ヤングタイマー ④

ぐるっと会場を一回りしてジェミニの下に戻ろうとすると、ジェミニの向かいにさっきは居なかった1台の黒いメルセデスが停まっているのが見えた。


フロントからリアまで定規で線を引いたような角張ったフォルムから察するに、ジェミニと同じように少し古いモデルなのだろう。大きなフロントグリルはディテールが緻密でバロック建築のようであり、また真四角なヘッドライトや金庫のドアのようなドアハンドルからはバウハウス的な合理性も感じられる。

派手なエアロは装着されておらずアピアランスはオリジナルを保っているが、シックなBBS製のメッシュホイールがインチアップして装着されており、車高も多少下げられているようだ。


「こんにちは。じっと見ているみたいだけど、僕の車が気になるかい?」

声のする方を向くと、オーナーと思われる人が凛子の脇に立っていた。直前まで気配を感じなかったことに凛子は驚き、思わずメルセデスを覗き込む姿勢のままバッ、と身を引いた。


「ふふ、驚かせたかな。トランクの影に隠れていたのだけど。」

『氷翠』と名乗るその人は、色素が薄く銀色に見えるロングヘア、アビエイタージャケットにデニムのファッションは車と相まってクール、中性的、ミステリアスな印象を受けた。だが、凛子が改めて背筋を伸ばして向き合うと、氷翠は自分と同じくらいの背丈であることに気がついた。

「ああ、たまに間違われるけど、歴とした女だよ。あとはそうだな……ただのクルマ好きさ。」

「わたしの車と同じくらいの時代の車かなって見入っちゃいました。えっと、今日は友達とアワードに出場してるんです。車のことを調べてまとめたので、良かったらこれどうぞ。」


凛子は向かいにある自分の車を指差し、チラシを氷翠に手渡した。氷翠はチラシと見比べながらジェミニを観察する。


「なるほど、あれが君の車?ハンドアウトもよく調べてある。君の車はおじいさんから受け継いだものなんだね。いすゞはあまり詳しくないけど……へえ、ロータスの手も入っているというのは、興味深いな。」


氷翠は自身と愛車について語り出した。

子供の頃からスパイ映画が好きで「単純な正義ではなく、信念や使命のために戦う存在」に似合う車を求めて行き着いたのがこの車だったこと。そして、190E 2.3-16というモデルは中型のボディにコスワースによる2.3Lの直4エンジンを搭載した『羊の皮を被った狼』であること。


凛子はカフェ・ゴトーで目にした、後藤マスターの愛車のアストンマーティンを思い出す。

「スパイ映画と言ったらアストンマーティンが有名ですけど、メルセデスを選んだんですね。」

「あはは、そうだね。最初はアストンも考えていたんだけど、親が元々メルセデスに乗っていてよく知っていたというのも大きな理由になったかな。信頼性の高さはメルセデスの魅力の一つだ。」


氷翠は190Eのボンネットに右手を添えながら言葉を続ける。

「凛子や、凛子の友達のクルマはまだそんなにいじってる感じじゃないね。でも、どれも雑に扱われていない、いい雰囲気がある。」

「そうですね。私たちはまだ大幅なカスタマイズはしていませんが、これまで大切に乗ってきた車です。」凛子は微笑みながら言った。


氷翠はじっと凛子の車を見つめたまま、次の言葉を続ける。


「それにしても、君たちはまだサーキットには行ったことがないのかい?ドライビングは単なる移動手段以上の愉しみがある。サーキットではクルマの可能性が広がるよ。」


氷翠の言葉に、凛子は未知の世界への興味を掻き立てられる。氷翠の誘いは、車が彼女たちにもたらす可能性と冒険を意味しているように感じられた。


「……そうだな、凛子は何かスポーツはやっていた?」

「陸上部で、400m走やリレーに出ていたんです。だから、競走とかは結構好きですね。」


凛子の競走好きを知り、それまで感情を見せなかった氷翠の表情がうっすらと明るくなった。

「そうか。凛子は自分と向き合うこと、競うことの楽しさ、難しさをすでに理解しているんだね。君はきっと、素晴らしいドライバーになれる。そして、そのジェミニはきっと君の期待に応えて、君を成長させてくれるはずだ。」


凛子は氷翠の言葉に驚きと納得感を覚えた。彼女の口調は控えめでありながらも、鋭い観察力と理解が感じられた。


「……おっと、もう行かなきゃ。凛子、機会があったらまた会おう。」

そう言うと氷翠はアワードの結果発表を待たずに車に乗り込んだ。メルセデスは存在を主張しないような静かなアイドリングのまま滑らかに発進し、会場を後にした。


凛子は氷翠が去った後、電気ショックを受けたようにしばし茫然としていた。彼女は初対面の氷翠によって、未知への招待を受けたようだった。そして、自分の内なる欲求が再び燃え上がり始めているのを感じた。


新たな世界への扉が開かれた気がする。サーキットという場所に足を踏み入れたら、自分がどれほどの可能性を秘めているのか、その魅力を感じることができるかもしれない。私も走ってみたい。けれど、私のジェミニは……本当にその場にふさわしいのだろうか。


凛子は振り返ってジェミニに声をかける。

「サーキットかあ。ジェミニは……走ってみたい?」


<続>

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ヤングタイマー エスプレッソ @kimwipe-s200

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