第24話

「ヒナタ、待ってよ!」


 遥か後ろからミツキの声が聞こえる。そういえば自分の意思で水流神社に登るのは初めてかもしれないな。でも、和沙と別れるまで溜め込んでいたこの想いを今発散させずにいつするというのだ?僕は息を切らせながら何と無しそんなことを考えていた。

 僕は森に駆け込み、脇目も振らずに走って、走って、走った。泥濘に何度も足を取られそうになっても構わず走り続けた。そして神社の階段を猛ダッシュで駆け上がった。滑って転んだって構うものか。100段目あたりでぬるぬるとした苔に滑ってしまい、左足の脛を階段に思い切りぶつけた。体中が震えるほど痛かったが、それでもすぐに起き上がって走り続けた。視界の中の鳥居が少しづつ大きくなってゆく。鳥居に切り取らた青空が僕を祝福しているように思えた。そして僕はゴールテープを切るかのように鳥居をくぐり、そのまま境内にある樹齢600年の大木の下に寝ころんだ。遅れて到着したミツキが息を切らせながら上から僕を覗き込む。ミツキの顔から吹き出た汗が、僕の服や顔にぽたぽたと落ちる。僕は柄にもなく笑顔で言った。


「よかったな、ミツキ」


◇◇◇


 僕はミツキが柄杓に手水を汲み、そのまま頭からかぶる光景をぼんやりと眺めていた。そして今度は真上を向き、陽光を反射する葉が風で揺れ続ける様を飽きずに眺めていた。最期はこういう気分で死にたいな、そんなことを考えていたら顔に冷たい水が浴びせかけられた。


「冷て!」


 ミツキが手酌を持ちながら大笑いしていた。

 夏にもかかわらず不思議と涼しい風の吹くこの境内では、手水をかぶると寒気すら感じる。僕も立ち上がり、柄杓を手に取ってミツキにお返しをした。そして僕らはお互い手水を何度もぶっかけ合った。作法とはだいぶかけ離れているが、これも一種のお清めみたいなものだ。

 僕らはすっかり冷え切った体で境内の裏手に回り、神社と断崖を隔てる半壊した木製柵の約1メートル手前に立った。7月の青い空の下で静かに揺れる海がきらきらと陽光を反射している。僕らはいつものようにしばらく無言で海を見ていた。


「どうせ和沙から三田さんに連絡が行くだろうし、夜に事務所に立ち寄ろうかな。ミツキ、お前も一緒に来るか?」


 僕は悪戯っぽい顔で言った。ミツキは忌まわしい言葉を聞いたかのようにしかめっ面をした。


「絶対に、絶対に嫌だ」


 僕は再び海の方を向いた。こういう時、何と言えばミツキに納得してもらえるのだろう。


「三田さんもさ、職務に忠実なだけなんだよな。お前には残酷に見えるかもしれないけど」

「でも……」

「それにな、お前は三田さんのことが嫌いだけど、三田さんはお前のことが大好きなんだぜ」

「確かにね。三田はミツキのことをなぜか気に入っているんだよな」


 ミツキが妙に大人びた口調になった。ミツキの方を向くと、黒目の部分が真っ赤になっていた。


「母さん……」


 僕は驚いた顔で母さんが乗り移ったミツキの顔を見た。


「なぜミツキが今のタイミングで母さんに憑かせたんだ?」

「いいや、私の意志で憑いた」


 母さんは遠くの水平線を見るような、もしくは何も見ていないような不思議な目を海に向けながらそう言った。


「母さんの意志で?」

「こんなことは初めてさ。ミツキとは違って、私の意識が表に出ていない時はいつも半分眠っているような感覚だからね。私の意識が急にはっきりしたのはあの和沙って子とあんたたちが会った時からだ」

「和沙と会ってから……」


 僕はあまり驚かなかった。ブローチを夢の世界から持ち帰った時点で和沙は間違いなくの人間なのだろう。そしてあのミツキにいとも簡単に心を開かせた……。


「不思議な子だね、気に入ったよ」


 母さんは口の端を歪めてニヤリと笑った。ミツキがしそうもない表情だ。


「あんたたちと初めて出会った時からここは変わらないね」

「そうだな」

「しかし面倒なことに巻き込まれたね、写真の人形の目を見たろ。三田も気付いたと思うがもう時間がない。あの子、やばいよ」

「分かっている。絶対に救ってみせるさ」

「柄にもない台詞だね」


 母さんは茶化すようにそう言った。僕は木の柵を両手で掴みながら絶えず波立つ海に目を向けていた。本当に柄にもない台詞だ。和沙と出会ってからどうにも調子が狂ってしまう。でも……。


