第25話
同級生には絶対に見られたくない。
一学期最後の日の放課後、私は学校から数キロ離れたこのコーヒーショップで一人本を読んでいた。明日から夏休みだというのに何の予定もない、したいこともない、何も考えたくない。私は酷い現実を頭から追い払うために、ただ本の世界に没頭する。
スマホがぶるぶると震え始め、相手の名前が目に入り胸が縮みあがる。あのケダモノからだ。大丈夫、落ち着いてやり過ごせばいい。私の唯一の安息の時を邪魔させるものか。12コール目でようやく電話が切れ、すぐに履歴を削除してホーム画面に戻す。
その待ち受け画像にはヘッドロックを掛けようとするミツキと、それに抵抗しようとするヒナタ君を捉えた瞬間が映し出され、私はいつものようにその写真を凝視する。ヒナタ君を見て、いつものように胸が苦しくなる……。同時に私はミツキを羨望と憎しみの目で睨みつける。大嫌いなのに、憎くて仕方がないのにミツキから目が離せない。なんて美しいんだろう。まるで絵本から抜け出したお姫様のようだ。相反した思いが頭の中をぐちゃぐちゃにする。
あの図書室での出来事を思い出さない日はない。ありったけの勇気を振り絞って告白したのに、断られた理由がよりによってミツキのためだなんて。みじめだ、みじめ。でもヒナタ君は、大好きなヒナタ君は告白されて嬉しかったと言ってくれたんだ。私にはそれだけで十分。この思い出さえあればこの先どんな辛いことにだって耐えていける……。私がスマートフォンを見つめていると、机の上に影が覆い被さった。
「この席いいかしら」
私が顔を上げると、そこには見知らぬ2人の男女が立っていた。
「今年は暑いわねえ」
「はあ……」
2人は私に何の断りもなく向かいの席に座った。ウェイターの若い男は私の知り合いだと思ったのか注意をすることもなく注文を取り始めた。
2人は私の訝し気な表情を気にすることなくコーヒーを注文した。あまりの馴れ馴れしさに不快になり席を立ち上がろうとすると、女が右手で制する仕草をした。
「飯山瑞樹ちゃん、あなたに用事があるからここに座ったのよ」
女は品の良い笑顔を浮かべながらそう言った。
「あの、どなたですか?なぜ私の名前を?」
女はその質問を無視した。
「華の女子高生が独りきりで本を読んでいるだなんて、ちょっと寂し過ぎやしないかしら。明日から夏休みでしょう?」
「ほっといてください」
大きなお世話だ。急に現れて、いきなり自分の状況にケチをつけ始めるなんて何様のつもりだ。
「さっきの待ち受け画面、もの凄い表情で見ていたわよね。私も女だから分かるわ。画面に映っていた小娘が憎くて仕方ないのよね」
この女は一部始終を盗み見していたのだ。私は目の前の女を睨みつけたが女はまるで意に介さない。
「私にも中学生の娘がいるの、だから他人事だとは思えないのよ。思春期の恋って辛いわよねえ」
私は改めてこの女の顔を見た。肌にはツヤとハリがあり、とても中学生の子持ちには見えない。女はストライプ柄のプリーツスカートに薄緑のシアーシャツといった品の良いファッションに身を包んでおり、ロエベの落ち着きがあるデザインのバッグもよく似合っていた。仄かに香る優しいフローラルは心地よく、私はこの富と品性を身にまとった素敵な女性に不覚にも見惚れてしまった。
