴が開いている!」

「へ?」

「左の腕を見てごらんなさい。ほら、ここも、こんなところも」

「う、ううう」


 動ずるミツキにもお構いなしに和沙は言った。


「ちょっと爪も見せなさい、随分伸びているじゃない。年頃の女の子がこれじゃよくないよ。あら、綺麗な髪をしているわねえ、ほれぼれしちゃう。ストレートパーマをかけているの?」


 遠慮なくミツキの体を左手で触りまくる和沙。ミツキは泣き顔と恥じらいが混ざった表情で言い訳するように言った。


「な、な、何もしていない……」

「生まれつきこんなにサラサラつやつやなの?羨ましいわあ。でもね、身だしなみにもっと気を使わなくちゃ。だってみっちゃん綺麗なんだもの」

「か、か、かずちのほうが綺麗だよ……」


 ミツキは真っ赤な顔を俯かせながらそう言った。今までラブレターを貰っても何の関心も示さなかったくせに。和沙は傍らに置いてあった馬鹿でかいスポーツバッグの中身を空けた。


「これ中学時代に着ていた服。ほとんど袖を通していないものもあるから状態は悪くないと思うんだ。ほら、これなんか似合うと思う」


 それは首元に長いリボンのついた、アンズ色がキュートなレトロワンピースだった。


「よかったら着てみて」


 ミツキはこくんと頷き、服を手に自分の部屋に引っ込んだ。


「悪いな」


 僕は彼女の好意に甘えることにした。いつもロヂアール2階で1,000円もしない服ばかり買っていたミツキ。彼女は「よく分からないけど怖い」というよく分からない理由で、決して服屋に入ろうとしないのだ。


「いいのいいの、身長が伸びてもう着れないから処分しようと思っていたところなの。みっちゃんにならぴったりかと思ってさ」

「お茶でも飲んで待ってて。俺も晩飯の準備をするよ。下準備は終わっているけど米を研ぎ忘れちゃって。浸水時間も併せてあと2時間くらいかかるけど」


 和沙はふっと小さな笑みを浮かべた。その極々慎ましい笑みに、僕は……危うく恋に落ちるところだった。


「そのことなんだけど、私も手伝っていいかな?」

「ええ?和沙はお客様じゃないか」


 僕は動揺を悟られまいとして努めて冷静に話そうとしたため、機械のような抑揚のない口調になってしまった。


「お客様じゃなくて友達でしょ、それにみんなで作業したほうが楽しいと思うの」

「でも……」


 そう言いかけた時、ミツキが階段を降りる音が聞こえてきたので僕らは台所から廊下に出た。そこには……本物のプリンセスがいた。


「う、うわあああああ、か、可愛い!」


 和沙が口に両手を当てながら感嘆の声を上げた。


「は、恥ずかしい……」


 ミツキは顔を真っ赤にして視線を宙に泳がせている。僕も同じく顔を真っ赤にして視線を宙に泳がせてしまった。おいおい、ヤバいくらいにかわいいぞ。僕は危うく姉に対しても恋に落ちそうになった。いかんいかん。


「さ、さて、飯を作ろうかな。和沙、やっぱり俺一人でやるよ。二人とも服を汚しちゃまずいからゆっくりしててくれ」

「エプロンをつければ大丈夫だよ。結構料理が得意なんだ」


 ミツキもそれに乗っかった。


「私ジャージに着替える!みんなで一緒に作ろう!」

「分かった分かった。俺はサラダを作るから、和沙は刺身やみそ汁を頼む。ミツキ、米を研いでくれ。米4合に麦2合な。あとぬか漬けも切っといて」

「うん!」

「とぎ汁は空いているペットボトルに入れといて」


 和沙が嬉しそうにパンと手を叩いた。


「うちのひいおばあさんと同じだね。とぎ汁を洗顔や洗髪に使っているのよ。もう90歳だけどお肌もつやつやで髪もだいぶ黒いんだよ」

「うちは経済的理由。使えるもんは全部使って余計な出費を抑えているんだ」

「ミツキちゃん、ほっぺた艶々だものねえ」


 手もつやっつやなミツキがぬか床を掻きまわしながら言った。


「私のぬか漬け、楽しみにしてね!」

「こいつはぬか漬けだけはプロ級なんだ。ああ、出汁は冷蔵庫の冷水筒に入ってる」

「分かった」


 和沙は勝手知ったるように、冷蔵庫の水筒や食材を手際よく調理スペースに用意していった。彼女はまな板の上で大根の皮を剥き始めたが、剥いた皮は透けて見えるほど薄かった。料理が得意というのは本当のようだ。


