アイ・マイ

 ――7:00――


 「お願いです! ここで働かせてください! バイト代はいらないので!」


 海岸沿いにある寂れたカフェ、「かなくらくぅ」の店主である私、金倉 空かなくら そらは、営業日の早朝、とんでもない客人の来訪に、困惑せざるを得なかった。


 「かなくらくぅ」の開店時間は朝10時。いつもなら朝8時に起床して、お気に入りのラジオを聞きながら身支度と準備。そして朝9時から店の準備を始めている。私なりのルーティンだ。しかし、昨日からひっきりなしにラジオから聞こえてくる文句に心乱され、今日はルーティンをこなせなかった。最後の日だというのに。


 「隕石が衝突するまで後24時間となりました。どうか地球のみなさま、最後の時を心安らかにお過ごしください」


 気が狂うほどに放映されるこの決まり文句は、私を少なくとも心のどこかで不安にさせたらしく、昨日から寝付くことが出来なかった。一時間したら目を覚まし、また目をつむる。目をつむっても、あの決まり文句が耳から離れず、また目を覚ましてしまう。こうして私は結局7時まで眠ることはせず、それならせめて海の音を聞きながら開店を待ってしまおうと、そのまま朝の支度をしていた。


 ただでさえ寝付けず苛立っている中にこの来客だ。せめて客であって欲しいのに、バイト代のいらない勤務希望者だと主張するドアの向こうのとんちんかんに、うんざりするばかりであった。心底思う。本当に客であって欲しかった。


 どんなヤバい人がいるのだろうと、内心恐怖しながらも扉を開けて、そしてコーヒーカップと共に落とす。ばしゃり、と、黒い液体が勢いよく周囲に散布し、この珍客の足下もろとも黒に染める。目に飛び込んできたのはコーヒーにも負けないぐらい漆黒の生地に真っ白なフリルの着いた服にヘッドドレス。俗に言うゴスロリというファッションをした人だった。


 「えっと……。」

 「お願いします! お給料はいりません。 ここで働かせてください! あ、これ履歴書です!」


 言葉を失っていると。目の前のゴスロリ娘は履歴書を取り出してきた。もちろん、何が入るのか分からないような小さく硬いハート型のカバンから。


 「あの……。とりあえず、中、入る?」


 おそらくずっと待っていたのだろう。いくら朝とはいえ、今の季節は夏。黒で汗染みは目立ちはしないが、白いフリルがくたびれているのを見てそう感じた。とりあえず話だけは聞こう。そして帰ってもらおうと、空は最初で最後の客人を迎え入れることにしたのだ。その珍客を店の真ん中の二人用席に座らせ、一対一の形で私も座ろうとしたときに、そこでようやく服を汚してしまっていることに私は気がついた。


 「服よごしちゃってごめんね。奥の方に着替えあるから」

 「いや大丈夫です。もう最後なんで。汚れなんてもう気にしませんよ」


 なんて良い子なんだろう。そう思いながら渡された履歴書に目を通す。名前欄には「坂本 実」と、楷書でハッキリと書かれていた。坂本という名字を見て、思い出したくないことを思い出してしまう。の名字だ。私から息子を遠ざけ、会うことを許さなかった冷徹最悪の男。あの男に嫌になるほど合理的で、世間体を気にする姿が脳裏にちらつく。


 「あの……。どうかされましたか?」


 きっとどこか顔が曇ってしまっていたのだろう。目の前のゴスロリ娘の声で我に返る。今この子は店主として私と話してる。突然ではあったけど、立場はしっかりと明確にしなければ。今の私は金倉 空ではなく、カフェ「かなくらくぅ」の店主だ。ありふれた名字にいちいち心を乱されてはいけない。


