赤いドライバー

「クォォーーーーンッ、ギュオン、ギュオオン!」


明け方の峠に一台のバイクのエキゾーストが響く───


一人、峠道を駆ける男の名前をリョウといった。


彼は1990年代に流行したバイク小僧といった装いだ。彼の跨るゼファー・400は黒塗りにゴールドのアルミホイール、ショート管やFCRキャブを装着するカスタムが施され、ナンバープレートは跳ね上げられている。


「くぅーっ!いいねえ、やっぱキャブ替えて正解だべや!この高回転までカチ回る感覚、た・ま・ら・ないねえ〜〜」

ヘルメットの中でひとりニヤニヤ笑いながら独り言をつぶやいた。


リョウは小柄な体格には少し大きな車体を物ともせず、ゼファーをヒラヒラと乗りこなして峠のワインディングを駆け上がっていく。

ワインディングを楽しんでいるうちに標高はどんどんと上昇し、ヘアピンの登坂車線に差し掛かった。


「ヴヴヴヴ、ヴォン、ヴォーーン」


ヘアピンで減速して、低速から再加速しようとするとエンジンから異音が出て、先ほどまで豊かに感じられたパワーが失われているのを感じる。


「なんだあっ、燃調狂ったか、くそっ」


駐車場までたどり着いたリョウは悪態を吐き、エンジンを切る。

エンジンを再始動してもアイドリングが安定せずにストールしてしまう。昨日取り付けした中古のFCRキャブが原因だ。

標高の低い家の周りでは問題なくとも、高度が上がったことで酸素が薄くなり、燃調が狂ってしまったのだ。


「やっぱポン付けで遠出するもんじゃねえべや。」


リョウはツールセットを取り出し、キャブのパイロット調整を試みる。

専用の工具があればキャブを車体から外さずにできる作業だが、そのような工具を持っていない今は、キャブを一旦車体から外して手持ちの工具で応急処置するしかない。


しかし、しばし格闘したリョウは持ってきた工具が役立たずだと思い知らされた。ツールセットに入れていたドライバーは長さが足りずグリップがつっかえて、なおかつ使い古しで先端が削れてしまって、インシュレーターを固定するホースバンドのネジにうまく力が伝わらなかった。


「ワヤがよ〜、くそったれい!」


憤慨し、途方に暮れたリョウがやるかたなく路肩に座り込んでいると、一台の車が上がってきた。

その車は朝露に濡れ、きらきらと輝く緑色の小さいセダンだった。

運転席には、凛々しい顔立ちをした壮年の男が座っている。彼は路肩に座るリョウの困った様子を見ると車を停め、歩み寄ってきた。


「どうしたんだ、若いの?」と男が尋ねた。

リョウは少し反発気味に、「キャブの燃調が狂っちまったんだけどよ、ドライバーがワヤでインシュレーターが取れねぇんだ」と答えた。


「ふむ。そうだな……これを使え」男は、リョウの悩む様子を察し、自分のツールケースからドライバーを差し出した。


「おお、ありがとう!ちょっと貸してもらうよ。」リョウは男からドライバーを受け取り、もう一度キャブの調整にチャレンジした。

借りたドライバーは何の変哲もない赤い樹脂のグリップでシャンクが少し長めの2番だが、狭い場所のネジにも吸い付くような使い心地だ。


インシュレーターさえ外せれば問題は解決だ。

目測でパイロットスクリューを調整してエンジンを掛ける。応急処置だが、峠を越えられればあとは何とかなるだろう。


「キュルルッ、ヴォン!ヴォァン!ボボボボボ……」


5分ほどの格闘の末、リョウのゼファーはアイドリングの健康を取り戻した。


「うまくいったか。こんな野良でキャブ調整なんてよくやるもんだ。若さだな。」男は、リョウが格闘している間に買ってきた缶コーヒーを差し出した。


甘党のリョウは差し出された2本のうち砂糖入りのコーヒーを選んだ。

バイクに乗ったりこうやってイジった後の甘い飲み物ってのは、なんまらたまんねぇんだ。


「何とかなって良かったぁ〜。おじさん、助かったぜ。これでまた走れる。」リョウは男に感謝の言葉を述べ、ドライバーを返そうと手を伸ばした。


「いいよ、それは君が持ってるといい。いい道具があれば、トラブルが起きたときにも冷静に対処できる。大切に使い続けてくれ。」


男はそう言うと車に乗り込み、自分のドライブへと戻っていった。


男が何者なのかリョウは聞くことができないままだったが、あの日の出会いは彼の心に深く刻まれた。

以降も先端がすり減るたびにドライバーを新しく買い替えたが、あの日譲り受けたドライバーは今でもキャビネットに眠っている。


    ◇


峠で緑のセダンの紳士からドライバーを譲り受けたあの日から年月が経ったある日のこと───


「な〜んであたしがとーちゃんの趣味兼小遣い稼ぎを手伝わなきゃいけないワケェ。フツー中学の娘にぶっ壊れてるバイクの修理させる?」


「あ〜知らんし聞こえーん。ほれっ先払いした小遣い分キリキリ働けっ、今日中にあと一台直して出品するべ。」


「倉庫は油臭くてきったないし、工具だってその辺ほったらかしでワケワカンないし〜」


なぁんて悪態を吐きながらも、オレが教えるよりも早くエンジンの仕組みを理解しやがる。

コイツぁホントにオレの娘か?ってくらい出来がいい。


そば屋を継ぐなんて勿体ねえんだ、手に職を付けさせるには、オレがしてやれることはこんなことしかねえ。

いや───もしかしてこいつだったら大学なんてものも夢じゃねえんじゃねえか?


リョウは、お下がりのツナギを着て倉庫の床に座り込み、スクーターのエンジンと格闘する娘の姿を見つめながら、娘の未来に思いを馳せた。

娘の手には、あの日俺が譲り受けたものと同じ、娘のために新しく買ってきた、赤いグリップのドライバーが握られている。

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