男は真逆だった。30代と言われればそう見えなくもないが、50代と言われても納得してしまいそうだ。大柄な逞しい体つきと彫の深い顔立ちは魅力的だが、穴の開いたジーンズに色落ちした黒い無地のTシャツ、変色したスニーカーという身なりは清潔感があるとは言い難い。無精ひげは手入れをしているようには見えず、白髪がちらほらと混じる無造作に伸ばしたロングヘアは後ろで雑にまとめられている。アーティストというよりはホームレスのほうがしっくりくる。これほど釣りあっていない2人組も珍しい。
男は腕組みをしながら、感情というものを根こそぎ抜いたような大きな目で穴が開くほど私を見つめていた。私は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。男が口を開いた。
「憑依タイプだな……。ただ式神も使えるかもしれない。お前と同じだな」
それを聞いた女は満足げな表情を浮かべ、コーヒーに砂糖を入れた。私はその優雅な所作に見とれてしまった。こんなチェーン店の安っぽいマグカップでも手に持つ人物によって随分印象が変わるものなのだな。
男が急に席を立った。
「俺はもう行く。一匹メシダサれた、かなり強力な奴だ」
女が軽く頷き、男は挨拶もせずにそのまま店を出て行った。メシダサれたってなんだろう。ご飯のこと?今の状況にまるで合ってない台詞に思える。そもそも式神とか憑依だとかホラーっぽい言葉を口にしていたけれど、この人たちはオカルトマニアなのだろうか?私ってば変な団体に勧誘されているの?でも二人の雰囲気はそれぞれ違うけど、オカルトマニアのそれとはまるでかけ離れているし……。私が男を目で追っていると女が言った。
「あの男のことは気にしないでね」
「え?気にするなって言われても……」
「私はあなたの力になりたくてここにいるのよ」
その口調には有無を言わせない響きが込もっていた。力になる?この女はいきなり何を言い出すのだ?私の警戒心が徐々に高まっていく。
「いい加減にしてください。これ以上しつこいようなら警察を呼びますよ」
勇気を出してそう言ったが、女は顎に手を当てながら余裕たっぷりの表情だ。
「警察を呼んでも構わないわよ。でもね、あなたは救済を必要としている。違う?」
「は?」
「あなたは倉木ヒナタ君の愛を独り占めにするミツキが邪魔なはず、そうでしょう?」
なぜ私だけでなく双子のことまで知っているのだろう?興信所でも使ったのだろうか?気味が悪くて仕方がない。
「二人は双子の兄弟です」
「そんなの関係ないわよ。愛に制約はないし、血の繋がった異性同士で愛し合うなんて珍しくないもの。それは2人を見ていたあなたもよく知っているんじゃないかしら?」
チノツナガッタイセイドウシデアイシアウ。その言葉が頭の中で何度も繰り返される。顔面蒼白の私を追い詰めるかのように女が畳み掛ける。
「ごめんなさい、あなたには辛い台詞だったわよね。あなたがお父さんにされていることを考えればね」
数年間に渡る地獄のような記憶が弾けるようにフラッシュバックし、頭の中がケダモノの顔でいっぱいになる。激しい動悸で心臓が破裂しそうだ。
「何年も、毎日のように、あなたは実の父親に心を殺され続けてきた。そうでしょう?」
「やめて!やめて!それ以上言わないで!」
私は思わず大声を出して叫んでしまった。ふと我に返ると店中の視線が私に集まっていたため、私は恥ずかしくなり身を縮こませて下を向いた。驚いた顔の客や従業員とは違い、目の前の女だけが少し緑色に変色した目で悲しそうに私を見つめる。緑色の目?