「ミツキの初めての友達だからな」

「そっか」


 母さんはミツキの美しい髪を手に持ちしばらくじっと見つめたあと、口を開いた。


「大川文子がまたあの子の夢に介入しようとしている」

「分かるのか?」

「あんたはまだ感知できないか。下手すれば今日の夢であの子の魂が喰われる。「絵描き」の仕事を待っている時間もない。ちょっと荒っぽいけど私の式神を使う」

「母さんの式神を!?強すぎて街に副作用が出るんじゃ……」

「仕方ないだろ、大事の前の小事だ。あの娘を助けたいんだろ?大川文子を止めるのは無理でも応急処置にはなるはずだよ。私がミツキを乗っ取らないよう、あんたの力も貸しな」

「だから出てきたのか……」

「心配しなくても用事を済ませたらすぐに引っ込むよ」

「悪いけどそうしてくれ」

「まったく、私が体を取り戻すのはいつになるやら」


 僕はため息を付きながら彼女の右手を強く握りしめ、二人で目を瞑った。夏の夕方前のまだまだ日射しの強い時間、境内の微かな風が木の葉を震わせ始め、その勢いを増していった。母さんが式神に命じた。


「従属する者よ、命を下す」


◇◇◇


 帰り道、焼けつくような日射しが肌を刺し続ける。色々あり過ぎて日焼け止めを塗る暇もなかったけど、今日くらいは好きなだけ太陽に焼かせよう。電話で三田さんへの報告を済ませた私は、名前を明かしたにも関わらず笑って許してもらえたことにほっとしている。そして、これから親戚となる人物との面倒な顔合わせにもかかわらずうきうきしている。前後を見渡したが誰もいなかったので、ちょっとだけスキップをしてみた。「かずち」か、ふふふ。今度みっちゃんの家に泊まるのか。とんでもない事件に巻き込まれたけど、お釣りがくるくらい素敵な出会いだった。たった数時間だけれど、私はあの運命的な数時間を忘れることは生涯ないだろう。それに……できればこれからあの二人と素敵な関係になるとといいな。大丈夫、あの二人となら今回の困難だってきっと乗り越えられる。

 それにしても暑い……。頬っぺたなんか冷えてきたし……冷えてきた?

 燦々と降り注ぐ陽光と共に、白い粉のようなものがちらほらと降っている。手の平で受け止めたそれは強烈な日射しで一瞬のうちに水となった。間違いない、これは雪だ。


「うそ……」


 眼前には万に一つもあり得ない光景が映し出されていた。淡紅色に染まった桜の木からは花びらがちらほらと舞い、イロハカエデは紅葉して真っ赤に染めあがっている。雨上がりでもないのに虹がくっきりと映し出されていた。何もかもが出鱈目だ。


「いったい何なの?」


 その日、SNSの話題は加賀谷市の夏の珍事で持ち切りだった。ニュースでも取り上げられ専門家がこの不可思議な現象について解説をしていたが、珍現象にお腹いっぱいだった私はこのニュースに特に興味を惹かれることもなかった。そういえば私にはSNSで語り合う友達もいない。みっちゃんと連絡先を交換しておけばよかったな。いや、あの子はきっとスマホなんて煩わしいものは持っていないんだろうな。

 テレビを消してそのままベッドに入った私は、睡魔に襲われる中で生まれて初めて神様というものに祈った。神様、お願いします。あと数日間だけでいい、どうかみっちゃんとの楽しいひと時が終わるまでは私を生かしてください、どうか生き永らえさせてください。

 その夜、私は久々に夢を見た。人形の夢ではない。奇妙な動物が私の体中に巻き付いたツル草を食む夢だった。鋭い牙が2本ある象のような顔をしたその動物は、背中に見事な鬣を生やし、毛むくじゃらの4本足は小柄な体とは不釣り合いに逞しく、爪は鋭かった。


「今度は何なの?でも、とても優しい目の生き物……」


 人形の夢とは違い、この夢はとてもボンヤリとしていた。ボンヤリしているし、とっても心地いい。まるで何かに守られているかのような……。この動物はツル草を食み続け、すべて食べたあとに大きなげっぷをした(どこかチャーミングな仕草だったので、夢の中の私は思わず笑ってしまった)。げっぷの後、奇妙な動物は姿が徐々に薄くなり、動物の姿が完全に見えなくなったと同時に私の夢も終わりを告げた。薄暗い森は徐々に完全な暗闇へと変化していき、私は何者にも邪魔をされない深い眠りに陥った。


◇◇◇

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