「すげーな、板前かよ」

「かずち、上手!」


 和沙は得意げに笑った。なんだか僕まで楽しくなってきた。思えばずっとミツキと二人きりで、他人とこんな風に交流するのは初めてだったのだ。


◇◇◇


 2時間後、ようやく晩飯の用意ができた。僕がまだテーブルに料理を並べている最中、待ちかねたミツキがいつものように箸を伸ばそうとした。


「ミツキ、まずは頂きますだろ」


 ミツキは一瞬頬を膨らまし、当てつけのように仰々しく目を瞑って両手を合わせた。


「いっただっきまーす!」

「小学生か、お前は」


 和沙はこの光景を見てくすくすと笑った。


「二人とも兄弟というよりは親子みたいだねえ」

「こんな手のかかる子供は要らねーよ」

「なんだよ、バーカ」


 両目をキュッとつぶりながら舌を出すミツキ。和沙は手を叩きながら大笑いした。


「あははは!こんなに楽しいごはんって初めてかも」

「そうなの?」

「うん、両親にはどこか緊張しちゃって……姉さんとは唯一フランクに接することができるんだけど、もう結婚して家を出ちゃうし」

「じゃあさ、ずっとうちに居ればいいじゃん!」


 ミツキは身を乗り出してそう言ったため、味噌汁が少しこぼれてしまった。本当に和沙のことが好きなんだな。


「まーたお前は……和沙には和沙の生活があるっつーの」

「ふふふ、ありがとうみっちゃん。夏休みはずっと一緒に遊ぼうね」


 それにしても二人は本当に良く食べる。ミツキは相変わらず、和沙もミツキに負けないくらいの勢いで食べた。ここまで気持ちよく食べてもらえると作った甲斐があるというものだ。


「おーいミツキ、そんなにフライばっかり食べたら後で胃がもたれるぞ」

「大丈夫、私胃がもたれたことないから」

「ヒナタ君、本当に料理得意なんだねえ。このタルタルソースどうやって作るの?」

「これはロヂアールっにしかないポーランド産のピクルスを……」


 まるで家族が一人増えたようだった、それも飛びきり優しくて、思いやりがあって、片時も離れたくないと思わせる大切な家族が。ミツキの言う通り、このまま和沙にずっと居てもらえればいいな。和沙が優しい姉で、僕が可愛げのない弟、ミツキは手のかかる末の妹といったところか、。良い組み合わせだと思う。食事中、楽しそうにはしゃぎ笑うミツキを見ながらずっとそんなことを考えていた。

 出会ってからたった2日目だけど、僕は和沙という人間に強く惹かれていた。三田に大見得を切ったものの、和沙を100%救える保証なんてどこにもない。でも彼女を救えなければ、一体この仕事に、僕らの存在意義に何の意味があるのだろう。ミツキのためだけじゃない、僕はこの暖かい絆を失いたくなかった。


◇◇◇


「もうお腹いっぱいで動けない。ヒナタ、洗い物しといて!」

「ごめん、ヒナタ君。お願い……」


 食べ過ぎたミツキと和沙は、食後だらしない格好でソファに寝そべっていた。


「せめて自分の食器くらい下げろってんだよ.……」


 僕はぶつくさ言いながら洗い物を始めた。どうやら家政婦の役回りが僕の運命のようだ。今回の報酬で絶対に食洗機を買ってやる。


「ヒナタはね、いっつも私の面倒を看てくれるんだよ」

「ふふふ。ヒナタくん、きっといいお父さんになると思うよ」


 顔を赤くした僕は、洗い物に目を向けながら照れ隠しにこう言った。


「ま、まあ、ミツキが手のかかる子供みたいなもんだからな」


 ミツキが膨れた腹に手を当てながらよろよろ立ち上がり、棚から何やら分厚いものを取り出した。


「ねえねえ、面白いもんがあるよ」

「え?これアルバム?」


 何?アルバムだと?僕は洗い物の手を止めて思わず後ろを振り返った。


「ヒナタの小さい頃の写真!」

「うわー、かわいい。女の子みたい!」

「でしょー」

「おい、ストップストップ!恥ずかしいから見ないで!」


 僕の制止も虚しく二人はアルバムをめくり続けた。ぎゃー、とか、アハハとか能天気な声が耳に届く。手伝いもせずにこいつらときたら……。


「あれ、この女の子もよく一緒に映っているけど。お姉さん?」

「これはね、お母さん」


 和沙は数秒無言でフリーズし、目を擦った後にもう一度写真を見た。


「これが、二人のお母さん?」

「そう、ヒナタと瓜二つでしょ」

「本当にそっくり……でも随分若いね。若過ぎるというか」

「お母さんはね、17歳のときに私たちを産んでくれたの」

「17歳……へえ~」


 改めて母さんの写真をまじまじと眺める和沙。母さんが未だ17歳のままという事実を彼女には知る由もない。


「ちょっと怖いけど悪い人じゃないよ」

「そうなんだ、今は別居されてるんだっけ」

「そうそう、今は仕事で海外に単身赴任中なんだよな~」


 僕は半笑いを浮かべながら無理やり胡麻化した。


「そ、そっか。あ~、この写真可愛い!これみっちゃんの小学生時代?」


 空気を読んだ和沙がうまく話題を切り替えてくれた。危ない危ない、母さんの話は特安でもトップシークレットだからな。


◇◇◇


 深夜になっても隣の部屋で女子会は続いていた。ミツキと和沙は何をそんなに話すことがあるのか不思議になるほど喋りまくっている。でも2人の声は不思議と気持ちが落ち着くなあ。夢にまで見た、友達とじゃれ合うミツキの絶えない笑い声はどんな子守よりも心地よく、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。

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