第26話

 私は夢心地だった。いいえ、一瞬の儚い夢でも構わない。この美しい夢の中では、あのケダモノも、私たちの家族を滅茶苦茶にしたあの悪魔も、忌々しいミツキも消えてくれるのだ。そして……大好きなヒナタ君も私に振り向いてくれる。私はあの女性がお手洗いから1秒でも早く戻ってこないかとそわそわしていた。すると、私の甘いひと時を邪魔するように若いウェイターの男が話しかけてきた。


「あの、大丈夫?」


 私がコーヒーショップを利用する時によくシフトに入っているこのウェイターは、おそらく大学生だろう。


「大丈夫って?」

「だって君泣いてたじゃん。助けてくれーってさ。あの人に何か言われたの?」


 男は秘密を打ち明けるかのようにヒソヒソと話した。若者がこぞってしているようなツーブロックの髪型。安っぽいピアス。軽薄で意思の弱そうな顔付き。つまらない、価値のない男にしか見えない。そういえば私が店にいるたびにちらちらとこちらを見てきたな。


「あなたには関係ないですよね?」

「いや、誤解して欲しくないんだ。下心があるわけじゃなくてさ」


 男はやたらときょろきょろ周りを見渡した。


「いつもこの店で寂しそうに本を読んでいたよね。何か問題を抱えているんじゃないかとずっと気になってて」


 寂しい?お前の空っぽの頭で何がわかる?私の苦しみの何が分かる?


「俺の彼女も似たような感じでさ。よかったら相談に乗るよ。いつもこの店を利用してくれるし」


 何を言っているの?この店を利用しているからってお前に感謝される筋合いはない。訳の分からない憎しみが沸き、抑えが効かなくなってきた。


「あなたにこの子が救えるの?」


 ウェイターの男がはっとして後ろを振り返ると、あの女性が腕組みをしながら立っていた。私のメシア。


「ああ、さっきの……」

「私はこの子の保護者みたいなものよ。それはそうと、中途半端な気持ちで関わられたらこの子にとっても迷惑よ」

「中途半端な気持ちじゃない、俺は本当にこの子が心配なんです」


 男は可哀そうな少女を救い出すヒーロー願望むき出しの物語に酔っているようだった。私は少し前に鑑賞した邦画を思い出した。そう言えばあの主演男優のわざとらしい演技もこんな風だったな。


「そう」


 女性はニッコリと笑い、白黒時代の映画女優のような優雅な所作で椅子に座った。


「あなた、優しいのね」

「そんなことないっすよ」


 男は首の裏を掻きながら照れ笑いをした。ヘラヘラとした芯のない笑顔。こいつは平気で人を裏切るタイプだ。


「でも"救える"って?」

「あなたの言う通り、この子はちょっとした問題を抱えているの。そうだ。あなた、この子のお友達になってくれない?」


 急に何を言い出すのだろう。私は抗議しようとしたが、半分立ち上がったところでまたもや右手の平で制された。


「いいから」


 女性は男の方を向き、またニッコリと笑った。


「これからいろいろとお願いできる?」

「おー、いいっすよ。ねえ、ライン交換しちゃう?」


 男は私にスマートフォンのQRコードを見せてきた。すると女性がスマートフォンの上にタバコ箱くらいの大きさの紙を一枚置いた。


「まだ早いわ。これ私の名刺、この子に関わる場合はまず私を通してね」

「え?ああ……」

「そんなに焦らなくても、仲良くなればこの子から教えてくれるわよ」


 そして女性は私だけに聞こえるようにボソリと言った。


「教えちゃ駄目よ……」


 男はそんなことも知らずに能天気に私に話しかけてきた。


「俺地元のNPOに参加しててさ、フェスとかイベントとか加賀谷の街おこしを手伝っているんだよね。君みたいな境遇の女の子もいっぱいいてさ。みんなで旅行に行ったりするんだけど……」