 「あーごめんね。突然だったからまだ寝起きで」

 「ですよね。ごめんなさい」

 「ほんとだよー。今日が地球最後だから良いけど、本来ならちゃんと前もって連絡して面接するもんだからね。来世では気をつけるんだよ、みのりちゃん」

 「みのるです」

 「え?」

 「名前、坂本 実さかもと みのるです」

 「…………え?」


 ――7:30――


 あの後、詳しく話を聞くことで彼女(彼と彼女の呼ぶか迷っていたが、服装が似合っていてかわいらしいのでこちらにした)の細かな素性が分かってきた。名前は坂本 実。年齢は19歳で、都内の有名大学の大学生。今までバイトは何度かしてきたようで、受け答えや経験には慣れが垣間見える。そして気になる性別はというと、体は男で心は女。いわゆるトランスジェンダーで、性転換手術を受ける事が出来る年齢まで待ってやっとの事で体を女に出来たが、書類上の手続きが終わってないため、戸籍上は男となっているらしい。そして何よりおかしいのが、性転換手術を受ける前の高校以前の記憶が曖昧であるという点だ。履歴書もよく見ると、職歴の欄はある程度埋まっているが、学歴の所には有名大学以外の学校が書かれていない。思い出せないらしいのだ。ここに来た理由はというと……。


 「何故か思い出せないんです。地球が終わるって分かってから、何故か分からないけど、どうしてもここに来たくて」


 とのことだった。何がなんだか、おかしいところが多すぎる。それなのに、なぜ彼女の姿を見るとこうも胸を締め付けられるのだろう。それが嘘で無いと直感が言う。分かってしまう。


 「おかしいところだらけなのは分かってます。でも、全部忘れてしまったのに、なぜかこの地域のカフェに来たかった。それが夢だったんです。どうか、働かせてくれませんか?」


 彼女の熱意は痛いほど伝わってきた。だが履歴書は空欄だらけ、素性も彼女自身も分からないと来た。店主として、そんな従業員は雇うことが出来ない。たとえ給料がいらないのだとしても、素性は損得よりも大事なのだ。


 「気持ちは嬉しいけど、自分の事すら分からないような人を雇うわけにはいかないかな。たとえ給料払わなくて良いとしても」

 「……そうですか」


 彼女はそう言いながら席を立とうとした。くたびれたフリルがふわっと動き、彼女の思いとは裏腹に彼女を明るく見せる。それがひどく目立ってしまうほど悲しそうな彼女の顔。目元は見えないが、声色から分かるぐらい今にも泣き出しそうな彼女を見て、店主としてではない。私として付け足していた。

 

 「……でも、お客さんは多分今日来ないんだ。話し相手として、今日はここにいてよ。勝手に手伝いしていいからさ」


 とぼとぼと扉に近づいていた彼女は振り返る。ロングスカートがふわりと広がり、先ほどと同じようにフリルを踊らせる。ただ、今度は彼女の顔はまるで太陽のように光を放射するような、まばゆい笑顔だ。今宵降り注ぐ星に負けないぐらいの笑顔、空を見上げるとすでに見える、巨大な星なんて気にならないぐらい輝かしい良い笑顔だった。

 

――12:00――

 

 やはりというか、当然と言うべきか。地球最後の日に、閑古鳥が鳴くこのカフェにわざわざ足を運ぶ物好きなどいないようで、午前中の営業は至極暇なものになっていた。紅茶やコーヒー豆を準備し、そして、待つ。ただひたすらに待つ。待って待って、そして待つ。それだけしかする事が無かった。だから私達は軽く会話をする。好きなものから、嫌いなもの。来世では何をしたいかや、思い出など。思い出に限っては私の一方通行なものになってしまったのだが、それでも人が側にいるだけで、昨晩の夢を忘れることが出来た。妙客のせいで朝の準備はいつも以上に早く終わり、今日は特別に9時から開店し、お客さんを待った。それでも、というかやはりというべきか。誰か来る気配すら微塵も感じさせなかった。

 

 何気なくふと彼女を見ると、箒をもって丁寧に掃除をしだしていた。静かにではあるが、とても楽しそうに。彼女の動き方には目を見張るものがあった。丁寧で、それでいて落ち着いた足取り。飲食店では致命的な埃を立てるような慌ただしい移動を一切せず、たたずむだけでも、それはそれは画になるような美しい佇まい。良く似合っているゴスロリ調の服装が急にシックなハウスメイドの正装に錯覚し、私がこのメイドの主人なのではないかと勘違いしてしまいそうになる。履き慣れたジーンズに使い古した紺色のエプロン。主人にしては偉く庶民的な服装だと笑いがこみ上げてきた。タンスの奥のスカートを引っ張り出してこようかな。