「最愛の妻が他の男に全てを捧げて苦しかったのでしょうね。だからお母さん似のあなたを捌け口にした。でも実の娘にそんなことは絶対に許されない。違う?」
過呼吸が収まらない。こんなところで泣いちゃだめ。またさっきみたいにみんなに見られてしまう。私なんかが目立ったら、また中学の時みたいに……女は私の動揺などお構いなしに続ける。
「その野暮ったい伊達メガネを外して、ちょっと髪型を変えるだけで見違えるわよ。お母さん、綺麗だものねえ」
「なんで……なんで伊達メガネだって知っているんですか……」
吐き気が止まらない。もう何もかも壊れてしまえばいい。
「あなたのことならなんでも知っているわ。なぜそんな地味な恰好をしているかもね」
「やめて……」
「なぜならあなたは誰にも関わりたくないから。それほど酷い目に遭ってきたから。お父さんだけじゃない、お母さんの愛人からも、中学の同級生からもね。あなたはこの世界を、ヒナタ君以外の全てを憎んでいる。そうでしょう?」
「もうやめて、お願い……」
「毎日地獄のような目に遭っているのに誰も助けてくれない。教師も、警察も、何もかも信用できない。だから弱り切った心に冷たい鎧を身に付けるしかなかった。倉木ミツキは、どんな時でも瑞樹ちゃんの王子様が助けてくれるのに」
忌々しいミツキの存在と呪われた記憶で吐き気が収まらない。目の前の赤の他人がなぜ何もかも知っているのかなんて、そんなことはもうどうでもいい。頭がくらくらとする。何も考えられない。胸がナイフで傷つけられたかのようにじんじんと傷む。これ以上聞きたくない、私は両耳を手で塞いだ。
「お母さんは愛人の奴隷だから、あなたがどんな目に遭おうと見て見ぬふりをしている。断言するわ。あなたの人生はこれからもずっと地獄よ、このままではね」
耳を塞いでいるはずなのに、女の声が容赦なく頭の中で反響する。もういやだ。みんな死ね、死んでしまえ。女が緑色がかった目でじっと私を覗き込む。
「私があなたを救ってあげる」
私を救う?
「言ったでしょ?力になりたいって」
どうやって?
「生まれ変わることで」
生まれ変わる?
「そう、あなたは今から生まれ変わるのよ。その代わり一つだけお願いがあるの」
私はいつの間にか手を耳から離し、呆けた顔で女の顔を見ていた。目の前の女の深緑に変色した瞳に吸い込まれそうだ。
「それはあなたも望んでいることよ」
私が望んでいること……。
「倉木ミツキを殺すの」
倉木ミツキを殺す。クラキミツキヲコロス。まるで救済の日を待ちわびる羊が預言者の言葉を聞いたかのようにそのフレーズが胸にすっと入ってきて、血管中をめぐり、頭のてっぺんからつま先まで「クラキミツキヲコロス」で埋め尽くされていった。そして私は催眠術にかかったようにゆっくりと頷いた。
彼女の作り物のような表情が初めて本物の喜びで満たされた。そして私の頭を優しく撫で、伊達眼鏡をそっと外して一言呟いた。
「あなた、とても綺麗よ」
私はその言葉に何の疑問も挟まなかった。そう、私は綺麗だ。私はお母さん似だもの。
「何度でも言うわ、あなたは生まれ変わるの。地獄のような生活から抜け出して、綺麗になって、小倉ヒナタ君と素敵な恋に落ちるの。あたなには幸せになる権利がある。そうでしょう?」
私が幸せに?私、幸せになれるの?
「でもね、蛹から蝶になるには少しだけ時間が必要なの」
時間?
「あなたはどんな種類の蝶かしら。羽化するまでの間、あなたは今の生活に耐えられる?今日もお父さんが家であなたを待ちわびているわ」
「そんな!」
天から垂れた蜘蛛の糸は今にも切れそうだ。私は身を乗り出して女の肩をつかんだ。
「お願いします!何でもしますから!もう何もかもが嫌……」
また店中の視線を浴びてしまったが構うものか。見たければ好きなだけ見ればいい、笑いものにしたければ笑えばいい。彼女は優しくゆっくりと私の手を肩から外した。
「私はあなたのことが大好きなの。瑞樹ちゃんを苦しめるお父さんには天罰を下すわ。ヒナタ君に小蠅のようにまとわりつく倉木ミツキにもね」
「私を、私を助けてください」
私は馬鹿みたいに何度もその台詞を繰り返した。彼女はうっすらと涙を浮かべながら私の手を取った。
「どこまでも守ってみせる。あなたを二度と酷い目に遭わせない」
からからに乾いた砂漠に天から雨が降り注ぎ、私の心を満たしてくれた。机にぽたぽたと水滴が落ちる。これは喜びの涙だ。彼女はハンカチを取り出して私の顔を拭いてくれた。私は泣きじゃくりながらやっとの思いで自分の願いを伝えた。
「お願いがあります」
「何かしら」
「母親の男も殺してください」
女は聖母のように慈愛に満ちた表情で私の手を強く握りしめた。
「それでいいのよ」
◇◇◇
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