 ウェイターの男がべらべら喋っている最中、他の客が注文のために彼を呼んだ。


「すみません、注文を取りに行かないと」

「私たちはもう行かなきゃ。また二人で利用させてもらうわね」

「は、はい」


 ウェイターは小走りで他の客の元へと向かった。女性は残りのコーヒーを飲み干して私の方を向いた。


「言いたいことは分かる。でもね、ああいう下心でいっぱいな偽善者はいろいろと役に立つわ」

「は、はい」


 菩薩のような表情でそう言うのでこちらも混乱してしまう。


「じゃあ行きましょうか」


 私たちは店に面した繁華街の大通りに出た。相変わらず凄い日射し、凄い人混みだ。炎天下の中、この人たちは何の用事があってこんなに忙しなく動き回っているのだろう。この不思議な女性はいつの間にかサングラスを掛けており、この人混みから守ってくれるかのように私の肩に手を回し、そのまま日射しを遮る街路樹の下までエスコートしてくれた。そういえば肝心なことを聞き忘れていたな。


「あの、お名前を教えていただけますか?私のことを知っているようですけど……」


 この人は答える代わりに、ウェイターに渡したものと同じ名刺を私に渡した。


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株式会社グロス・リビエ

代表取締役

オドレン 文香

〒〇〇〇-××××

加賀谷市神田7丁目21番地9

横峯ビル

Mobile:〇〇〇-×××-△△△△△

E-mail:Odren-grosse-rivière@×××salut.com

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「すごいすごい、社長じゃないですか!」

「まだ設立して四半世紀も経ってないけど、おかげ様で何とか続けられているの。怪しい会社じゃないわよ、手広くやっているけど堅気の仕事しか扱っていないから」

「どんなお仕事なんですか?」

「運送、コンビニ経営、飲食店、株式投資。でも一番の収益は不動産ね」

「すごいなあ。創業したのもあなたなんですか?」

「そうよ。実はね、私中卒なの」

「えっ?うそ。それで社長なんですか?すごいすごい!」

「義務教育を終えたあと、家を出て自分一人の力で生き抜いてみせた。私が自分の人生を変えたのも瑞樹ちゃんと同じくらいの年齢だったのよ」

「すごい、かっこいい!」


 私は馬鹿の一つ覚えみたいにすごいという単語を連発していた。目の前の自立した大人の女性に圧倒されっ放しだった。


「オドレンって、失礼ですけどハーフの方ですか?」

「ハーフに見える?亡くなった旦那の姓なの。これからは文香って呼んでね」

「でもオドレンってどこかで聞いたような……違っていたらごめんなさい。同じ加賀谷市内だし、もしかしてオドレン美幸さんのお知り合いですか?」

「ええ、美幸は私の娘よ」

 

 日本人の母親って文香さんのことだったんだ。そういえば週刊誌に実業家って書いてあったもの。


「じゃあ元旦那さんって、ランベール・オドレン……」


 ランベール・オドレン。十数年前に若干54歳で死去した世界的映画スターだ。もともと二枚目役者として売り出されたこのフランス人俳優の真価が発揮され始めたのは、社会の最下層で苦しむ人々や病める魂を宿したアウトサイダーたちを演じた頃からだった。アル中、詐欺師、新興宗教の教祖、そして……実娘の肉体と魂を殺した父親の役。そう、彼が監督・主演した「奇蹟を抱く者」は私にとってオールタイムベストなのだ。世界への憎悪を滾らせながらも神の存在を胸に感じ続けた憐れな主人公は、実娘を凌辱し彼女の頭を打ちぬいた後ですら人の子の救済を信じて止まなかった。私はこの全編フランス語の難解な映画を台詞をそらで言えるほど何度も何度も見返したのだ(極端に台詞の少ない作品ではあったのだが)。


「誰にも言っちゃ駄目よ。私は静かな生活を望んでいるんだから」

「は、はい……でも鳳凰が誇るカリスマのお母さんだなんて!」

「そうね……」


 私は文香さんが一瞬見せた悲しそうな顔を見逃さなかった。これ以上立ち入ってはいけない気した。


「ああ、そうそう……」


 そう言ってずっしりとした封筒を鞄から取り出し、私に渡した。少し開けてみると、分厚い壱萬円の札束が入っていた。どう見ても5cm以上ある。一体何がどうなっているの?