 そんなことを考えていると、楽しそうに掃除をする彼女に触発されてコーヒーが飲みたくなってきた。どうせだったら頼んでみようか。ほんの少しの好奇心から


「みのるちゃん。コーヒー入れてよ」


 そう尋ねた。一瞬あっけにとられていたが、彼女はすぐに嬉しそうにしながら手早く準備を始める。口答で伝えたにもかかわらず、何処に何があるかを手早く把握し、必要なものをカフェのカウンターにそろえ、して嬉々としてコーヒー作りに取りかかる。豆を挽き、ドリッパーにフィルターを入れ、そこに挽いた豆を入れた。それから円を描きながらゆったりとお湯を入れていく。彼女の純白のフリルがその動きに合わせて揺れ、コーヒーの香りをふわりと室内に広げていく。


 「……あの、店長さん。聞いても良いですか?」


 入れている彼女を見ていたのに気づかれたのか、珍しく彼女から声を掛けられた。


 「こんな自分が言うのも何ですけど、なんで僕なんかと過ごしてくれるんですか?」

 「えぇ? それ今聞くの?」

 「今更ですね……。でも、自分が言うのも何なんですけど、こんな怪しそうな人、僕だったら近づかないですよ。男か女かも分からないような人に」

 「自分で言っちゃうんだ。でもそうだなぁ……」


 いつの間にか入れられていたコーヒーを前にして、その答えを探り出す。可愛そうに見えたというのもあるが、こんな重大な日、わざわざ閑古鳥が鳴くこの店に人が来るとは思えない。人手なんていらなかった。なぜ私はこの娘を受け入れたのだろう。頭では迷っていたが、心は小さく囁いていた。


 「寂しかったから?」


 理性はこれを認めたがらないが、実際、本心はたまらなく寂しかったのだろう。世界の終わりの日に、ただ寄せては返す波音だけを聞いて終わりを迎えることが。従業員もバイトもいない、たった一人で終わりを迎えることが。彼女はそれを聞き、またおずおずと続ける。


 「一緒に過ごすご家族とかは?」


 家族。この二文字に僅かに心が乱される。忘れようとしていたのに、この言葉は呪われた傷跡のように心に膿んで残り、無かったことにしても一生ついて回るのか。胸に沸いた不快感を流し込んでしまうように、少し多くコーヒーを飲み込んだ。苦みが心地の悪い思い出から豊かなコーヒーのものに取って代わる。彼女の腕に感心しながらも、どうせ最後ならいいかと半ば諦めのような気持ちで私自身の過去をさらけ出した。22年前の、人生の汚点というべき記憶の箱を開ける。


 「って言った方が良いかな。私バツイチなんだよ。夫がすごいモラハラ夫でさ。結婚する前はそんなこと無かったんだけど、してからもう凄い凄い。ご飯が少しでも気にくわなかったらひっくり返して作り直させるし、出かけるときも私が少しでも遅刻すると凄い暴言で」


 最低限の身だしなみとしてしている化粧の下には傷跡がある。その左頬が疼き、軽く頬をなでた。結婚して1年、初めて振るわれた家庭内暴力。当時共働きだった私達は、家事を当番制で行っていた。その時は私が夕食の当番で、仕事から帰った後に夕飯を作らなければならなかった。さらに運悪く仕事が遅くなり、21時頃になんとか仕事を終えて変えると、そこにはすでに夫が帰ってきていた。


 夫はどうやら早く帰ってきていたようで、19時には家に帰ってきていたらしい。そこから何をしていたかというと、自分の事だけしてずっと待っていたと言うのだ。しかしそれも我慢の限界で、台所にあったカップ麺を食べようとお湯を沸かし始めたところで私が帰ってきてしまった。開口一番なにやっていただの無責任だと騒ぎ立て、そこで初めて、男の人から「殴られる」ということを体験したのだ。開きかけていた記憶の箱が完全に開いてしまった。記憶も気分も墜ちていく。


 「それでも我慢し続けたんだよ。でも、限界が来ちゃった。決め手になったのは子ども。私にも子どもがいたんだけどさ。顔を見る前に『お前には育てられない』って言って取り上げられちゃった。親権も、名前も。会うことすらも出来なくて。で、結局ひとりぼっちよ。今何してるかすら分かんない」


