第1部 ドライブ・マイ・カー

いすゞ・ジェミニ ZZ ハンドリング・バイ・ロータス

「寒い……」

 春の訪れというには幾分肌寒い、北海道の4月の風を浴びながらひとりの大学生が電車を待っていた。

 大学初日のオリエンテーションを終え足早に帰路につく凛子は、通学初日にして軽率に北広島郊外の祖父母の家に居候を決めた自分を恨み始めていた。

 札幌は北海道最大の都市であるが、首都圏の感覚からすれば公共交通はのんびりした間隔で運行している。

 朝は祖父が北広島の駅まで軽トラで送ってくれたが、帰りは駅からバスに乗る必要がある。

 順調に乗り換えできたとしても片道1時間半の通学、これを4年間続けるとしたらどれだけの時間の損失になるか。

「これだったら、八王子でも藤沢でも首都圏の大学通った方がマシだったかなーっ」


    ◇


 幸い、北海道は札幌中心部でも家賃は安い。

 アルバイトと仕送りを節約して貯金すれば、2年生か3年生には大学の近くに下宿できるのでは……

 夕飯前に風呂に浸かりながら早速ジジババ不幸なことを考える凛子であった。

「だめだめ!せっかくおじいちゃんおばあちゃんと初めてゆっくり過ごせるんだもの。」


 凛子の母方にあたる祖父母は北海道に住んでいることもあり、これまでなかなか行き来が無かった。

 あったとしても祖父母が東京に遊びに来るばかりで、この家を訪れたのも10年振り。

 東大まで届かなくともそれなりに成績の良かった凛子が消極的に決めた進学先で、居候の話が来たときの祖父母の喜びようを思い出すと心が痛くなる。


 夕飯の席で祖母が話しかける。

「大学生活初日、お疲れさま。授業は間に合ったのかい?」

「うんー、今日は初日だから講義はないんだよ。でも余裕持って送ってくれたから大丈夫だったよ。帰りは電車結構待って時間掛かったなあ。」

 祖父が口を挟む。

「ははっ、北海道は広いべ?これでも北広島から札幌なんて道民からしたら目と鼻の距離なんだよ。」

「う〜んでも毎日電車通学はしんどいかも、バイトもしたいし。」

「じゃあどうする〜?せっかくうち来たけど、札幌に下宿探すか?」

「それも考えたんだけど、まだお金無いしおじいちゃん達と過ごす時間も大切にしたいなあ。」

「そうだ、春休みに運転免許取ったんだけど、原付ならこれで乗れるしバイク通学とかどうかな?」

「ほー、バイクか。悪くないけど一つ忘れてるぞ。」

「何を?」

「大学は冬もあるだろ?雪降ったらどうする?」

「あ……。でも車なんて買うお金無いし、原付より維持費も燃費も掛かるからなあ。」

「凛子おまえ、なんも原付だって乗ったこと無いべ?北海道はみんな飛ばすし何より道が悪い!冬になる前に嫌になっちまうよ。」

「た、確かに泣 そうしたら、中古の軽自動車でもなんか探すしか……ぐぬぬ。」

「ふむ……まあ、そう慌てなさるな。疲れてるだろ、明日は休日だし今日はもう寝なさい。」


 祖父の言うように、幸い通学初日が金曜日だったので明日明後日は休みだった。

 明日は札幌に出て文房具でも買うか、ネットでわたしでも買えそうな中古車でも探すか……

 そんなことを考えていたら疲れからかすとんと眠りについてしまった。


    ◇


 翌朝、まだ慣れない布団の寝心地に目を覚ますと物音がする。

 老人は朝が早い、祖父母はもう活動を開始していたようだ。

「おはよう、よく眠れたかしら?さあ、朝ごはん用意したからね。今日は札幌にお買い物でも行くの?」

「おはようおばあちゃん。そうだなー、講義に必要そうなものを買いに行こうかな?」

 北海道の土地柄なのか、祖父母は年配には珍しく朝食はパン派である。

 きつね色のトーストにバターを塗り、ベーコンと目玉焼きを頬張りながら凛子は答える。

 もう畑仕事に出るのだろうか?祖父の姿が見えないことに気づいた凛子が辺りを見渡していると、外からエンジンの音が聞こえてきた。

 その音は軽トラのチープなものとは少し違う、整った落ち着いた音だった。

 それに気づくのと同じくして玄関が開き、祖父が声をかけてきた。

「凛子、着替えたら表に出てきなさい。」

「もう着替えてるよ。なに?」

 まだ肌寒い外に出るのにパーカーを掴み、素足でスニーカーを引っ掛けて外に出た凛子の目に入ってきたのは、ブリティッシュ・グリーンに彩られ納屋の前で静かにアイドリングするいすゞ・ジェミニ ZZ ハンドリング・バイ・ロータスだった。

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