「あの、こんなもの頂けません」

「いいから、私にとってははした金よ。当座はこれで凌ぎなさい、足りなくなったら遠慮せずに言ってね」

「は、はい」


 何もかもが現実離れしている。なぜこの人が私のことを知っているのか、なぜ親身になって助けてくれるのか、分からないことだらけだ。でも私は羊のように文香さんを信じればいい。この人はメシアなんだから。


「じゃあ、行きましょうか」

「え?行くってどこに?」

「あなたが今日泊まるホテルによ。別に男と引き合わせたりしないから安心してね。あなた一人が泊まるのよ」

「でも……」

「家には帰りたくないでしょ?」


 またケダモノの顔が頭によぎった。私が体を震わせていると、文香さんが優しくハグしてくれた。


「もう大丈夫よ。いい?まずはお父さんを殺しましょう」


 あのケダモノを殺す?願ったり叶ったりだ。すぐには殺さない、何時間もかけて、うんと苦しめた後に殺してやる。その光景を想像し、私の心の中は下品でおぞましい悦びで満たされた。すると文香さんが私の体に手を回した。


「あなたは素敵な女の子、きっと何が起きても大丈夫。何にも怖くない……」


 彼女の温もりは私のかちかちに固まった憎しみをいとも簡単に溶かしてしまった。文香さんは商店街の歩道で人目も憚らずに、私を抱えながらチークダンスを踊るようにゆっくりと体を動かし始めた。私もぎこちなく文香さんの動きに合わせた。


 周囲からクスクスと笑い声が聞こえてきたが、私の中では静かで穏やかな波が打ち寄せていた。文香さんの手は私の腰と頭をゆっくりと撫でてくれた。なぜだか親子3人で笑い合いながら暮らしていた頃を思い出した。いつも私のことを一番に考えてくれた、暖かくて優しくて大好きだったお母さん。壊れてしまう前の、朗らかで頼りがいのあったお父さん。あの悪魔のような男が私たちの人生に割り込んで、家族が崩壊してしまう前の幸せな日々。私は声を押し殺して彼女の胸の中で泣き続けた。


「あなたは肩肘を貼って、たった独りでこのおぞましい世界とずっと対峙してきた。だから人の何倍も、何十倍も苦しまなくてはならなかった。不器用で、強情で、とても愛おしい子」

「はい……」

「もう苦しむのはお終い。私があなたを導いてあげる。私を信じてくれる?」

「信じます。文香さんは私にとって神様みたいなものだもの」

「ありがとう、でもあなたの神様はもういるじゃない」


 そう、私には神様がいる。その名前が出る度に、顔を思い出すたびに胸が苦しくなり、同時に愛おしい感情でいっぱいになる。彼は忘れているようだけど、私は中学校の入学式で彼がしてくれたことを絶対に忘れない。苦しくて死にたかったあの時、桜が満開の青空の下で、春風が吹くなかで、確かに私は世界から祝福されたんだ。何度も命を断とうと思う度にその思いでにすがって耐え続けた。彼が存在するこの世界で一緒に呼吸をしていたい、ただそれだけのために。 


「あなたはヒナタ君を解放しなくてはならない。倉木ミツキを亡き者にしてね」


 私はゆっくりと頷いた。そして、また体中が「クラキミツキヲコロス」のフレーズで満たされた。ミツキが憎いというよりは、それが崇高な使命のように感じられた。


「今日から忙しくなるわよ。可愛い服を着て、お洒落な髪型にして、いい香りの香水をつけて、今までの人生を取り戻すんだから」


 そう言って文香さんはウィンクをし、コインパーキングを指差した。その先にはレクサスのエンブレムが付いた車があった。


「さあ、一緒に乗りましょう」


 車には黒のタイトスカートの上に白いブラウスを着た、いかにも仕事のできそうな若い女性が運転席に乗っていた。車に近寄ると、その女性が車から降りて自らドアを開け、文香さんが後部座席に乗り込む際にはドアの縁に手を当てていた。そして私にも同じ対応をしてくれた。女性はエンジンをかけると、振り向いて、人懐っこい笑顔で私に言った。


「平井英恵はなえです。これからよろしくね」

「い、飯山瑞樹です、どうぞよろしくです……」


 私はスカートのすそをキュッと握り、まともに目を合わせずにそう言った。文香さんがフリスクを口に入れながら言った。


「英恵ちゃん、宮古ホテルまでお願い」

「がってん承知」


 宮古ホテルは市内随一の高級ホテルだが、もう私は何も驚かない。私はスマートフォンを開き、また待ち受け画面をじっと見た。ヒナタ君、待っててね。必ず君を迎えに行くよ。


◇◇◇

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