 結婚して3年、私達の間には子どもが出来た。半ば強引に迫られた出産。全てが力尽くで、そこに愛なんてものは無かった。ただひたすらに気持ちが悪く、辛く苦しい。自分が女であると見せつけられているようで、女性らしさというものを嫌悪するようになった。それでも、子どもを前にして何かが変わるんじゃ無いかと心のどこかで信じていた。それも、打ち砕かれてしまったわけだけど。


 産後に体調を崩した私は、生まれた子どもの顔を見ることは出来なかった。それを呆れたのか、体調が回復した私に夫は気遣う言葉も無く、心ないあの一言。私は生まれた子どもの顔を見ること無く、一方的な離婚手続き。そうして私は独身女性へと転身することになった。元夫はこのためにお金を少しづつ稼いでいたようで、離婚が決まってからさっさとこの地から離れてしまった。私はお金も無かったので、結婚生活をしていたこの地にいやいや留まり続け、せめてもの仕返しと、ずっと夢だったカフェの経営を細々と続けている。22年も前のことなのに、どうしてこうも鮮明に思い出せてしまうのだろうか。冷え切ってしまった心を少しでも温められるかと口にしたコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。


 気まずい沈黙を破るように、彼女は明るく切り出した。


 「コーヒー、もう一杯いかがですか? ちょっと蒸らし過ぎちゃいましたけど」


 彼女の気遣いか、いつの間にか入れていた二杯目のコーヒーが、先ほどより強く薫っていることに気がついた。コーヒーは蒸せば蒸すほど味が強くなる。ちょうど良い。こんな記憶なんて彼女のコーヒーで塗りつぶしてしまおう。そう思い、寝付きの悪さなど知ったことかと、先ほどより強いコーヒーに口を付けた。より濃厚な風味とコクが、記憶の苦みを上書きしていく。あの時飲んでいた、蒸らし30秒では出せないようなこの味。


 この数年、私は「かなくらくぅ」を開店してから気がついた。人生を豊かにするのはこう言った曖昧さなのだと。時間に縛られずに入れるコーヒーは毎日を少しづつ変える。その度に新しい発見がある。蒸らしが60秒のもの、45秒のもの、反対に20秒のもの。その全てが違い、全てが良い。おいしいもの、自分が好きなものを唯一の正義だと言わんばかりにこだわりすぎていると、道ばたに咲くタンポポのような、好きになるかもしれない小さくか弱いものに気がつけないのだ。ふぅと一息ついて、香ばしい豆の香りが鼻から抜ける。苦い記憶も鼻から抜けて、部屋の香りに交ざって消えた。

 

 「コーヒーきっかけで仲良くなったんだけどさ。あの人は自分の完璧なコーヒー以外認めなくて。蒸らし時間もきっかりじゃないと気が済まない人だった。何度顔に掛けられた事か。私は曖昧な方が好きなんだけどね」

 「曖昧?」

 「そー。人間完璧でいられるわけ無いんだし、何が正解で、何が間違いかを決めつける方が疲れるよ。あの人のせいで私はそれに疲れちゃった」

 「……だから僕のこと、ちゃんづけなんですか?」


 いつの間にか間向かうに座っていた彼女はまっすぐな目でそう聞いてきた。まるでその問いに正解があり、その正解を望んでいるような目。きっとそう答えてくれる。期待と不安がその目の奥にあった。きっとこの娘はかつての私のように何か正解に縛られている。


 「男なのにちゃん付けで読んでくれるのは、僕がこんな服着て、中途半端で曖昧に見えるからってことですか?」

 「別にそういうことじゃ無いけど……」


 おっと、思ったより根深い所に足を踏み入れてしまったぞ、と、無遠慮な自分の発言を後悔する。そんな深い皮肉を込めるつもりは毛頭無かったが、どうやらそう伝わってしまったらしい。振りまいた苦しみが彼女の中に入ってしまったようで、心苦しくなる。なんとか彼女が納得してくれる考えを言わなきゃ。そう頭を巡らせても、特段深い理由は無い。

 

 「ただその服装が似合ってて可愛いからかな」


 こう伝えるしか無いのだ。こんな飾りっ気の無い言葉で納得してくれただろうか。彼女はまたあっけにとられていた。


 ――19:00――


 午後からの営業は少し忙しくなった。全く人が来ないと思っていたが、最後に口惜しくなったのか、何度か顔を見せてくれたような常連さんが来てくれた。常連さんは最後だというのに、いつものように私に話しかけ、突飛な新人にも絡んでいた。見知った顔が何人か見えて、そして初めて見る、スタイルの良い美人さんがコーヒーを一杯持ち帰りで買っていった。計3人。カフェらしいことをさせてあげられなかったが、この午後の間に、少しでも「かなくらくぅ」らしさを体験してもらえることが出来て、店主として私は安心した。私とこの娘だけに流れていたこの部屋の時間は、最後の最後に誰かを巻き込んで流れていた。


 閉店時間になったことを示す看板を店先に掲げ、使うとは思っていなかった道具を彼女に丁寧に掃除をしてもらう。掃除の仕方もやはり丁寧で、どうして今までこんな人財に恵まれなかったのかと不思議に思う。バイトは募集していたが、サボり癖のある子やお皿を割ってしまう子などと、とにかく恵まれなかった。最後の最後に出会ってしまったもので、チップをはずんでしまいそうになる。しかしもう使えない紙切れを渡しても困るだけかと、彼女が最初に言っていた言葉に甘えることにした。


 「お疲れ様。こんなおばさんに付き合ってくれてありがと。もう店じまいだから、後は家に帰って家族と過ごしな」


 そう声を掛けたのに、彼女はなぜかもじもじとして、このカフェから出る様子を見せない。服にコルセットがついているので、着心地が良いものとは言えないだろう。私だったら一刻も早く脱ぎ捨てたくなる。それなのに、彼女はそこに居座り続け、なにやら気恥ずかしそうに絞り出した。

 

 「良かったら、今から海を見に行きませんか?」


 親御さんのことが気にかかるが、さみしがり屋に魅力的なお誘い。その上に彼女の潤んだ瞳。断ることは出来なかった。


 「かなくらくぅ」は海辺に立てられたカフェで、裏手からすぐに海岸に向かうことが出来る。最寄りの駅からは少し離れてしまっているので客足は見込めないが、海が好きな私にとっては好立地で、地球最後のこの日にも、ざざーんと引いては寄せて、私の好きな波音を奏で続けている。


 8月のこの時間帯はちょうど日の入りの時間で、ただでさえ眩しい太陽が水平線に消えていく際、赤くその姿を転身させる。まるで線香花火のように落ちていったその火の玉は、最後に周辺を赤く紅く染めて、美しいグラデーションを空に映し出す。波の音とその綺麗な色彩は私を元気づけ、例えお客が来なくとも、また明日頑張ろうという気にさせてくれていた。


 今日も今日とて同じ景色を描いているのかと思いきやそんなことは無く、最後の晩餐ごほうびとばかりに美しい世界を作りだしていた。海の向こうには煌々と照り続けている太陽、周りは己の色である赤、そして白くなり、真上の空は宇宙の紺に染めている。その空には降り注ぐ無数の石槌。星の塵は尾を引きながら瞬いて、紺色の空に白い線を描いている。放射状に降り注ぐその星々の姿はまるで色鮮やかな彼岸花であった。


 「うわぁ綺麗……」

 「あれがこの地球に落ちてくるなんて考えられないよね」


 私が指さした先には頭上で一際輝いて見える隕石。地球の大気との摩擦で、スパンコールのドレスのようにそれを飾っている。石や岩がそうなるはず無いのに、そのドレスが隕石の色を曖昧にしている。私達二人はそんな色彩あふれる空色の下、海岸沿いをゆったりと歩いていく。彼女の靴底の厚いパンプスと私の使い古して底が薄くなったスニーカーが同じ足跡を砂浜に残す。ふと振り返ると、二人の轍がずっとずっと続いていた。長く永い自分たちの轍。人類の歴史と例えるにはおこがましすぎるが、まさにそれを描いていると錯覚してしまうほどにハッキリと足跡を残していた。


 「結局僕の人生。なんだか全部曖昧だったな。体つきも性別も。目的も、目標も。叶えようと頑張っても、実を結ぶ前に何かに邪魔される。何のために生きてきたんだろうなぁ……」


 しばらく黙って歩いていた二人だが、彼女が口火を切った。並んで歩いていて気づいたが、彼女は私よりも背が高く、確かにそこに「男の子であった」事実の残滓が見て取れる。私より高い位置にある彼女の目をみると、そこには安堵が宿っている。まるでこの人になら何でも言って良い。そのような信頼すらあるように見えた。その目をすこしそらして彼女は続ける。

 

 「実は僕、この性別になるの父親から反対されてたんです。というか、今も反対されてて。女男とか、気味が悪いだとか、人間として失敗作だとか。散々言われて生きてきたんです」


 思わず眉をひそめる。他人の家庭に口を出すつもりはないが、実の子どもに向ける言葉にしてはあまりにも冷酷過ぎる。それだけでなく、あの時開いた記憶の破片が、ネガティブの残滓を残している。まるであの人が言いそうな言葉だと、2つの理由で彼女の言葉に同情してしまった。まだ彼女は続ける。

 

 「それでも耐えて、耐えて。無理矢理行かされた大学なんて知らん顔でずっとバイトして。それでやっとこの服が着られるようになったんです。やっと自分らしく生きられるって思ったのに、地球が終わっちゃうなんて。なんか、頑張った意味無いんじゃ……って思っちゃいますね。記憶も曖昧だし」


 そう言って彼女は砂浜に転がっている貝殻を蹴った。コツンと音を立てて桃色の貝殻が砂を巻き込んで宙に舞う。


 「でも、そんなことどうでも良くなってくるぐらい今日が楽しかったです! 僕、店長さんに出会えて良かったなぁ……。 それ!」


 今度は彼女の靴が空を舞った。黒いリボンがはためいて海に落ちる。丁寧に手入れされていたその艶は海水によってどんどんと輝きを失っていく。高そうな靴だったためにひやりとするが、対照的に彼女の目には輝きが増していく。今度は嬉々として靴下を脱いで放り出し、スカートが濡れるのなんて気にせずに海に入り始めた。一体何を考えているんだ。大事にしていたものでは無いのか。様々な考えが交錯し、そのどれもが全部彼女の行動に不理解を示す。そして口から出たのは、母親のような言葉だった。


 「そんなにはしゃぐと濡れちゃうよ!」

 「でも気持ちいいですよ! ほら、母さんも」


 。この言葉で巡っていた考えも何もかもが一次停止する。


 頭の中が止まって、肌感覚が代わりに優れていく。海から夜風が吹き抜け、頭を冷やせと言わんばかりに首筋を心地よく冷やすが、それでも頭の中は整理できなかった。彼女も彼女で、なぜ自分が「母さん」なんて言葉を口にしたのか分かっていないようだ。手を止め、首をかしげるも、先ほどの笑顔を見せて笑う。


 「きっと勘違いしちゃったんですね! 店長さん優しいから。 母さんがいたらこんな感じだったのかな! あはは!!」


 笑ってのける彼女の姿は、言葉の重さなんて感じさせないぐらいあっけらかんとしていて、なんだか迷いが吹っ切れたような身軽さを纏っていた。ひとしきりはしゃいだ彼女はまた続ける。


 「母さんのことは良く父から聞いていました。口癖のようにずっと言っていたので、きっと記憶が曖昧になる前からそうだったんでしょう。全部が曖昧で、コーヒー1つ満足に作れないウスノロなのに、カフェなんて夢を持つ馬鹿女だって。それがどうしてか、たまらなく嫌だった」


 夕日に照らされた彼女は、逆光のなかでも分かるほどまっすぐにこちらを見る。さっき見せてくれた、まっすぐな、全てを受け入れてくれと言わんばかりの子どものような目。きっとここから始まるのは彼女の短い自分語りだ。彼女も彼女で、記憶の奥底にある出来るのなら触れたくない部分に手を伸ばしかけている。ならば聞かなければ。先ほど私がそうしたとき、彼女の心は側にいてくれた。コーヒーの暖かさだけで無い、心のぬくもりがそこにはあった。だから私もそうしなければ。心を側に、彼女の側に。彼女は続ける。


 「だから当てつけに、隠し持っていたこの服を着て、コーヒーを雑に作ってやりました。おとといから蒸らし続けた激渋コーヒー。あいつ、思い切り咳き込んでました。その姿を最後に見て、そしてこの地に来たんです」


 彼女はにへらと笑った。それは何でも無い、ただのいたずらのように思う。だが確かにそれは彼女が今に至った確かな道程だ。こぼれ落ちた帚星が、先ほどまで歩いていた足跡を照らす。

 

 「この地のカフェで働きたい。そう強く思って、朝から回ってたんです。迷惑なのは分かってましたけどね」


 肩の荷が下りたのか、楽しそうにくるくると周り、楽しそうにはしゃぎ始めた。海水に濡れ、しょぼくれてしまった服装から飛沫を飛ばし続ける。その飛沫はさらに複雑に太陽と星の光を反射し、彼女が黒い服装をしている事を忘れるぐらい明るく飾り付ける。今の彼女はどの星よりも輝いて見えた。

 

 「店長に会えてよかった。僕本当にそう思ってます。理由は分からないけれど」


 生きる意味なんてものは曖昧で、人類が地球を支配してから何世紀立ったが、誰もが聞いて納得するような答えを見つけられた人は今だ存在しない。


 地球上で起こる事なんてすべてが曖昧で、意味なんて見いだせないのが私が見つけたことだった。だから、私がこの瞬間から彼と呼ぶべきだと感じた直感も説明は出来ない。説明がつかないが、そうしてしまっていた。


 70億人も存在していながらも、大半が納得するような答えを見つけられない。答えを見つけるより先にこの星が砕けようとしている。海岸からは僅かに弧を描いた地平線が見える。そこに太陽は無く、頭上にきらめく星一つ。天に咲く一輪の彼岸花。花弁の流星まるで涙のように音も無くこぼれ、己が身を燃え散らし、着弾と当時に人の文化を派手に壊し始める。あちらこちらから炸裂音が聞こえる。ここは田舎なものだから、都会とは違って悲鳴は聞こえない。オーケストラのクライマックスは大きく盛り上がるもの。まさに地球の終幕フィナーレだ。この悲鳴の無い狂騒曲は、自分たちのために奏でられたのでは無いかと錯覚するほどに静かで、そして美しい。


 「結局僕の人生。なんだか全部曖昧だったな。体つきも性別も。目的も、目標も。叶えようと頑張っても、実を結ぶ前に何かに邪魔される。何のために生きてきたんだろうなぁ……」

 

 私は涙が止まらなくなっていた。理由は分からない。ただ、生きていて良かったと、ただ漠然とそう思っていた。漠然とした思いが胸を見たし、あふれ、まるで墜ちる星の双子のようにこぼれ、止めどなく落ちる。私のものは音も無く砂浜ににじんで消えたが、それでもこの思いが消えることは無く、徐々に隆盛を増していく。あふれ出た思いは体を突き動かし、そして考えるより先に彼に抱きついていた。彼の体は私が想像していたよりたくましく、骨張って硬い胸板に当てた頭が僅かに痛む。だがそんなことどうでも良くなるぐらい暖かい。鼓動の音が耳を伝って心に届く。


 彼の胸元で、私は私が生きていた意味を見つけたのだ。

 

 「曖昧で、分からなくてもいいじゃんか。それが実ちゃんだよ」


 涙がこぼれ、止まらなくなる。それでも私はなんとか絞り出す。肥大化した感情に喉を潰されていて、まともな言葉を放てない。代わりに出るのは声にならない叫びだけ。しかしあふれ出るのは仕方の無いことだ。なにせこちらには22年分の思いがあるのだから。


 大きな石の彼岸花から、また一つ花弁がこぼれ落ちた。あれは何処に落ちていくのだろう。絶望を体現するのだろうが、どうか誰かの幸せに繋がってくれと願わずにはいられなかった。涙にその光が反射して、今度は二つの星光が、地球の方から放たれる。遠く遠く離れた宇宙、隕石はこの光を重ねて見ただろうか。隕石には一つの星に見えただろうか。私達が作ってきた轍は一本に見えているだろうか。私達は、二つに見えていないことが何よりも嬉しかった。落ち行く流れ星に願いを込める。もう二度と離さないでくれと。来世ではまた一緒にあれるようにと。抱きついた手がもう二度と離すものかと言わんばかりに力を込める。彼の表情は見えないが、私のようになっていてほしい。


 誰もいない海岸に、恥ずかしいほどの大きな私の泣き声がこだまする。星にも聞こえそうな大きな声で。でもそれも仕方ないじゃないか。だって彼は……


 あの時会うことが出来なかった、たった一人の息子。坂本 実なのだから。

 

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